ブラック元上司(王太子)の襲来と、未払い賃金(サビ残代)の請求
ローズウッド伯爵邸の正門前に、けたたましい蹄の音と共に王家の紋章を掲げた馬車が滑り込んだ。
豪華な装飾が施された馬車だが、車体は泥だらけで、御者も護衛の騎士たちも極度の疲労で顔面を蒼白にしている。
昼夜を問わず、馬を潰す勢いで王都から駆け通してきたことは誰の目にも明らかだった。
「開けろ! 第一王子、エドワード殿下の御成であるぞ!」
騎士の一人が声を張り上げる。
ゆっくりと開かれた鉄扉の向こう、エントランスの大階段の上で彼らを待ち受けていたのは、純白のドレスに身を包み、優雅に扇子を広げたクリスティアだった。
その両脇には、分厚いファイルの束を抱え、眼鏡を光らせるヴィンスと、いつでも剣を抜ける体勢でニヤリと笑うルシアンが控えている。
完璧な迎撃陣形である。
馬車の扉が開き、ふらつく足取りで降りてきた人物を見て、クリスティアは内心で「うわぁ」と顔をしかめた。
「ク、クリスティア……!」
そこにいたのは、かつての輝くような金髪をボサボサに乱し、目の下に漆黒のクマを作り、頬をゲッソリとこけさせたエドワード第一王子だった。
彼が身にまとっているのは、王太子の威厳など微塵も感じさせない、ただの「過労死寸前の社畜」のオーラである。
(なによあの顔! 一ヶ月前の私と全く同じじゃないの! ざまぁみやがれですわ!)
クリスティアは心中で盛大にガッツポーズを決めつつも、表面上は完璧な「冷酷なる悪役令嬢」の仮面を被った。
「これはこれは、エドワード殿下。このような辺境の地に、一体どのようなご用件でしょうか。わたくしのような『嫉妬に狂った冷酷な女』の顔など、二度と見たくないと仰っていたはずですが?」
「うぐっ……! そ、それは……」
エドワードは痛いところを突かれ、言葉に詰まった。
だが、彼は咳払いを一つして、何とか王族としての尊大さを取り繕おうと顎を上げた。
「クリスティア。お前のその反省の色もない態度は相変わらずだが……特別に、俺が直々に許してやろう。荷物をまとめろ。直ちに王都へ戻り、俺の妃としての業務を再開するのだ」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィンスは「は?」と素っ頓狂な声を漏らし、ルシアンは「傑作だな」と鼻で笑った。
クリスティアに至っては、怒りを超えて呆れ果ててしまった。
自分が無実の罪で婚約破棄を突きつけた相手に対し、謝罪はおろか「許してやるから働きに戻れ」と言い放つ。ブラック企業の上司にありがちな、自分の都合しか見えていない末期的な自己中心思考だ。
「……お断りいたしますわ」
クリスティアは扇子をパチンと閉じ、冷ややかに言い放った。
「なっ……!? お断りだと!? 王太子たる俺からの、寛大な命令だぞ!」
「ええ、お断りです。わたくしは現在、このローズウッド領で定時退社と週休二日制のスローライフを満喫しておりますの。
わざわざ過労死と隣り合わせのブラック王宮に戻る理由が、一ミリたりとも存在しませんわ」
「ぶ、ぶらっく……!? 何を言っている! お前がいないせいで、俺は連日徹夜で書類の山と格闘し、リリィは使い物にならず、王宮の政務は完全に麻痺しているんだぞ! お前には、俺を支える義務があるはずだ!」
ついに本音(泣き言)をぶちまけたエドワードに、クリスティアの堪忍袋の緒がブチッと音を立てて切れた。
「義務? 支える? 笑わせないでちょうだい!」
クリスティアは階段を一段降り、エドワードを見下ろして激しい怒声を叩きつけた。
「わたくしが王宮にいた五年間! 貴方はわたくしに政務の九割を押し付け、自分は剣術の稽古だのお茶会だのと遊び歩いていたではありませんか! あの膨大な業務を無給・無休でやらせておいて、自分の処理能力が追いつかなくなった途端に『戻ってこい』ですって!? 貴方、それでも次期国王を名乗るおつもり!?」
「ひぃっ……!」
剣幕に押され、エドワードは情けなく後ずさりした。
「ヴィンス! アレを出しなさい!」
「はっ! かしこまりました、お嬢様!」
クリスティアの合図と共に、ヴィンスが進み出た。
彼は眼鏡をクイッと押し上げると、抱えていた分厚いファイルの束から、一枚の長大な羊皮紙を引き出した。
「エドワード殿下。当ローズウッド家法務・経理担当のヴィンス・リードと申します。こちらをご確認ください」
