廃材VS名門、コースは廃工場
第3話:廃材VS名門、コースは廃工場
黒沢凛がガレージに居着いてから三日間、守はほとんど眠れなかった。
理由の半分は、凛のせいだ。毎朝六時に叩き起こされ、ウラヌスの解体、溶接、数式の書き込みに付き合わされる。
「ちょっと待て、おはようの一言も――」
「時間の無駄。レースまであと十一日。あと十日。あと九日……」
カウントダウンに一切の容赦がない。
そして残りの半分は――ウラヌスのせいだった。
凛がニューラルインターフェースの調整を進めるにつれ、機体の『声』が、より鮮明に、生々しく脳髄へ直接響くようになってきたのだ。接続するたびに、油の匂いと、焼け付くようなターフへの渇望が守の胸を焦がした。
「……この機体、やっぱり変よ」
四日目の夜。基盤を弄っていた凛が、ぽつりと呟いた。
「既存のどの型にも当てはまらない。普通のA級機は、ジョッキーの脳波が冷静なほど同調率が安定する。でもウラヌスは真逆。感情が高ぶるほど、シンクロ率が跳ね上がる。制御しきれない負の感情を、物理的な推進力へと力技で変換しているわ」
守は黙って、ウラヌスの無骨なフレームを見つめた。
「……俺の親父が作ったんだ。天才だったって、聞いてる」
「この特性を活かすには、感情の爆発ポイントで『リミッター解除』をかけるしかない。でもそれは、安全制御(AIナビ)を完全に切り捨てるってことよ。コーナリングが物理的に崩壊するリスクがある。ハイリスク・ハイリターンの極みよ」
「コーナーは、ウラヌスの骨格強度を信じてねじ伏せる。直線に入ったら、一気に叩き込む」
「……根拠は?」
「感覚だ」
凛は三秒ほど守を凝視した後、フッと小さく鼻で笑って、作業に戻った。守は、その不器用な信頼が、奇妙に心地よかった。
一方、岡部太陽は、絶対的な余裕の檻の中にいた。
父親の会社のピットで、愛機のメンテナンスを眺めながら、スマートグラスでコースレイアウトを確認する。川崎第七ブロック、廃工場特設コース。全長一六〇〇メートル。
「余裕っすね。西のあの粗大ゴミ、スタートゲートを出た瞬間にボルトが弾け飛ぶんじゃないすか?」
取り巻きの田島がゲラゲラと笑う。岡部も鼻を鳴らしたが――翌日、田島が顔面を蒼白にして飛び込んできた。
「岡部さん! あの廃材機、黒沢財閥のご令嬢が付きっきりで整備してます……!」
岡部の手が、ピタリと止まった。あの黒沢凛が、なぜスラムのガラクタを?
「……関係ない。機体のクラス差は、人間の努力ごときじゃ覆せない」
岡部はグラスを握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ルドルフは最新鋭のA級機だ。どんなに小細工を弄ろうが、馬力の絶対差の前には、塵も同然なんだよ!」
レース前日、深夜。
守はウラヌスに跨がり、VRゴーグルを装着してシミュレーションを繰り返していた。この二週間、意識が朦朧とするまで毎晩やり込んだ。コーナーへの進入角、ブレーキングの限界点、そして直線での同調爆発。すべてを細胞に刻み込む。
作業台の前では、凛がタブレットを抱きしめたまま泥のように眠っていた。
黒沢財閥の令嬢が、なぜここまで泥と油にまみれて手伝ってくれるのか、守にはまだわからない。
『私はあの一家が嫌い』。それ以上のことは、聞かなかった。お互いの「不可侵領域」を侵さないこの距離感が、今はただ、ありがたかった。
守はウラヌスの首筋、接続ポートに触れた。温かい。
「――お前、緊張してるか?」
返答はない。だが、守にはわかった。
ウラヌスは、一ミリもビビっていない。ただ、巨大な獣のように、牙を研いで、走る時を待っている。
「俺もだ。明日、全部を終わらせよう」
決闘裁判、当日。
川崎競馬場を模した、全長一六〇〇メートルの廃工場特設コース。
錆びた鉄骨が巨大な肋骨のように乱立する間を縫って、コンクリートと鉄板の急造走路が敷かれている。
入場無料の公式野試合。会場には、二百人を超える野次馬が殺到していた。
「勝ち目のないC級の廃品が、名門のA級最新鋭に挑む――その無謀さが、大衆の残酷な好奇心に火をつけたのよ」
凛が冷ややかに告げる。守は、鉄骨の観客席を見渡した。
煤けた作業着を着た工場労働者、うだつの上がらない学生、杖を突いた老人。皆、どこか自分と似た目をしていた。理不尽を強要され、世界から切り捨てられながら、それでも歯を食いしばって生きている、くすんだ、煮え切らない目。
「西守くん。……勝って」
小さく強張った、凛の横顔。守は短く「ああ」とだけ答えた。
コースの反対側から、漆黒のA級機が姿を現した。全身を流線型の最新カーボンで包み込んだ、美しき漆黒のサラブレッド。岡部が洗練された動作でシートに滑り込み、同調コードを接続する。一歩歩くたびに、完全密閉された駆動系から、精密な電子音が響き渡る。
守もまた、ウラヌスに跨がり、同調コードを首筋へと突き刺した。
ガァン、と脳を殴られたような熱い衝撃。視界が急速にクリアに、解像度を上げていく。
『――川崎区簡易裁判所、決闘裁判、整理番号七七三。両者、準備完了。……ゲート、オープン!』
発光信号が青に爆ぜた瞬間、漆黒のルドルフが、圧倒的な超電導の加速で飛び出した。一瞬で、三馬身。A級機と廃材(C級機)の、残酷なまでのスペック差が、視覚的な絶望となって突きつけられる。
「――ッ!」
守は歯を食いしばり、ウラヌスのフレームの軋みを全身で受け止める。
第一コーナー。ルドルフはAIによる完璧な最適化制御で、一ミリの減速もなく美しく旋回していく。ウラヌスは、分解寸前の車体を守の筋力と反射神経でねじ伏せながら、不格好にコーナーを曲がった。
二周目。差は、五馬身にまで広がった。
岡部はバイザーの向こうで不敵に笑い、出力をわずかに絞った。独走態勢に入った王者の、絶対的な傲慢。だが、守にはその傲慢が、シンクロする空間を通して、手にとるように理解できた。
(余裕か。見下してくれているな、岡部……!)
