黒き皇帝の逆襲! 泥濘(ぬかるみ)の決闘裁判
第10話:黒き皇帝の逆襲! 泥濘の決闘裁判
山中のテスト・ターフ。
朝靄の立ち込める芝の上に、三つの巨大な鉄の影が並び立っていた。
御厨透。
伝説のジョッキーである鉄雄の弟であり、かつて中央の長距離界を震撼させた男が、愛機からひらりと飛び降りた。細い目をさらに細め、値踏みするように守とウラヌスを見据える。
「へえ。これが兄貴の言う『見込みのあるガラクタ使い』か。可愛い坊主じゃない」
「うるさい。能書きはいい、始めるぞ」
鉄雄がガリアーノのシートから短く断じ、透は肩をすくめて不敵に笑った。
ピットで見守る凛が、タブレットのデータを叩きながら声を落とす。
「《サンマリノ》。適正距離二千五百から三千二百メートル。超長距離特化機。モデルは、かつて十歳を超えても中央で走り続けた伝説の鉄人馬よ」
「おうよ。俺たちに派手な最高速はねえ」
透がサンマリノのシートへと跨がり直す。
「だがな、三千メートルを超えてからが俺たちの時間だ。最新鋭のスマートな電気馬が、熱暴走と酸欠(エネルギー不全)でバタバタと倒れていく中、俺たちだけは、スタートからゴールまで寸分狂わぬラップを刻み続ける。……坊主、本当の『底なし沼』を見せてやるよ」
守はウラヌスの上で、ヘルメットのバイザーを力強く叩き下ろした。
心臓が激しく鳴っている。ミックス・サーキットでのあの安藤戦よりも、もっと深く、静かな場所で。
鉄雄の合図と同時に、先導するガリアーノが爆発的な白煙を上げて飛び出した。
守は一瞬、世界から置いていかれた。
(速い……ッ!)
これまでの地方ダートや、廃工場での泥沼戦とは、次元が違う。一息の呼吸、瞬きの猶予すら許されない、澱みのない王道の芝の加速。
ウラヌスの旧式シリンダーが、わずか数百メートルで悲鳴を上げ始める。超高速の振動がニューラルリンクを逆流し、守の全身の骨格をきしませ、肺を押し潰す。エンジンの過熱が、喉の奥を焦がす熱気となって伝わってきた。
「息を抜く場所を探せ! 力んで走れば、千六百もたずに燃料が尽きるぞ!」
先行する鉄雄の、ガリアーノの排気音に混じった怒号が飛ぶ。
守は歯を食いしばり、瞼を閉じた。
廃工場の裏、目隠しをして転がり続けたあの地獄の荒野を思い出す。路面の微細な鼓動を、皮膚感覚で聴き取るのだ。
力任せに手綱を引くのではない。ウラヌスの無駄な力みを抜き、ガリアーノの巨体が切り裂く、気流の「風の道」へと、静かに滑り込む。
(ここだ……! 力を抜いて、風に乗れ、ウラヌス!)
二千メートル地点。ガリアーノが僅かに進路を譲り、守を前へと押し出した。
その瞬間まで、守は透のサンマリノの存在を、完全に忘れかけていた。最後方で、気配を完全に殺していたのだ。
それが――音もなく、上がってきた。
排気音は不気味なほどに静か。けれど一歩一歩のピッチが、心臓の鼓動のように、冷酷なメトロノームとなって刻まれる。爆発的な加速で抜き去るのではない。ただ、じわりと、確実に、影のように距離を詰めてくる。
「交代だ、兄貴。……ここからは、俺たちの時間だ」
通信回線から聞こえる透の、涼やかな声。
すでに二千メートルを超過したウラヌスの心臓は、オーバーヒート寸前のレッドゾーンを指し示していた。
フレームが軋む悲鳴が、守の神経系を灼く。油圧系統の限界圧力が、鼓膜を内側から破らんばかりに押し寄せる。
ウラヌスと、守の神経が完全に繋がっているからこそ感じる、機体の生の『痛み』だった。
それなのに、サンマリノのラップタイムが、さらに一段、跳ね上がった。
(苦しい……! 脚が動かない。もう、限界だ……!)
