黒い太陽、ブラックライス! 淀みない三二〇〇メートルの罠
第11話:黒い太陽、ブラックライス! 淀みない三二〇〇メートルの罠
西暦二〇五〇年。
地方の泥を啜り、エリートたちの鼻柱をへし折ってきたガラクタの星と西守は、ついに国内最高峰のプロ・ステージ――「最高峰中央サーキット」へと足を踏み入れていた。
見上げるような超高層ビル群。その狭間に、巨大な有機体のようにうねる最新の全天候型ハイテク・ターフ(人工芝芝コース)が横たわっている。
何万という観客の地鳴りのような歓声。夜空を切り裂く極彩色のレーザー光。
そこは、地方の廃工場とは文字通り「桁が違う」、光と電子の魔境だった。
「……眩しすぎて、反吐が出るわね」
ウラヌスの主脚に潜り込み、凛が毒づく。
だが、不貞腐れた言葉とは裏腹に、電動レンチを握るその手はいつも以上に精密で、速い。
ピットの片隅にあるモニターには、かつて死闘を演じ、そして和解した岡部太陽、北斗茜、安藤亮平らの顔があった。彼らはそれぞれのコネクションを使い、中央の最新パーツデータや環境プロファイルをリアルタイムで転送し続けてくれている。
かつて、自分と凛、そしてウラヌスだけの孤独だったガレージ。
今、そこには、目に見えない無数の配線で繋がれた「チーム」の熱があった。
「守。中央の洗礼、初戦の相手が決まったわ」
凛が油に汚れた手で、タブレットを突き出す。
画面に映し出されたのは、最新の超電導モーター機が幅を利かせるこの中央にあって、一際異彩を放つ――煤けた、無骨な黒い鋼鉄の機体だった。
機体名。
「バイオ燃料を併用するハイブリッド内燃機関。今時、化石燃料の系譜を積んでいるなんて、中央じゃ絶滅危惧種よ。馬場は芝もダートも不問のマルチ。そして距離適性は――二五〇〇から三二〇〇メートルの、超長距離特化型」
凛の解説を、守は喉を鳴らして聞いた。
絶滅危惧種の、黒い鉄。中央の光に牙を剥く、もう一機の「泥の獣」。
奇妙な共感を覚えた守の背後に、ふわりと、影が落ちた。
「――こんにちは。君が、地方から上がってきた西守くんだね」
振り返る。
そこに立っていたのは、どこかおっとりとした空気を纏う、素朴な青年だった。超ハイテクのパイロットスーツに身を包む中央の選手たちの中で、彼だけが、実家の農作業でも手伝うかのような柔和な笑みを浮かべている。
「僕は米田太一。ブラックライスのジョッキーだ。よろしくね」
「……西守だ。よろしく」
差し出された手を、守は握り返した。
その瞬間、守の背骨を電撃のような戦慄が駆け抜けた。
(……なんだ、この手は!)
米田の手は、信じられないほどに固く、無数の肉ダコに覆われていた。
甘いマスクの下に隠された、真実。
何千、何万時間。暴れる巨大な鉄の馬を力でねじ伏せ、手懐け、己の肉体の一部へと昇華させてきた狂気。これは、本物の「タフガイ」の手だ。
「中央のスマートな連中はね、僕らのことを『時代遅れの遺物』って笑うんだよ」
米田は守の手を離すと、愛機の、無骨な黒い首筋を愛おしそうに撫でた。
「でもね。電気の馬は熱に弱いし、距離が伸びれば電池が切れる。僕とこの子は、どんな泥だろうが、どんな綺麗な芝だろうが、三〇〇〇メートルを超えてからが、本当の……『収穫』なんだ。覚悟して走ってね、守くん」
微笑む米田の瞳の奥。
底知れない、静かで、燃え盛るような黒い炎が揺らめくのを、守は見た。
中央サーキット、開幕戦。
距離、三二〇〇メートル。
超長距離の舞台を告げるファンファーレが、夜のドームに鳴り響く。ウラヌスのカクピットで、守は肺いっぱいに酸素を吸い込み、吐き出した。
網膜ディスプレイに表示されるウラヌスの心拍ログ。安定している。かつて地方の瓦礫のコースで培った、無駄な熱を出さない走法。守の呼吸と、ウラヌスの同調率は上々だ。
『――各馬、ゲートイン。新星ウラヌスか、黒き古豪ブラックライスか! スタート!』
ガツン! と油圧ゲートが跳ね上がった。
ウラヌスは滑るように飛び出す。力みのない、美しいスタートだ。
だが、そのウラヌスの鼻面を掠めるようにして、淡々と、恐るべき正確さのピッチでコースの中央を占拠する影があった。
ブラックライス。
AIによる最適化ナビゲーションの電子音ではない。
ド、ド、ド、ド、と、重低音のバイオ内燃機関が規則的なビートを刻んでいる。一歩一歩の歩幅が、ミリ単位で寸分狂わず、黒い軌跡を描いていく。
(……不気味なほど、静かだ)
守は奥歯を噛み締めた。
ブラックライスの走りには、焦りも、気負いも、一切の「揺らぎ」がない。
一〇〇〇メートル、二〇〇〇メートル。
距離が伸びるにつれ、中央の華やかな超高速機たちが、バッテリーの加熱とエネルギーの枯渇によって、次々と失速し、後方へと脱落していく。
光の魔境に魅せられた電子の馬たちが、己の熱に焼かれて沈んでいく。
だが、ブラックライスだけは違った。
一ミリの衰えもなく、表情一つ変えぬ速度のまま、先頭を単調に走り続けている。
『嘘……ウラヌスのシンクロ率九二パーセントなのに、差がじわじわと広がっていく!?』
無線から、凛の悲鳴に近い声がノイズ混じりに響く。
『ブラックライスのラップタイム、レース開始から一度もコンマ一秒も落ちていないわ! これが太一の『バイオ・ドライブ』……! 重量を活かした接地感で、路面の摩擦変化を力でねじ伏せている! 守、まともに付き合ったら三〇〇〇メートルでウラヌスが酸欠(エネルギー不全)になるわよ!』
(わかってる……だが、このペースについていかなければ、千切られる!)
