社長への昇進(代表権の譲渡)は突然に
ローズウッド領に温泉リゾートが誕生し、超優秀な中途採用(元ヒロイン)が加入してからさらに数週間。
領地の運営は、もはやクリスティアが指一本動かさずとも完璧に回る『全自動不労所得システム』へと進化を遂げていた。
「お嬢様、本日の決裁書類はゼロです。全て私とリリィの権限内で処理を完了いたしました」
「完璧ですわ、ヴィンス、リリィ。貴方たちには来月の給与に特別手当を上乗せしておきますわよ」
「「ありがとうございます、クリスティア様!!」」
執務室で深々と頭を下げるツートップ(ヴィンスとリリィ)を見つめながら、クリスティアは優雅に扇子を揺らした。
(ついに……ついにこの日が来た! 私の労働時間が、ついに『一日ゼロ分』に到達したのよ!!)
心の中で狂喜乱舞のステップを踏むクリスティア。
もはや彼女は、領主の椅子に座って美味しい紅茶を飲み、有能な部下たちを褒めるだけの存在と化していた。
(これで残る懸案事項はただ一つ。病気療養中の両親が回復し、私が『領主代行』という責任あるポジションから完全に降りること。実権を親に返還して、ただの『穀潰しの令嬢』になれれば、私のスローライフ(ニート生活)は永遠のものとなるわ!)
クリスティアがそんな甘い未来図を描いていた、まさにその時だった。
「クリスティア。少し良いかい?」
執務室の扉が開き、二人の人物が姿を現した。
ローズウッド伯爵とその妻──つまり、クリスティアの両親である。
「お父様、お母様! お体の具合は──」
立ち上がったクリスティアは、両親の姿を見てパチンと扇子を取り落としそうになった。
数ヶ月前、クリスティアが領地に帰還した際に挨拶した両親は、顔色が悪く、ベッドから起き上がるのもやっとという痛ましい姿だった。
しかし、今の二人はどうだろう。
「いやあ、お前が作ってくれたあの『温泉』という施設、本当に素晴らしいね! 毎日湯治に通い、専属のマッサージ師(※ルシアンがスカウトした元・関節技の達人)に揉んでもらっていたら、持病の腰痛もすっかり消えてしまったよ!」
「ええ、それに食堂で出される薬膳料理とフルーツ牛乳のおかげで、お肌もツヤツヤですわ。まるで二十代の頃に戻ったみたい!」
両親の頬は血色良く輝き、足取りは羽のように軽く、全身からハツラツとした生命力が溢れ出していた。
温泉の効能と、ストレスフリーな環境(悪徳代官がいなくなったこと)が、彼らを完全に健康体へと若返らせてしまったのだ。
(よっしゃあああああ!! これで完全リタイアできる!!)
クリスティアの脳内で、祝砲が何十発も打ち上げられた。
両親が健康になったのなら、もはや自分が領地を預かる理由はない。
「それは素晴らしいことですわ、お父様、お母様! さあ、これがお父様の不在中にわたくしがまとめた領地の帳簿と、業務マニュアルです! わたくしはただの『代行』。今日から、この領主の座はお父様に──」
「いや、クリスティア」
伯爵は、クリスティアが差し出した書類を優しく、しかしきっぱりと押し留めた。
「え?」
「私と妻はね、療養中に領内を歩き回って、領民たちの声を聞いたのだよ。皆、口を揃えてお前のことを讃えていた。『クリスティア様は恐ろしいお方だが、我々の生活を根本から豊かにしてくれた救世主だ』とな」
伯爵は、執務室で働くヴィンスとリリィを見渡した。
「かつて地下室で埃を被っていたヴィンスが、こんなに立派に領地を回している。それに、そちらの可愛らしいお嬢さんは……もしや、噂に名高いリリィ・フィールド男爵令嬢かい?」
「は、はい! クリスティア様の下で、粉骨砕身、法令遵守で働かせていただいております!!」
リリィがビシッと、軍人のような見事な敬礼を決める。
その様子を見て、伯爵は深く頷き、クリスティアの両肩をガシッと掴んだ。
「クリスティア。お前は、私など足元にも及ばない立派な為政者だ。……よって、私と妻は本日を以て『早期リタイア』し、ローズウッド家の当主の座(代表権)をお前に譲ることに決めたよ!」
「………………はい?」
クリスティアの思考が、完全に停止した。
「これからはお前が正式なローズウッド伯爵だ! 私たちは毎日温泉に浸かりながら、お前の素晴らしい治世をのんびり見守らせてもらうからね!」
「がんばってね、クリスティア。貴女ならきっと、この領地を国一の豊かな場所にできるわ!」
満面の笑みで親指を立てる両親。
その言葉の意味を脳が理解した瞬間、クリスティアの足元がグラリと揺れた。
(ちょっと待って。早期リタイア? 当主の座を譲る? つまりそれって……)
『最高責任者(CEO)』への、強制的な昇進。
もし今後、領地で何か大きなトラブルが起きたり、王家と本格的な対立が起きたりした場合、全ての責任は「正式な当主」であるクリスティアが負わねばならない。
究極のニート生活(全責任の放棄)を目前にして、まさかの「代表取締役就任」という、社畜にとって最も逃げられない重い鎖を首に巻かれてしまったのだ。
「ま、待ってくださいませ、お父様! わたくしはまだ若輩者! それに、わたくしは悪役令嬢として王都を追放された身! そんな人間が正式な当主に──」
「別に良いじゃないか、お嬢!」
クリスティアの悲鳴を遮ったのは、いつの間にか執務室の窓枠に座っていたルシアンだった。
「お嬢の悪名なんて、今やこの領地じゃ『最強のブランド』だぜ。近隣の領主たちも、お嬢が正式に当主になれば、恐れをなして絶対に変なちょっかいはかけてこなくなる。防衛戦略としても完璧だ」
「ルシアン! 貴方、ちょっと黙って──」
「おめでとうございます、クリスティア『新・伯爵』!!」
ヴィンスが感極まった声で拍手を始めた。
「お嬢様が正式なトップに立たれるなら、もはや恐れるものは何もありません! 我々事務方は、一生お嬢様についていきます!」
「私もです! クリスティア様が当主になられるなら、これほど心強いことはありません! 一生定時退社でついていきます!」
リリィも目を輝かせて拍手喝采を送る。
両親、右腕、左腕、そして最強の秘書。
全方位から向けられる純度百パーセントの「期待」と「信頼」という名の重圧に、クリスティアは逃げ道を完全に塞がれてしまった。
(あああああっ……! なんでこうなるのよ!? 私はただ、誰にも文句を言われずに、ダラダラと昼寝をしてお菓子を食べて生きていきたかっただけなのに!!)
内心で血の涙を流しながら、前世の社畜のサガなのか、それとも染み付いた悪役令嬢の矜持なのか。
クリスティアは震える手でパチンと扇子を広げ、ゆっくりと口元を隠した。
「……左様ですか。お父様がそこまで仰るのなら、謹んでこのローズウッド領、わたくしが頂いて差し上げますわ。オーホッホッホ……!」
(こうなったら意地でも! 何が起きても! 全部部下にぶん投げて、絶対に残業なんかしてやらないんだからーーっ!!)
広場に響き渡るような高笑いの裏で、不退転の決意を固める新・ローズウッド伯爵。
スローライフへの道は、一歩進んで二歩下がる。
しかし、彼女が作り上げた「最強のホワイト企業」は、名実ともに彼女の城として、さらなる発展(と近隣諸国への波及)を遂げていくことになるのだった。




