憧れの王太子妃は、ブラック職種でした
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ローズウッド伯爵令嬢であるクリスティアが「王太子妃」という存在を明確に認識したのは、まだ五歳の頃だった。
「王太子妃というのはね、クリスティア。美しいドレスを着て、立派な王太子殿下の隣で国を支える、世界で一番素晴らしいお仕事なんだよ。
いつか我がローズウッド家からも、そんな立派な人が輩出されるといいのだがね」
病弱で、一年の大半をベッドの上で過ごしていた父は、美しい装丁の絵本を読み聞かせながらそう語った。
挿絵に描かれたお妃様は、光り輝くティアラを戴き、民衆に優しく微笑みかけている。幼いクリスティアの目に、それはキラキラと輝く魔法使いのように映った。
いつか私も、あんなふうに国中から愛される素敵なお妃様になりたい。
それが、少女の密かな夢だった。
その夢が現実のものとなったのは、彼女が十歳を迎えた春のことだ。
数多の高位貴族の令嬢たちの中から、魔力量、教養、そして品格を見込まれ、なんと一介の伯爵家から王太子の婚約者として大抜擢されたのである。
「お父様、お母様! 私、選ばれました! 殿下を支える、立派な王太子妃になってみせます!」
報せを受けた日、クリスティアは病床の両親と抱き合い、嬉し涙を流した。
これから始まるのは、絵本で見たような美しく輝かしい日々。
立派な王太子と共に、国をより良く導いていくのだと、希望に胸を膨らませていた。
──しかし。
その五年後、十五歳になったクリスティアは、王城の薄暗い執務室で死んだ魚のような目をしていた。
「……また、殿下の未決裁書類が増えている」
クリスティアの目の前にあるのは、重厚なデスク。
そして、その上に山脈のようにそびえ立つ羊皮紙と書類の山だった。
本来であれば王太子が処理すべき、各領地からの陳情書、来年度の騎士団の予算案、果ては近隣諸国への親書の草案までが、なぜか「婚約者」であるクリスティアの机に積まれている。
王太子妃教育という名目で城に上がった当初は、礼儀作法や歴史、語学の勉強だった。
だが、一年が経つ頃、婚約者であるエドワード第一王子が「将来、国を治めるための練習だ」と持ち込んできた一部の書類を手伝わされたのが運の尽きだった。
生真面目で優秀だったクリスティアが完璧に書類を捌いてしまったせいで、エドワードは味を占めたのだ。
いつの間にか仕事の大部分がクリスティアに回されるようになり……気づけば、執務の九割を彼女が無給で代行させられていた。
「クリスティア、悪いが今日の午後は騎士団と剣術の稽古があるんだ。その書類、明日の朝議までにまとめておいてくれ。なに、お前は優秀な『俺の妃』だからな、これくらい容易いだろう?」
金髪を揺らし、爽やかな笑顔を振りまいて、エドワードは颯爽と執務室を出て行く。
その後ろ姿を見送りながら、クリスティアは手元の羽ペンをへし折りたい衝動を必死に堪えた。
(……てめえでやれよ、このポンコツ王子)
疲労で霞む頭で毒づく。
睡眠時間は削りに削られ、ここ一週間はまともにベッドで寝ていない。美しいはずの金糸の髪は手入れをする暇もなくパサパサになり、目の下には高級なコンシーラーで必死に塗りつぶした真っ黒なクマが鎮座している。
ドレスの下の体は痩せ細り、時折激しい眩暈に襲われるようになっていた。
王太子妃とは、国を支える素晴らしい仕事。
幼い日の両親の言葉は“嘘“ではなかった。
ただ、それが「物理的な激務」であり、「サビ残過多・休日なし・モラハラ上司(婚約者)付き」の超絶ブラック環境だとは教えてくれなかっただけだ。
そして運命の夜。
三日連続の徹夜作業の末、北部の治水工事の予算案に署名をしようとした瞬間、クリスティアの視界が唐突に暗転した。
(あ……これ、死ぬ……)
冷たい床に体が崩れ落ちる感覚と共に、彼女の脳内に全く別の記憶が奔流となって押し寄せてきた。
深夜のオフィス。鳴り止まない電話。終わらない入力作業。「明日の朝までにこれ全部終わらせといてね」と笑う上司。
冷え切ったコンビニ弁当。
そして、駅のホームで見つめた、眩しすぎる終電のヘッドライト──。
前世の記憶と今の状況が完璧にリンクした瞬間、クリスティアは医務室のベッドの上でガバッと跳ね起きた。
「前世でも過労死したのに、今世でも過労死ってたまるかぁぁぁッ!!」
周囲にいた侍女たちが悲鳴を上げたが、クリスティアの耳には入らなかった。
前世の彼女は、ブラック企業で身を粉にして働き、そのまま二十代で命を落としたしがない社畜OLだった。
せっかく貴族の令嬢に生まれ変わったのに、また同じ死に方をするなんて絶対に御免だ。
(…辞める。絶対に婚約破棄して、退職してやる!)
