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からくり競馬  作者: 水前寺鯉太郎
鉄屑の咆哮 〜泥濘から這い上がるガラクタの星〜

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師匠と遺産、バロン西の影

第4話:師匠と遺産、バロン西の影


 夜のガレージに、安物の缶コーヒーの香りが漂う。

 御厨みくりや鉄雄と名乗った男は、ウラヌスの錆びたフレームを指先で撫でながら、何かを確かめるように目を細めた。懐かしむというより――確認しているのだ。この機体が、まだ「生きているか」を。

「驚いたな。あの変人のイカれた設計が、こんな泥の中で息を吹き返していようとは」

「……親父のことを、知ってるんですか」

「知ってるどころか。俺が、あいつの『最初の失敗作』だ」

 守は息を呑み、言葉を失った。

 御厨は苦く笑った。

西啓介にし・けいすけはな、機巧馬ウマの『心』を物理的に証明しようとした馬鹿野郎だった。俺はその実験台の第一号だ。ウラヌスのプロトタイプに乗って、三度、空中へ吹っ飛ばされた。四度目は……乗れなかった。身体じゃなく、気持ちの方が先にへし折れたんだよ」

 壁に貼られた、バロン西と愛馬ウラヌスの写真を、御厨が指差す。

「西竹一は、誰も御せなかった気性の激しい馬と心を通わせ、ロス五輪の空を飛んだ。お前の親父はその奇跡を、量子チップと油圧シリンダーで再現しようとした。凡人の俺には無理だった。だが――」

 御厨の、ギラついた目が守を射抜いた。

「お前があの最終直線で見せたバーストは、ただの出力超過じゃない。お前の『勝ちたい』という野生が、鉄の塊を獣に変えた。啓介が俺に証明できなかった奇跡の領域に、お前はもう、片足を突っ込んでいる」

 守は己の掌を見つめた。まだ、微かに震えている。

 あの疾走の瞬間、確かに境界線が消失した。自分がどこで終わり、ウラヌスがどこから始まっているのか、わからなくなったのだ。未知の恐怖と、それを上回る全能感。

「俺に……本物の『馬の乗り方』を、教えてもらえますか」

 御厨は缶コーヒーを一気に飲み干すと、音を立てて立ち上がった。

「明日の朝六時。廃工場の裏に来い。骨が折れてもいい格好でな」

 廃工場の裏手は、瓦礫と泥が堆積する地獄のような荒野だった。

 不規則に尖ったコンクリート片。底なしの泥濘。錆びた鉄板が墓標のように斜めに突き刺さっている。およそコースとは呼べない、人間が歩くことすら危うい廃墟。

「AIの自動姿勢制御オート・バランサーをオフにしろ。全手動フル・マニュアルだ」

「正気か!? こんな足場でそんなことをしたら、一歩目で――」

「バロン西の言葉を思い出せ。『自分を理解してくれるのは、ウラヌスだけだ』。お前はまだ、こいつを便利な乗り物だと思っている。泥にまみれて、魂で対話してこい」

 守は唇を噛み、ウラヌスに跨がってニューラルリンクを接続した。

 凛の手によってオート・バランスをカットした、その瞬間――。

 ウラヌスが、生まれたての野生の獣のように激しく暴れ狂った!

「う、わあああっ!?」

 左右に激しく揺さぶられ、三半規管が悲鳴をあげる。ジャイロの狂ったセンサーノイズが、脳髄に直接焼き付くように流れ込む。路面の尖った衝撃が、ダイレクトに骨を、背骨をきしませた。

「っ――重い、なんて重さだ……!」

 一歩踏み出すごとに、泥が粘着質に脚部フレームへと絡みつく。機体の重心がどこにあるのかすらわからない。バランスを完全に崩し、守はウラヌスごと、正面から泥濘へと叩きつけられた。

 生臭い泥が、口と鼻を塞ぐ。全身を襲う、鈍い打撃。痛い。重い。息ができない。

 起き上がろうとした手が、無様に滑る。

「ウラヌスの足元ばかり見るな!」

 泥の上から、御厨の容赦ない怒声が降る。

「背骨で、路面(地球)を感じろ! お前が怖がれば、こいつも怯えて竦む! 信じれば、こいつはお前の意志を受け止める鋼の肉体になる!」

 理不尽な要求に歯噛みしながら、守は再びウラヌスに跨がった。

 そしてまた、転倒する。今度は膝を強打し、目の前が白くなるほどの激痛が走った。

 ピットエリアの横で、凛が泥にまみれる二人を見ながら、タブレットを抱きしめて小さく溜息をついた。

「各関節のジャイロセンサーの解像度を上げて、演算プログラムを書き換えれば済む話よ。こんなの、ただの非効率な精神論オカルトだわ」

「そいつは計算だ、お嬢ちゃん」

 御厨が、鋭い視線を凛に向けた。

「最後の一歩を捻り出すのは、いつだって理屈を超えた『執念』だ。このボロの鉄馬には、それをそのまま受け止める、イカれた器がある。――現代の数値化された美学には、まだこいつの価値はわからないさ」