「な、なんだこれは……」
「クリスティアお嬢様が王宮で従事されていた過去五年間の『時間外労働(サビ残)』および『本来殿下が処理すべき政務の代行業務』に対する、未払い賃金の請求書でございます」
ヴィンスは淡々と、しかし恐るべき滑舌で読み上げ始めた。
「基本給与ゼロという違法状態からの遡り計算に加え、深夜割増、休日出勤割増、さらに不当な婚約破棄に伴う名誉毀損の慰謝料、精神的苦痛に対する損害賠償を合算しまして──総額、金貨十万枚(※国家予算の約一割)となります」
「じゅ、じゅうまん……っ!?」
エドワードの目が零れ落ちんばかりに見開かれた。
「払えるわけがないだろう! そんな莫大な金額!」
「おやおや、払えないのに労働者を呼び戻そうとしたのですか? それは完全な『労働搾取』ですわね」
クリスティアは扇子で口元を隠し、冷酷に笑った。
「もちろん、王家がこの支払いを拒否されるというのなら、わたくしにも考えがありますわ」
「か、考え……?」
「この請求書の詳細な内訳……つまり、『第一王子がいかに無能で、全ての政務を伯爵令嬢に丸投げしていたか』という客観的証拠を、他国の王族や国内の有力貴族たちに全て公開させていただきます」
それは、次期国王としてのエドワードの政治的生命を完全に絶つという、無慈悲な宣言だった。
エドワードは膝から崩れ落ちた。顔面は土気色になり、ガクガクと震えている。
「や、やめてくれ……! それだけは……俺の、俺の立場が……っ!」
「ならば、二度とわたくしの前にその顔を見せないことですわ。
わたくしは今、領民たちと共に素晴らしいホワイト経営を行っておりますの。貴方のような疫病神に構っている暇はありません」
クリスティアが背を向けると、ルシアンがすかさずエドワードの前に立ち塞がった。
「そういうわけだ、殿下サマ。お嬢の定時を邪魔するってんなら、俺が相手になるぜ? 王族だろうがなんだろうが、俺の剣は容赦しねえからな」
ルシアンの全身から放たれる圧倒的な殺気に、エドワードのみならず、護衛の騎士たちまでが一斉に悲鳴を上げて後ずさった。
もはや、彼らに刃向かう気力など微塵も残っていなかった。
「お、覚えていろよぉぉっ……!!」
エドワードは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、這うようにして馬車に転がり込んだ。
「出せ! 早く出せぇ!」という悲痛な叫びと共に、王家の馬車は来た時以上の猛スピードで、土煙を上げて逃げ去っていった。
「……行きましたわね」
「はい、お嬢様。見事な撃退でございました」
「傑作だったぜ、お嬢。あの王子の情けねえ顔ときたら!」
遠ざかる馬車を見送りながら、主従三人は顔を見合わせた。
「よくやってくれました、二人とも。ヴィンスの請求書も完璧でしたわ」
「恐縮です。もし本当に裁判になっても絶対に勝てるよう、判例と証拠を徹夜で……いえ、業務時間内に完璧に揃えておきましたから」
ヴィンスは誇らしげに胸を張った。
彼もまた、クリスティアの教育(ホワイト化)の賜物である。
「これで、王家も迂闊に手出しはできないはずですわ。私の愛すべきスローライフに、ついに本物の平和が訪れましたのよ!」
クリスティアは両手を広げ、天を仰いで高らかに宣言した。
王家という最大の脅威を「労働基準法(物理と証拠)」で撃退したローズウッド領は、もはや誰にも侵すことのできない絶対的な独立ホワイト国家として完成したのだ。
「さあ、お茶の続きにしましょう! 今日の午後はたっぷり昼寝をして、夕食にはシロの特製ディナーをいただきますわよ!」
「はいっ、お嬢様!」
「お供するぜ、お嬢」
悪役令嬢としての汚名を被り、過労死の恐怖から逃れて辺境の地へと追放されたクリスティア。
しかし彼女は、前世の社畜スキルと強靭なメンタル、そして有能な部下たちを駆使することで、自らの手で「最強のホワイト企業」を掴み取ったのである。
定時退社の鐘が、今日もローズウッド領に平和に鳴り響く。
クリスティアの戦いは終わらない。なぜなら、労働環境の維持・改善に終わりはないのだから。
だが、今の彼女の顔には、かつて王宮で見せていたような死んだ魚の目は微塵もない。
そこにあるのは、自らの人生を謳歌する、美しくも不敵な令嬢の笑顔だけだった。