固く決意した彼女の目に留まったのは、最近エドワードが夢中になっているという、リリィ・フィールド男爵令嬢の存在だった。
ピンクゴールドの髪に、庇護欲をそそる愛らしい瞳。
男爵家という身分の低さから貴族社会には疎いが、明るく純真な性格でエドワードの心を射止めている「ヒロイン」である。
(あの娘だ。あの娘に私の業務を引き継ごう。私は彼女をいじめる『悪役令嬢』を演じて、このブラック職場から盛大に懲戒解雇になってやる!)
そこからのクリスティアの行動は、前世で培ったタスク管理能力が遺憾なく発揮された。
ある日は、図書室で勉強していたリリィの机に、分厚い王宮法典と過去五年分の経理書類の束をドサッと叩きつけた。
「あなたのような平民上がりのお頭で、王太子妃の仕事が務まるのかしら!? 明日までにこの第一章を全て暗記し、要約を提出なさい!」
(※要約を通じて、王太子妃に必須となる最低限の法務知識を叩き込むスパルタOJT研修である。付箋で重要な箇所をマークアップ済み)
またある日は、エドワードとリリィが中庭で良いムードになっているお茶会に、扇子を鳴らしながら乱入した。
「殿下! わたくしという婚約者がありながら、このような真似、許せませんわ!」
ドンッ、とテーブルに置かれたのは、エドワードが放置していた未決裁書類の山である。
(※イチャイチャしてないで、溜まってる書類にさっさとサインしろという無言の業務命令である)
周囲の令嬢や貴族たちからは、完全に「嫉妬に狂った見苦しい悪役令嬢」として白眼視された。
しかし、引継ぎ相手であるリリィだけは、クリスティアが押し付ける課題を泣きながらもこなし、「クリスティア様は厳しいけれど、私を本物の王族に相応しいレディにするために鍛えてくださっているのね!」と、謎の忠誠心を抱き始めてしまっていた。
若干の誤算はあったものの、クリスティアの「退職に向けたフェードアウト計画」は着々と進行した。
そして、ついに運命の王立学園卒業パーティーの日を迎えた。
華やかなシャンデリアの明かりが降り注ぐ大広間。
軽快なオーケストラの演奏が不自然に止み、静まり返った会場の中心で、エドワード第一王子がリリィを背に庇うようにして叫んだ。
「クリスティア・フォン・ローズウッド! 嫉妬に狂い、愛らしいリリィを虐げた貴様のような冷酷な女との婚約を、私は今この場を以て破棄する!」
ざわめきが波のように広がる。
貴族たちが一斉にクリスティアを見つめ、ある者は嘲り、ある者は憐れみの視線を向けた。
エドワードは勝ち誇ったように顎を上げ、リリィは「そんな、私のために……」と複雑そうな顔をしている。
だが、扇子で口元を隠したクリスティアの心中は、狂喜乱舞していた。
(……よっしゃああああ! 辞職届、受理されたああああ!!)
脳内で盛大なファンファーレが鳴り響き、くす玉が割れる。
慰謝料という名の退職金については、エドワードの有責を証明する証拠(彼が職務を放棄し、クリスティアに押し付けていた事を示す詳細な業務記録)を密かに国王陛下へ提出済みだ。
これで老後の資金も安泰である。
あとは、実家のローズウッド領で悠々自適な不労所得スローライフを送るだけ。
「……左様でございますか。殿下がそこまで仰るのなら、わたくしはこれ以上何も申しますまい。謹んでお受けいたしますわ。オーホッホッホ!」
クリスティアは完璧な「悪役令嬢」の笑みを浮かべ、優雅に、かつ一糸乱れぬ所作でカーテシーを決めた。
背筋を伸ばし、一度も振り返ることなく大広間を退出する彼女の足取りは、羽が生えたように軽やかだった。
これから向かう先である実家の領地が、王宮以上に腐敗した『ブラック領地』であり、前世からの社畜スキルをフル活用して「血で血を洗うホワイト化経営」に乗り出すことになるとは──馬車に乗り込んだ時の彼女は、まだ知る由もなかった。




