超長距離の鉄人、三頭併せの死線
第9話:超長距離の鉄人、三頭併せの死線
夜明け前。安藤亮平は、静まり返った臨海ミックス・サーキットに、たった一人で立っていた。
潮風が吹き抜ける最終直線。昨夜、あのボロ布を巻いた少年と、錆びた銀馬が、物理の限界を超えて砂塵を爆ぜさせた場所。
安藤はそこで立ち止まり、ブーツの底で、じわりと砂を踏みしめた。右足で、左足で、もう一度、右足で。
科学的な最適解を求めているのか、それとも、失った感情の残滓を探しているのか。彼自身にも、わからなかった。
ただ、東の空から昇る夜明けの光が、廃材の跡地を、血のような赤色に染め始めていた。
「――っ、ぐ、ああああっ!?」
同じ時刻。川崎のガレージに、守の絶叫が木霊していた。
守は今、御厨の愛機に跨がっている。
昨日、ウラヌスを勝利へと導いたあの「路面を聴く」感覚。それをそのまま、この十五年物の重装甲ステイヤーにぶつけた瞬間――守は、情報の濁流に押し流された。
ウラヌスとは、何もかもが違う。
ウラヌスは、未熟な守の呼吸を「待ってくれる」機体だった。けれど、この鋼鉄の怪物ガリアーノは違う。超巨体に見合わぬハイブリッド・バイオエンジンの猛烈な鼓動が、守の意志を置き去りにして、前へ、前へと暴走する。
一歩踏み出すたびに、数トンの鉄塊の自重が、ニューラルリンクを通じて守の肉体の骨格へと直接、暴力的な衝撃として叩き込まれる。内臓が、千切れそうに揺れる。
「重い、なんて、重さだ……! それに、速すぎるっ!!」
「芝適性◎のステイヤーだ。こいつを力でねじ伏せられんようでは、中央の芝(プロの舞台)では、安藤亮平に二度と勝てんぞ」
コンクリートの床の上で、御厨が静かに告げる。今朝の御厨は、いつもの安物缶コーヒーを手にしていない。それだけで、今日の特訓が遊びではないことが、痛いほど伝わってきた。
「ウラヌスに甘やかされた乗り方を、一度完全に叩き壊せ。お前の親父、啓介の野郎もな、この段階で三度、俺の前で宙に吹っ飛んだ」
「御厨さんが……っ、わざと吹っ飛ばしたんじゃないんですか!」
「さあな。だが、ガリアーノに認めてもらいたければ、お前が牙を剥くしかない」
守は歯を食いしばり、体幹の筋肉を悲鳴をあげさせながら、前方に傾く機体を無理やり引き戻した。
ウラヌスを『聴く』のではない。このガリアーノは、聴かせてなどくれない。ならば――こちらから、強引にその喉元に食らいつき、意志を捻じ込むしかない!
最終コーナーの仮想シミュレーション。
遠心力に負けて、ガリアーノの重装甲ボディが外側へと大きく膨らもうとする。それを、守はニューラルリンクの出力を最大に跳ね上げ、内側へと「ねじ伏せた」。
――ガツッ!
機体が、一瞬だけ、守の怒りと意志に跪くように、ラインを内へと絞った。
ほんの、わずかな手応え。
けれど、確かにあった。王道の芝を支配する怪物の手綱を、一瞬だけ、己の腕で引き絞った確かな感触。
「……はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
守の全身から、滝のような汗が噴き出す。視界が点滅する。
けれど、守は獰猛に笑っていた。
ウラヌスと出会った時のような、あの野生の輝きが、今度は「プロの技術」という壁を前にして、激しく燃え上がっていた。
午前六時。
インターバルを挟み、泥のように疲弊した守の横で、凛がカタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。
「……守。ちょっと、これを見て」
凛の、どこか上擦った声。守は汗を拭いながら、彼女の持つタブレットへと視線を移した。
「親父の隠しファイル……『アルティメット・バロン・システム』の暗号を、外周部分だけ、解読できたわ」
「何が、わかった」
「システム概要は、昨夜、御厨さんが言った通りよ。ジョッキーの脳と、機体の制御系の『完全融合』。機体の受ける衝撃や熱がそのままパイロットにフィードバックされる、肉体破壊の超絶同調。……でも」
凛が、わずかに唇を噛み、画面を守の方へと向けた。
「発動条件が記されたプログラムの最深部。そこに、暗号化されたお父さんの『手書きメモ』のログが、一行だけ、残されていたの。解読できたのは、まだ、冒頭のワンフレーズだけだけど……」
守は、唾を飲み込んで画面を見つめた。
そこに、ノイズ混じりの電子フォントで、確かに父、西啓介の文字が浮かび上がっていた。
『守へ――お前がこれを読む時、俺はもうここにいない。でも、ウラヌスはいる』
しん、と、ガレージが静まり返る。
御厨が、無言のまま床に落ちていた空き缶を拾い上げた。一口飲む素振りを見せ、それが空だと気づくと、静かにそれを握りつぶした。かつての友の、時を超えた息子へのメッセージに、伝説のジョッキーは、ただ無言で敬意を表していた。
守は、画面の文字から目を離せなかった。
熱いものが、胸の奥底から込み上げてくる。
失踪して、自分を置いていった父親。ずっと、どこかで恨んでいた。けれど、父はガラクタを溶接しながら、いつか成長した自分がここに立ち、このシステムを覗き見る日を、ずっと信じていたのだ。
守はゆっくりと視線を上げ、ピットに佇むウラヌスを見つめた。
錆びた銀馬。父の魂の残骸。
守は歩み寄り、その冷たい、けれどどこか優しい金属の首筋に、そっと手を置いた。
「……ああ。親父。ちゃんと、ここにいるよ」
声が、少しだけ震えた。けれど、それは恐怖によるものではなかった。
親父が目指し、そして未完成に終わった『向こう側の景色』。それを、このウラヌスと共に、絶対に自分の目で確かめてやるという、静かで、巨大な誓い。
ガラガラ、と。
御厨がガレージのシャッターを、再び全開に押し上げた。
眩しい朝の太陽が、ガレージのオイル塗れの床を、白く、神々しく照らし出す。
廃材の銀馬と、鋼鉄のクラシック・キング《ガリアーノ》。
新旧の魂が、親父の遺した光射す未来へと向かって、今、力強く歩み出した。