残り八百メートル。視界が白濁し、守は意識を失いそうになりながら、スロットルレバーから――ほんの一瞬、力を抜こうとした。
――その瞬間。
ウラヌスの鋼鉄の肉体の底から、凄まじい『何か』が逆流してきた。
熱暴走の痛みではない。エンジンの軋みでもない。
ただ、一歩でも前へ、前へと突き進もうとする、野生の衝動。
ウラヌスが、諦めていなかった。
二千メートル以上を走り続け、シリンダーが真っ赤に焼け付き、全身の関節が今にも砕け散りそうなのに。それでも、この鉄の馬は、前の獲物を捉えることを、絶対に諦めていなかった。
(親父……っ! 親父が何年もかけて、このガラクタに刻み込んだ魂が、まだ、燃えてる……!)
守は、緩めかけたスロットルを、血が滲むほどに握り直した。
「弱気は――最大の――敵だァァッ!!」
喉が裂けるような叫び。けれど守は理解していた。今、自分は叫ばされている。ウラヌスの魂の咆哮に、自分が引っ張られているのだ。
残り四百メートル。スロットルを力任せにねじり込む。ウラヌスの古代式シリンダー内で、青白い火花が爆発した。黒煙を吹き上げ、焼け付く金属音を響かせながら、最後の一歩が泥臭く絞り出される。
不格好で、不器用な、執念の一歩。
それが――サンマリノの黒い鉄壁の、鼻面を捉えた。
ゴールライン。
駆け抜けた瞬間、ウラヌスが膝から激しく崩れ落ちた。
守もコックピットの中で前のめりに倒れ込み、吐血するような息を吐き出す。
全身が汗と熱気で満たされていた。
ニューラルリンクの接続が切れる寸前。守の耳に、ウラヌスの緊急冷却システムがシュゥゥゥと排熱を吐き出す音が聞こえた。機体が、命懸けの疾走を終えて、ようやく一息ついた安堵の音。
透がサンマリノから静かに降り立ち、泥を跳ね上げたウラヌスを見つめた。
そして、パチパチと、ゆっくり拍手を送った。
「フレームは歪んじまってるが、心臓はまだ死んじゃいない。……たいした鉄馬だ」
透はサンマリノの頸部を撫でながら、独り言のように呟いた。
「こいつも、もう長くはないかもしれないのにな」
鉄雄が何も言わず、視線をパドックの奥へと逸らした。
「――なーんて、冗談だよ、坊主!」
透がけらけらと笑った。けれど、その笑みは、明らかにコンマ数秒、遅かった。
守は、その不吉な冗談の真意を問いただす余力すら残っていなかった。
ガリアーノから降りた鉄雄が、守のヘルメットの頭頂部を、乱暴に、けれど温かな掌で一度だけ叩いた。言葉は、それだけで十分だった。
守は、青々としたテストターフの芝の上に、大の字になって寝転がった。
見上げた空には、雲が一つもなかった。
どこまでも抜けるような、どこまでも澄み切った、何もない、世界の青。
守はぼんやりと、その美しい天井を見ていた。
親父もどこかで、こんな空を見たことがあるのだろうか。油と排気ガスにまみれたガレージのトタン屋根の下ではなく。こういう、どこまでも拓けたコースの上で、走り終えた後に。
わからない。答えてくれる親父は、もういない。
けれど、ウラヌスは知っているかもしれない。
守は重い手を伸ばし、芝の上に倒れ込んだウラヌスの、鋼鉄の脚部にそっと触れた。
金属は、恐ろしいほどに熱かった。けれど、それは死の熱ではない。命の滾る、生の熱だ。
守は目を閉じた。
その熱が、手から腕へ、腕から胸の奥へと、静かに、優しく伝わってくる。
(親父の、熱だ……)
気のせいかもしれない。科学的根拠なんてない。
けれど、守は確かに、そう思ったのだ。