守の視界の端で、ウラヌスの駆動熱が危険域を指し示す。
ブラックライスが仕掛けてくるのではない。
ブラックライスが刻む「絶対的な基準」についていくこと自体が、他の機体にとっては死に至る猛毒なのだ。
三二〇〇メートルという、底なしの底なしの沼。
泥の王者による、淀みのない絞め技が、じわじわとウラヌスの首を絞めていく。
第三コーナー。
ついに、死の境界線である三〇〇〇メートルの大台を突破した。
ウラヌスのフレームが、ギチ、ギチ、と金属の悲鳴を上げ始める。
地方での特訓があったからこそ、ここまで耐えられた。だが、それでも限界は近い。シリンダーが焼け付き、冷却液の循環が追いつかない。
『――ここからが、僕たちの時間だ、守くん』
プライベート通信回線から、米田太一の、静かだが滾るような声が流れ込んできた。
守の網膜に、先行するブラックライスの排気口から、濃密な黒煙が噴き出すのが映る。
『みんな、僕らが「加速」したように錯覚する。でも違うんだよ。周りが勝手に疲れて止まっていく中、僕らだけが、最初と同じ速度で走り抜ける。……お疲れ様、西守くん。収穫の刻だ』
ブラックライスが、泥を、芝を切り裂き、後続を突き放す。
加速はしていない。ただ、狂気的なまでの「最高速の維持」が生み出す、圧倒的な相対速度の差。
疲弊しきったウラヌスの視点からは、ブラックライスが黒い弾丸となって、未来へ「飛んでいく」ように見えた。
(……強い。なんて、圧倒的なスタミナの怪物だ!)
ウラヌスの推進力が、ガタ落ちしていく。カクピット内の酸素濃度が下がり、守の意識が白濁していく。
千切られる。このまま、黒い太陽の沈まぬ影に、飲み込まれてしまう。
意識が遠のく中、守の脳裏を、ある記憶が過った。
油まみれ、埃まみれの、地方の廃工場。
目隠しをして、瓦礫の上を、泥に塗れながら走ったあの日々。
スマートで、ピカピカの、金持ちたちの中央。
だが、自分たちウラヌスもまた、泥の中から這い上がってきた「ガラクタの塊」だ。
不格好で、無骨で、洗練なんてされていない。だが、だからこそ、決して折れない錆びた鉄の誇りがある!
「……ふざけるな、米田太一。収穫されて、たまるか!!」
守は、朦朧とする意識に、怒りとプライドという名の劇薬を叩き込んだ。
ウラヌスのニューラルリンクに、守の、泥に塗れた野生の生存本能(生きたいという執念)がダイレクトに流し込まれる。
――瞬間。
ウラヌスの深層基盤が、真っ赤に、獣の目のように明滅した。
『同調率、一〇〇パーセント突破……限界駆動機構、点火!』
ごぅぅぅぅぅん!
ウラヌスの胸部にある古代式シリンダーが、黒煙を吹き上げて爆発した。
ブラックライスが「一定の最高速」で逃げるなら、ウラヌスは残された全神経、全エネルギーを注ぎ込んだ、肉を切らせて骨を断つ「瞬間的加速」で、その背中を強襲する!
最終直線、残り二〇〇メートル。
失速するどころか、さらに速度を跳ね上げたウラヌスが、ブラックライスの真横に並びかける。
光輝く中央のターフの上で、二つの泥の獣が、激しく火花を散らす。
「――っ、何!? この土壇場で、その加速は……物理的に、ありえない!!」
通信の向こうで、初めて米田太一の、驚愕に歪んだ叫びが響いた。
中央のエリートたちが息を呑む。
旧時代の遺物と、地方のゴミ屑。二機の鉄塊が、泥と、芝と、油を豪快に撥ね上げながら、同時にゴール板へと身体を投げ出した!




