退職勧告は突然に(物理)
領都の中心にそびえ立つ、代官バルトの豪邸。
夜の帳が下りた隠し部屋で、丸々と太ったバルトは上機嫌で金貨を数え、高級なワインをグラスで揺らしていた。
「愚かな小娘め。あの小賢しい文官のヴィンスとやらと地下室で大人しく埃でも被っていればいいものを」
バルトは脂ぎった顔を歪めて笑った。
領主夫婦は病気で伏せっており、完全に飾り物。王都から逃げ帰ってきた令嬢など、適当にあしらっておけばいずれ勝手に音を上げるだろう。
彼にとって、この領地は自らの私腹を肥やすための巨大な財布だった。
その時。
部屋を照らしていた数本の蝋燭の火が、フッと一斉に消えた。
「……ん?なんだ風か?」
バルトがいぶかしんで立ち上がろうとした、次の瞬間。
背後に氷のような気配が立ち上り、振り返る間もなく、ひんやりとした鋼の刃が彼のたるんだ首筋にピタリと当てられた。
「こんばんは、悪徳代官殿。お嬢の命令で、ちと『お掃除』に来たぜ」
闇の中から、ルシアンの低い声が響いた。
バルトの心臓が早鐘を打つ。屋敷には屈強な私兵を何人も配置していたはずだった。それが、一切の物音も立てずにこの最深部まで侵入されたというのか。
「ひっ……! き、貴様、何者だ! 望みは金か!」
「声を出せば、即座に喉笛をかっ切る。大人しくそこにある裏帳簿の束と、隠し金庫の鍵を渡しな」
ルシアンは刃をわずかに押し当て、バルトの首筋から一筋の血が流れた。
恐怖でガタガタと震えながら、バルトは言われるがままに帳簿と鍵を差し出すしかなかった。
分厚い帳簿の束を革袋に放り込み、ルシアンは暗闇の中でニヤリと凶悪に笑った。
「安心しろ、足の腱は切らないでおいてやる。お嬢が『明日の朝、自分の足で絶望に向かって歩いてくる姿が見たい』って言ってたからな」
その言葉を残し、銀髪の男は窓枠を蹴って夜の闇へと溶けていった。
床にへたり込んだバルトは、しばらくの間、恐怖で声すら出すことができなかった。
その頃、伯爵邸のクリスティアの自室。
カチャリ、とソーサーにティーカップを置く優雅な音が響いた。
「素晴らしい香りですわ。やはり王宮で出されていた出涸らしのようなお茶とは違いますわね」
クリスティアはソファーに深く腰掛け、ゆったりと紅茶を楽しんでいた。
対照的に、向かいの席に座らされたヴィンスは、顔を真っ青にしてガクガクと震え、胃の辺りを必死に押さえていた。
「お、お嬢様……本当に大丈夫なのでしょうか。ルシアン殿が捕まったり、あるいは代官が逆上して今すぐ私兵を向けてきたりしたら……!」
「ヴィンス。深呼吸なさい。胃に穴が空きますわよ」
クリスティアは呆れたように息を吐いた。
前世の経験から、彼女は知っていた。
こういう緊急事態の時こそ、上に立つ人間が堂々としていなければ、下っ端は余計にパニックを起こすのだ。
「それに、ルシアンがヘマをするはずがありませんわ。あのポンコツ王子の周囲で暗躍していた裏社会の人間の中でも、彼はトップクラスの腕でしたから」
「ただいま戻ったぜ、お嬢」
ヴィンスが悲鳴を上げる暇もなく、開け放たれた窓から音もなくルシアンが降り立った。
その手には、ずっしりと重い革袋が握られていた。
「ご苦労様、ルシアン。紅茶を淹れてありますわよ」
「そりゃありがてえ」
ルシアンが革袋をテーブルに放り投げると、中からバルトの直筆サインが入った裏帳簿や、ダミー会社との密約書が次々と滑り出てきた。
「さあ、ヴィンス。必要な証拠は全て揃いましたわ」
クリスティアは扇子を広げ、口元を隠して目を細めた。
「夜明けまでに、これらと表の帳簿を照らし合わせて、完璧な告発状と解雇通知書を作り上げなさい。ここからが本番ですわよ」
「よ、夜明けまで!? この量を、私一人でですか!?」
「私も手伝いますわ。さあ、ペンを執りなさい。スローライフを手に入れるための、栄えある残業の始まりですわ!」
こうして、主従三人による徹夜の事務作業(監査)が幕を開けた。
そして、翌朝。
伯爵邸のエントランスに、顔を真っ赤に怒張させたバルトの怒号が響き渡った。
「ふざけるな! 領主代行であるこの私に、昨夜賊が押し入ったのだぞ! 警備の者どもは何をしている! すぐに公爵閣下をお呼びしろ!」
彼はクリスティアの仕業だと確信し、病床の両親に直訴して、あの小生意気な令嬢を領地から叩き出そうと乗り込んできたのだ。
だが、大階段の上から彼を見下ろしていたのは、扇子を優雅に広げたクリスティアだった。
「朝からずいぶんと騒々しいですわね、バルト代官」
「く、クリスティア様! 貴女の差し金ですね!? 領主の代理たる私にこのような狼藉、断じて許されるものでは……!」
「領主代理? 誰がですの?」
クリスティアは冷たく言い放ち、扇子をパチンと閉じた。
彼女の背後から、目の下に立派なクマを作ったヴィンスが、フラフラと一歩前に出て、美しく束ねられた分厚い書類を突きつけた。
「バルト代官。貴殿の過去三年間の横領、架空請求、不法な重税の徴収、ならびに領土法違反を裏付ける証拠が完全に揃いました」
「なっ……! そ、そんなものは捏造だ! 領主閣下に直接申し開きを──」
「捏造? 貴方の隠し金庫にあった、ご丁寧な直筆サインと実印入りの裏帳簿ですわよ」
クリスティアは手すりから身を乗り出し、バルトを氷のような視線で射抜いた。
「言い逃れはさせませんわ。バルト、貴方は本日付で懲戒解雇です。もちろん、横領した金額は全額返還していただきますわよ。足りない分は……そうですね、貴方の親族のダミー会社を全て差し押さえて補填させてもらいましょうか」
「き、貴様ぁぁぁ!」
完全に逃げ道を塞がれ、逆上したバルトが懐から護身用の短剣を抜き、クリスティアに向かって階段を駆け上がろうとした。
だが、次の瞬間。
バルトの巨体は宙を舞い、大理石の床に激しく叩きつけられていた。
「がはっ……!?」
「おっと。お嬢に近づくなよ、豚」
いつの間にか階段の下に回り込んでいたルシアンが、バルトの腕を捻り上げ、冷たい目で見下ろしていた。
「連行しなさい、ルシアン。ああ、それからヴィンス」
クリスティアは振り返り、完璧な悪役令嬢の笑みを浮かべた。
「次は、あの男に媚び諂い、甘い汁を吸っていた中堅役人たちのリストアップですわ。今日の定時(夕方)までに、全員分の解雇通知書を作成なさい」
「て、定時まで!? 無理ですお嬢様、何十人いると……!」
「やれば終わりますわ。さあ、私達のスローライフのために、今日も一日死ぬ気で働きましょう!」
ブラック領地の大掃除は、まだ始まったばかりだった。
(お嬢様も十分ブラックでは…)
「ヴィンス、何か仰って?」
「い、いえ…」




