念願の不労所得(スローライフ)と、忍び寄る社畜の影
ローズウッド領に「絶対教典」が導入され、怒涛の新人研修が終了してから一ヶ月後。
クリスティアは、ついに念願の「完璧な朝」を迎えていた。
時刻は午前十時。
小鳥のさえずりで優雅に目を覚まし、ふかふかのベッドの中で二度寝の誘惑にわざと負けてみる。
誰にも急かされることなく、自らの意思で起き上がる。
着替えを済ませ、日差しが差し込む明るいテラス席へと向かうと、そこには完璧にセッティングされた遅めの朝食兼ティータイムが用意されていた。
「おはようございます、お嬢様。本日の領地の状況ですが、極めて平穏です」
血色の良い顔で、ヴィンスが深々と一礼した。
一ヶ月前まで死にかけた亡霊のようだった彼の姿は、今や見る影もない。
髪は綺麗に撫で付けられ、肌にはツヤがあり、何より「定時退社でたっぷり睡眠をとっている人間の余裕」に満ち溢れていた。
「おはよう、ヴィンス。税収の報告書は?」
「こちらに。不正を根絶し、適正な税率に戻したにも関わらず、領民の生産性が飛躍的に向上したため、先月比で税収は百二十パーセントの増加を見込んでおります」
「素晴らしいわ。オーホッホッホ!」
クリスティアは扇子を広げ、高らかに笑った。
(きた! きたわ! 誰も過労死しないホワイトな環境で、私の不労所得が勝手に増えていく無敵のシステム! これぞまさにスローライフの極み!!)
歓喜に打ち震えながら、クリスティアはテーブルに置かれた本日のスイーツにフォークを入れた。
ルシアンが裏社会のツテで「刃物より包丁を握る方が向いている」とスカウトしてきた、元暗殺者のパティシエ・シロが焼き上げた絶品のフルーツタルトだった。
サクサクの生地と上品な甘さが、疲れ知らずの身体に染み渡っていく。
「シロのタルトは今日も絶品ですわね。彼にもきっちり特別ボーナスを出しておきなさい」
「はっ。シロ殿も『暗殺よりケーキ作りにお金を払ってくれるなんて、お嬢様は女神だ』と涙を流して喜んでおりました」
「オーホッホ! 褒めても定時には帰らせますわよ!」
領主邸は今、完全に平和な空気に包まれていた。
新人文官たちはマニュアルに沿って正確無比に業務をこなし、何かトラブルが起きても「エスカレーション・ルール(報告連絡相談の徹底)」によって、ヴィンスの段階で即座に処理される。
クリスティアの元に上がってくるのは、最終的な「承認」が必要な重要書類だけであり、その作業は一日のうちわずか数十分で終わるようになっていた。
お茶を飲み干し、さて午後は何をしようか(主に昼寝の場所探し)と考えていた、その時だった。
「お嬢、優雅な朝を満喫してるところ悪いが、ちと厄介な知らせだ」
テラスの屋根から、音もなくルシアンが降り立った。
領内の不正役人が一掃されたことで、「掃除」の仕事が激減し、最近はもっぱら領内の見回り(という名の散歩)をして暇を持て余していた彼だが、その目はいつになく鋭く光っていた。
「どうしましたの、ルシアン。近隣の魔物でも出ましたか? それとも、またバルトの残党が?」
「いや、そんな可愛いモンじゃねえよ」
ルシアンはニヤリと凶悪な笑みを浮かべ、王都の方角を親指で指し示した。
「街道の見張りが確認した。王家の紋章をデカデカと掲げた馬車が、護衛の騎士団を引き連れて、猛スピードでこのローズウッド領に向かってる」
「……は?」
クリスティアの手に持っていたフォークが、カチンと皿に落ちた。
王家の馬車。それが意味するものは一つしかない。
「お、お嬢様……! まさか、エドワード第一王子殿下が、ご自身で婚約破棄の撤回にいらしたのでは……!?」
「っ……!?」
ヴィンスの言葉に、クリスティアの背筋をゾクリと悪寒が駆け抜けた。
(嘘でしょ!? あのポンコツ王子、まさか私が抜けたことで仕事が回らなくなって、泣きつきに来たんじゃ……!)
前世の記憶がフラッシュバックする。
『お前がいないと現場が回らないんだ!』
『頼む、戻ってきてくれ! 役職も給料も(口約束で)上げるから!』
有能な社員が辞めた途端、慌てて引き留めに来るブラック企業のクソ上司たちの常套句。
一度退職の味を知ってしまった社畜にとって、それほどおぞましく、身の毛のよだつ言葉はない。
「冗談じゃないわ……ッ! 私の、私のこの愛おしいスローライフを、不労所得を、週休二日制を奪いに来ただなんて……断じて許しませんわ!!」
クリスティアはガタッと椅子から立ち上がり、扇子をバシッと開いた。
先ほどまでの優雅な令嬢の顔は完全に消え失せ、自らの生活圏を脅かす外敵を前にした「悪役令嬢」の顔になっていた。
「ヴィンス! ルシアン! 直ちに迎撃態勢(物理および法廷闘争)に入りますわよ!」
「げ、迎撃って……相手は王族ですよ!? 物理はまずいですって!」
「王族だろうが神様だろうが関係ありませんわ! 定時退社を邪魔する奴は、全員リストラ候補です! 私が直々に、あのブラック王宮に『労働基準監督署』の恐ろしさを叩き込んでやりますわ!!」
「ハッ、面白え! 久しぶりに大暴れできそうだぜ!」
青ざめるヴィンスと、剣の柄に手をかけて歓喜するルシアンを従え、クリスティアはドレスの裾を翻した。
平和なスローライフは、わずか一ヶ月で強制終了の危機を迎えていた。
元社畜の伯爵令嬢vs ブラック王宮の使者。
ローズウッド領の防衛線(絶対定時退社死守ライン)を懸けた、最大の戦いが始まろうとしていた。