 凛は唇を結び、口を閉ざした。

 悔しさに奥歯を噛み締めながらも、彼女の切れ長の瞳は、泥の中で足掻くウラヌスの関節運動の、不規則な『歪みの美』から目を離せずにいた。

 何度、泥を舐めたか、数えるのをやめた頃。

 守の中で、ふっと『何か』が消えた。

 変わったのではなく、消失したのだ。

 泥の深さを『読もう』とする思考が消えた。瓦礫の傾きを『計算しよう』とする焦りが消えた。

 ウラヌスの金属の背中から伝わる微振動が、気づけば、守自身の足の裏の皮膚感覚と同化していた。泥の粘り気。鉄板の滑り。次の一歩を踏み込んだ時、どれくらい沈むのか。

 それが、思考よりも先に、肉体に届く。

 ウラヌスが、重い一歩を踏み出した。

 沈まない。

 また、一歩。

 滑らない。

 守は何も考えていなかった。ただ、ウラヌスという鉄の獣の呼吸に、己の呼吸を重ね、荒野の上に立っていた。

 気づけば、荒野を一周していた。

 夕陽が、廃工場のコンクリート壁を血のように赤く染めている。守の全身は泥だらけで、足の筋肉は笑い、立っているのがやっとだった。

 それでも――さっきまであった、恐怖による手の震えは、綺麗に消えていた。

「……今、少しだけ、わかった気がします」

 御厨が、ゆっくりと近づいてきた。守の隣で、夕陽を反射するウラヌスを見つめ、静かに、そして誇らしげに頷いた。

「啓介の野郎が、七年間追いかけ続けた景色だ。お前は今日、一瞬だけ、そこに触れた」

「――ちょっと、待って……!」

 その時、凛の引き攣った声が静寂を切り裂いた。

 彼女の抱えるタブレットに、見たこともない、深紅のエラーコードが奔流のように走っている。

「ウラヌスのOSの、最深層部……暗号化された、巨大な隠しファイルが覚醒してる。タイムスタンプは七年前。お父さんが失踪する、直前。タイトルは――」

 凛が、震える画面を守へと向けた。

『ULTIMATE BARON SYSTEMアルティメット・バロン・システム

 ガレージに、重い沈黙が落ちる。御厨の双眸が、カッと見開かれた。

「……やはり。完成させてやがったか、啓介」

 守は、その電子の遺産を見つめた。

 指が、画面へと伸びる。――だが、触れる直前で、自らの意志でそれを止めた。

 知りたくないわけではない。だが、今、その禁忌の果実を開けてしまえば、今日掴みかけた『ウラヌスとの対話』が、再びシステムという電子の鎖に縛られてしまう気がしたのだ。

「まだ、開けない」守はゆっくりと手を下ろした。「自分の力で、完全にこいつを乗りこなせるようになってからだ。そうじゃなきゃ……親父が見たのと同じ景色を、俺の目で見ることはできない」

 御厨は何も言わず、ただ缶コーヒーの最後の一滴を喉に流し込んだ。その横顔が、本当に僅かだけ、誇らしげに緩んだのを守は見逃さなかった。

 凛は呆れたように息を吐き、タブレットの画面をパタリと閉じた。だが、その顔にはいつもの余裕はなく、焦燥と、未知のシステムへのゾクゾクとするような好奇心が入り混じっていた。

「……わかったわ。ファイルは私が厳重にロックしておく。――ただし」

 凛は守を真っ直ぐに見据え、不敵に笑った。

「私は今、そのシステムの氷山の一角(設計書)を覗き見たわ。あなたのお父さんが、何を創ろうとしていたのかがね。だから、一つだけ現実を教えてあげる」

「何だ」

「あんたが手に入れた決闘の賠償金三十万じゃ、このシステムを完全起動させるためのネジ数本分にも、足りないわよ」

 同じ時刻。

 川崎のネオンを眼下に望む、中央サーキット公認の超高級VIPルーム。

 岡部太陽は、たった一人でいた。

 敗北の報を受け、烈火のごとく激怒した父親からの罵声を浴びせられた後、黒塗りの私兵たちを部屋から下がらせ、巨大なホログラムモニターの前に座っていた。

 映し出されているのは、今日、守とウラヌスが荒野を走った隠しカメラのデータ映像だ。

 太陽は、その映像を三度、再生した。

 四度目で、再生を一時停止する。

 網膜ディスプレイに焼き付く、ウラヌスの泥に塗れた骨格。継ぎ接ぎの溶接パターン。フレームの共鳴角度。

 ――知っている。この構造を、俺は、どこかで見た。

 幼い日の記憶。父親の書斎の、最奥。鍵のかかった分厚いファイリング。勝手に開けて、父親から烈火のごとく殴られた、あの禁断の設計思想。

 そこに、確かにサインされていた名前。

『西 啓介』

 太陽の、金色のスマートグラスが、モニターの光を反射して怪しく光る。

「……おい」

 部屋の影に控える男に、低く命じた。

「西啓介のデータを、すべて洗い出せ。失踪前後の七年分、一秒のブランクも残さずにな」

 太陽は、画面の中の守を見据えた。

「それから、次の対戦相手を用意しろ。今度は……遊び(リーガル・バウト)じゃない。『プロ(中央)』を、ぶつける」

 モニターの中、夕陽を背にして立つ守と、錆びた銀のウラヌス。

 太陽は一度、その映像をシャットダウンした。

 ――けれど、三秒後、再び再生ボタンを押していた。

 その不格好なガラクタの美しさから、どうしても、目を背けることができなかった。

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