闇を穿つ蹄音、刺客・安藤亮平
第6話:闇を穿つ蹄音、刺客・安藤亮平
視界が消える。
遮断された視覚の代わりに、油の焼ける匂いと、大気の震えだけが濃密に膨れ上がる。
守は両目を黒い目隠し布で覆い、ウラヌスの背に跨がっていた。
一歩、踏み出す。
ウラヌスの足の裏から伝わる超低周波の振動が、守の背骨を伝って脳髄を揺らす。
小石が弾ける硬質な音。砂がエアインテークに吸い込まれる風切り音。右前脚のフレームが、荷重を受けて微かに軋む金属音。
耳から、肌から入るそれらすべての「ノイズ」を、守の脳は強制的に立体的な「景色」へと翻訳していく。頼れるのは、ウラヌスの鉄の骨格と、守の生の神経だけだ。
「また右に寄っている。路面を『視る』な。大地の声を『聴け』と言ったはずだ」
コンクリート瓦礫の上から、御厨の枯れた声が降る。守は歯を食いしばり、ウラヌスの重心を左へ、わずかコンマ数ミリずらした。
――その瞬間。
守の脳内の暗闇に、青白い光の線が、バッと世界を構築した。
錆びた鉄骨の山。コンクリート片の隆起。その隙間を縫うように走る、細い『獣道』。
電子センサーは完全に切っている。それなのに、確かに『見えた』。ウラヌスの蹄が地面を踏みしめるたび、ソナーのように世界が網膜にマッピングされていく。
「同調率、九十二パーセント――」
凛が、息を呑んでタブレットの数値を読み上げ、途中で言葉を失った。
隣で、御厨がゆっくりと腰を上げた。手元にあった飲みかけの缶コーヒーを、音を立てて地面に置く。何も言わなかった。
けれど、その静かな沈黙こそが、この廃材の塊が叩き出している数値が、どれほど物理的な常識を逸脱しているかを雄弁に物語っていた。
「……随分と原始的な特訓だな。掃き溜めのネズミには、お似合いの光景だが」
瓦礫を踏み砕く、冷徹で、寸分の狂いもない蹄音が荒野に響いた。
守は反射的に、視界を覆う黒布を剥ぎ取った。
白銀の流線型フレームに、鋭いコバルトブルーのライン。
荒野の入り口に、一機の美しい中量級機が静止していた。
機体名。
最新の芝・ダート兼用可変駆動系を搭載した、超高性能マルチロール機。その背に跨がる男が、冷ややかな視線で守を見下ろしていた。
安藤 亮平。
岡部グループが、巨額の資金を投じて幼少期から英才教育を施した、文字通り『勝つためだけの人造ジョッキー』。
整った顔立ち。乱れの欠片もないパイロットスーツ。一切の感情の揺らぎを排した、ガラス玉のような瞳。
――けれど、その視線が守の背後の《ウラヌス》へと移った、その刹那。
安藤の目の奥に、ドロリとした、形容しがたい『何か』が揺らいだ。
ほんの一瞬。安藤自身すら自覚していないかもしれない、無意識の拒絶、あるいは渇望。すぐに彼は、鉄の無表情を取り戻した。
「西守。来週の決闘裁判――岡部太陽の代理人として、私が出走する。コースはミックス・サーキット。芝とダートが複雑に入り混じる、川崎臨海A特設会場だ。お前のガレージを含む、第七ブロック一帯の土地利用権が賭かっている」
「……岡部のボンボンじゃ、俺に勝てないから、プロを代打ちに立てたってわけか」
「勝算はあるか? と聞いている」
冷徹な問いに、守はウラヌスのネックを強く握りしめた。
「あんたには関係ない。俺は、俺の相棒と走るだけだ」
「そうか。ならば、言葉は不要だな」
安藤が、フェザーダイクの頸部に優しく触れる。
機体が、動いた。
息を呑んだ。
瓦礫と泥の荒野を、文字通り『羽が生えたように』フェザーダイクが疾走する。
泥濘だろうが、尖ったコンクリートだろうが、関係ない。路面が切り替わる瞬間、AIがミリ秒単位で脚部サスペンションの硬度を微調整し、トラクションを完璧に維持する。機体の重心は一度もブレず、ただ美しい残像だけを残して、荒野を旋回する。
感情も、迷いも、泥臭さもない。ただ純粋な『最適解』。
守はその圧倒的な機能美に、一瞬だけ魅了され――けれど、胸の奥底で、奇妙な違和感(気持ち悪さ)を覚えた。
