「春の岐路! 鋼鉄のプライドと淀の盾」
第23話:春の岐路! 鋼鉄のプライドと淀の盾
二〇五一年の、新春。
地方・広島の造船所が立ち並ぶ海岸の片隅。新しく構えた守のガレージには、冬の寒風を吹き飛ばすようなハイセイコー型エンジンのアイドリング音が響いていた。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……。
低く、重く、心臓を直接揺さぶるようなビート。ウラヌス2(ツー)は、冬の間に守がさらに煮詰めたバイパス・システムにより、より一層「中身の詰まった怪物」へと仕上がっていた。窓の外に見える瀬戸内の穏やかな海と、錆びついた造船クレーンが、この無骨な黒鉄の機体によく似合っている。
「……有馬記念のデータ、何度見返しても納得いかないわね」
凛が、モニターに映し出されたブライトホークの末脚の波形を指でなぞる。
「地力はウラヌス2が圧倒していた。でも、最後の一百メートルで、あっちの『ジェット・ブースト』の瞬間出力に、こっちの『重トルク』が置き去りにされた。……守、あんた、これをどうにかしたいと思ってるでしょ」
「……ああ」
守は、煤けた作業着のまま、ウラヌス2の太い脚部フレームを見上げた。
有馬記念の二着。うららとの握手。
祝福は本物だった。だが、心の奥底にある「ガラクタのプライド」が、スピード負けを認めることを拒んでいる。
「次は四月の大阪杯だ。二千メートル。あそこには、うららも、ジェットボーイも来る。もう一度、あの超高速の渦の中で、ウラヌス2の真価を証明したい」
「正気? ウラヌス2の適性は二千五百メートルから上よ。二千メートルのスピード勝負は、ハイセイコー型エンジンには荷が重すぎるわ。五月の天皇賞・春(三千二百メートル)を狙いなさい。あそこなら、あんたたちが一番強い」
凛の言葉は正論だった。確率、データ、勝利への最短距離。それを考えれば、淀の三千二百メートルこそが、新生ウラヌス2が天下を獲るための最高の舞台だ。
「……でもさ、凛。俺たちが組んだこの機体は、ただの『長距離走者』で終わりたくないんだ」
守は、ウラヌス2のメインカメラ――赤く光るその瞳を、静かに見つめた。
「『圧倒的な地力があれば、どんな距離でも、どんな相手でもねじ伏せられる』。それを証明しないと、俺は本当の意味で、ジャパンカップの敗北からも、有馬の屈辱からも、卒業できない気がするんだよ」
その時、ガレージの重い鉄製シャッターを叩く音がした。
入ってきたのは、かつてのライバル、岡部太陽だった。かつての仕立ての良い高級スーツはどこへやら、今の彼は油と火花に汚れたツナギを着ている。
「――おい、西。お前、まだ迷っているのか?」
太陽は、手元の端末で最新の出走想定リストを守に見せた。
大阪杯の欄。そこには、桜本うらら、今井優太、そして大竹野智美の名が並んでいる。一方で、天皇賞・春の欄には、米田太一とブラックライス、そして大竹野千佳の名があった。
「スピードの頂点を決める二千メートルか、スタミナの極限を競う三千二百メートルか。……お前がどちらを選ぼうが、俺のシュバルツ・ルドルフは、お前の前に立ち塞がる。俺は、両方に登録した」
「両方……? 正気か、岡部。連戦だぞ、機体とジョッキーへの負担が……」
「リミッターなんて、疾うに外してある。俺は、お前を倒すために、すべての資産とプライドを賭けているんだ」
太陽の不敵な笑み。それは、迷う守の背中を、乱暴に押し流すような追い風だった。
「……凛」
守は、深く息を吐き、凛の方を向いた。
「天皇賞・春には、絶対に出る。あそこは、ウラヌス2が『真の最強』を名乗るために避けて通れない場所だ」
凛が、フンと鼻を鳴らす。
「当たり前でしょ。データの通りよ」
「――でも。その前に、大阪杯で、うららのスピードを真っ向から叩き潰す。地力でスピードを凌駕する。それができて初めて、俺たちは淀の三千二百メートルに、胸を張って乗り込めるんだ」
守の瞳に、かつてない「強欲」な炎が宿っていた。
クラシック三冠を獲り、敗北を知り、自ら機体を組み上げた。今の守は、ただの挑戦者ではない。世界を見据える「怪物」としての自覚が芽生え始めていた。
「……ったく。わかったわよ、この大バカ。いいわ、二千メートルで光速機をちぎり捨てるための、超高圧排気プログラムを組んであげる。シリンダーの圧縮爆発を物理的な推進衝撃に変えるのよ。機体がバラバラになっても知らないからね!」
凛が不敵にキーボードを叩き始める。
「――ああ。ウラヌス2なら、耐えられる。俺たちが作った、最高のガラクタなんだからな!」
二〇五一年、春。
ガラクタの星は、安住の地を選ばなかった。
スピードの狂気が渦巻く二千メートルの戦場へ、怪物が再び、その重い足音を響かせ始める。