視界の端。鉄骨にへばりつくようにして、食い入るようにレースを見つめる老人がいた。くたびれた、だが、諦めきれない魂が宿った目。失踪した親父の目に、酷似していた。
『お前みたいな廃材ガレージの奴が逆らうな』
岡部の、世界の見下すような言葉が、守の胸の奥で、ドス黒い、どろどろとした怒りの溶岩となって燃え上がった。
(ふざけるな。世界(お前ら)が言う正義なんて、クソ喰らえだ!)
最終直線まで、あと百メートル。差は、絶望的な六馬身。
「弱気は最大の敵だ……! 咆えろ、ウラヌス!!」
守の怒りが臨界点を突破し、ニューラルインターフェースを通して、機体の全電子神経へとダイレクトに叩き込まれる。
――瞬間。凛が仕掛けた、非合法の限界バースト機構が、牙を剥いた!
ド、ゴォォォォォン!!
ウラヌスの排気孔から、濃密な火花混じりの黒煙が噴き出す。
ギギギ、とフレーム全体が砕け散る寸前の金属音。リミッターを完全突破したウラヌスが、重力を置き去りにするような狂気の加速を開始した。
「――なッ!?」
バックミラーを視認した岡部が、驚愕に喉を詰まらせる。五馬身、四馬身、三馬身――!
「バカな!? C級のガラクタが、なんでこんな出力を出せるんだ!?」
岡部がパニック状態でルドルフの出力を最大まで跳ね上げる。
最終直線、残り百八十メートル。
最新の漆黒と、錆びた銀。二つの獣が、火花と油を散らしながら並走する。守の脳内では、もはや景色など消失していた。ウラヌスの心臓の鼓動と、路面の微細な凹凸だけが、世界のすべてだった。
シンクロ率が限界を超えた、その刹那。守の脳髄に、ルドルフの、ほんの僅かな骨格の歪みが投影された。
――コーナーを抜けた直後。右後肢の着地が、〇・〇二秒だけ遅れている!
(――そこだ!!)
シミュレーターを二週間、文字通り死ぬ気でやり続けた守だからこそ掴めた、コンマ数秒の『真実の隙』。
守はウラヌスの重心を、内側へと〇・五センチだけ、力ずくで傾けた。
ウラヌスは狂おしい咆哮のような駆動音を響かせ、泥とコンクリートを蹴散らし、インサイドの針の穴を通すような最内を強襲した!
漆黒のルドルフと、銀のウラヌスが、並んでゴール板を駆け抜ける。
『着順確定――一着、西守。機体!!』
一瞬の完全な静寂。
直後、廃工場の巨大な肋骨が震えるほどの、割れんばかりの轟音が爆発した。二百人の労働者、学生、老人たちが、手すりを叩き、涙を流し、野獣のような歓声をあげる。
ガタガタと痙攣する体をウラヌスの背に預け、守は、熱い息を吐き出した。
「……やったな、相棒」
ポン、と冷たく、愛おしい鉄の首筋を叩く。ウラヌスは、満足したように低く、その巨体を震わせていた。
レース後、熱気の引いた静寂なピット。
凛が歪みきったウラヌスのフレームをチェックしながら、呆れたように、けれどどこか嬉しいため息を吐いた。
「フレームの継ぎ目に致命的な亀裂。エンジンの過負荷。バースト機構も焼き切れたわ。直すには、膨大な時間と特殊なパーツがいるわよ」
「賠償金の三十万がある。一円残らず、こいつの部品代にぶち込む」
「……そう。なら、私ももう少し、あなたの廃材ガレージに付き合ってあげる。ウラヌスの設計思想、まだ完全に解明できていないから。あくまで、純粋な研究対象としてね」
視線を合わせずにタブレットを叩く凛の横顔。守は「勝手にしろ」と、小さく笑った。錆びた鉄骨が夕焼けに溶け、廃工場が、黄金色に輝いていた。
その日の夜。
守が静まり返った自前のガレージに戻ると、薄暗いシャッターの段差に、腰を下ろしている人影があった。
くたびれたジャンパー。白髪混じりの、六十代ほどの男。
「今日のレース、観てたよ」
「……誰ですか」
「御厨鉄雄。昔、馬乗り(ジョッキー)をやってた」
守の心臓が、跳ね上がった。十五年前に引退した、伝説の男。リーガル・バウトの制度ができる前の、真実の競馬を知る本物の怪物。
「なんで、俺のところに……」
「お前の機体を見に来た。最終直線の、あのバースト。感情とシンクロ率を臨界突破させるあのイカれた走り、俺は歴史上、一人しか知らない」
御厨は手元の缶コーヒーを飲み干し、クシャリと握りつぶすと、守を射抜くように見据えた。
「――西啓介。お前の親父だ」
夜風が、ガレージの静寂を通り抜ける。御厨がよろりと立ち上がり、獰猛な、かつての怪物の笑みを浮かべた。
「お前に、本物の『馬の乗り方』を教えてやる。……時間、あるか?」