(……美しすぎる。機体を完全に使いこなしているのに、機体に『応えて』いない)
守がウラヌスに乗る時に感じる、あの双方向の、命がぶつかり合うような熱狂。それが、安藤とフェザーダイクの間には、一切存在しない。
それは、ジョッキーが機体を、ただの『道具』として完璧に支配している、冷たい独裁の走りだった。
「機体適性、芝が◎、ダートが◯」凛が、タブレットを抱きしめたまま、硬い声で言った。「路面変化のロスをゼロにする、超適応型サスペンション。ウラヌスの旧式な駆動系じゃ、路面が芝からダートに切り替わる瞬間のトラクション・ロスで、一瞬で置き去りにされるわ」
「わかっている」
フェザーダイクの速度を緩め、安藤亮平が振り返った。
「一つだけ、忠告しておく。感情や根性で機体に乗るのは、アマチュアの思い上がりだ。機体は、ただの道具だ。完璧に計算し、完璧に使いこなすことだけが、勝利への唯一の真実だ」
守は何も言わなかった。
安藤の白銀の機体が、視界の果てに消え去った後も、守はしばらく、砂塵の舞う荒野を見つめていた。
やがて、振り返った守は、無言のまま、泥に汚れた黒布を再び手に取った。
御厨が、夕陽の中で目を細める。凛が、何も言えずに立ち尽くす。
守は二人に背を向け、再び、己の光(視界)を闇へと閉ざした。
その日の深夜。
静まり返ったガレージで、守はウラヌスの足元に座り込んでいた。
凛は、芝とダートの境界で生じる強烈な衝撃を相殺するため、旧式のオイルダンパーの分解と調整に没頭していた。スパナを握り、グリスまみれの手で彼女は言う。
「守。安藤亮平の過去ログを、すべて洗ってみたわ」
「……何かわかったのか」
「ジュニア時代の公式記録が、一件だけ、奇妙な『欠番』になってる。彼が十三歳の時のレース。理由は完全に秘匿。……そして、そのレースの前後で、彼の走行プロファイルが、完全に別人に切り替わっているの」
守は、膝を抱えたまま、静かに耳を傾けた。
「それ以前の安藤亮平は、今のアナタにそっくりだった。機体との超感覚的な一体感を重んじる、感情同期型。……けれど、その『十三歳の空白』を境に、彼は感情をすべて切り捨て、冷徹なAI最適化理論へと鞍替えした。何があったのかは、わからないけれど」
重い沈黙が、ガレージに満ちる。
あの時、安藤がウラヌスを見た時の、仮面の下のマグマのような視線の揺らぎ。あれは――。
「あいつ、ウラヌスを見て、怯えていた。あるいは……懐かしんでいた」
「私もそう思う。アナタが勝てる可能性があるとしたら、そこよ」
凛が、工具を置き、真っ直ぐに守を見た。
「安藤亮平がかつて自ら切り捨てた『過去』を、お前とウラヌスが、ターフの上で突きつける。感情で機体に乗ることが、アマチュアの思い上がりなんかじゃないってことを、その不格好なガラクタで、証明してやるのよ」
守は、小さく笑った。
「勝手にしろ、って言いたいところだけど。……サンキュー、凛」
消灯されたウラヌスの、冷たいメインカメラ。
通電していない鉄の塊。
守は、黒布を手に巻いたまま、ウラヌスの蹄の横に、深々と腰を下ろした。
目を、閉じる。
ガレージの、分厚いコンクリートの床が、微かに、規則的に振動していた。
深夜の湾岸道路を走る大型トレーラーの重みが、地盤を通じて伝わってくる、地球の鼓動。
その振動の中に、ウラヌスの、核融合エンジンの冷却ファンが回る、超低周波のビートが混ざり合う。ド、ド、ド、ド、と、どこか親和性のある、心地よい重低音。
守は、己の胸に、そっと手を当てた。
心臓の、鼓動。
大型トラックの振動でも、ウラヌスのエンジン音でも、守の脈動でもない。
気づけば、その三つの異なるリズムが、暗闇の中で、完全に一つの、巨大なビートへと同期していた。
守は、何も考えなかった。
明日の緻密な作戦も、安藤の完璧な走りの恐怖も、愛するガレージが消える焦燥も。
今、この一瞬だけは。
すべてが、世界と、ウラヌスの呼吸の中に、温かく溶け合っていた。




