第二話 雅との暮らし
雅の家は私を迎える準備がすっかり整えられていた。
リビングには天井まで届くキャットタワーが設置され、隣には飛び移れる木目調の食器棚がある。気が利いているのはキャットタワーの足元に置かれた完全個室のトイレだ。小さな洞穴のような見た目に最初は警戒したものの、今では周りの目を気にせず用を足せる落ち着く場所のひとつだ。
暖かい昼の時間を過ごすのは、私の縄張りとなった和室だった。この柔らかい感触、藺草の香りがとても落ち着くのだ。朝は冷たいので暖かくなるのを待って移動する。爪を研ぐとさぞ気持ち良いだろうが、駄目だと言われたのでぐっと我慢している。
この場所から追い出されるわけにはいかないわ。
昼間はリビングと和室で、夜は親子が眠る寝室でともに過ごす生活を、私はすぐに気に入った。しかし、すべてが快適というわけではなかった。
まずは雅。女の子だとわかった彼女は、幼さゆえに加減を知らない。
彼女は頻繁に和室で寛ぐ私のところにやってくる。
「モコ、あそぼ」
モコは私の名前だ。この可愛い尻尾がモコモコだからと母親が名付けた。ま、悪くはないかしら。本当は雅に決めて欲しかったけど、彼女も気に入ったようなので不満はないわ。
雅とはよくボール遊びをする。ボールと言っても丸い布のようなものだ。彼女がボールを投げて私がそれを素早く追いかけて拾い、彼女の元に咥えて持っていく。するとまたボールを投げてくれる。
この遊びは楽しくて大好きなのに、いつも数回で終わってしまう。
「あたしの番」
雅は自分で追いかける方が好きなのだ。しかし私はボールを投げることができない。なので、鬼ごっこになる。
私は彼女が近づくのを待ち、捕まる直前に伸びてくる腕を避けて逃げる。これが延々と繰り返される。いい加減飽きるのでキャットタワーの上に避難すると「おいで、モコ、おいで」と私を呼ぶ。知らんぷりをしていると終いには「モコ、降りてきてぇ」と泣き出してしまう。しょうがないので降りると、私を捕まえて「高いとこ、逃げちゃダメでしょ」と言ってお尻を叩いてくる。
理不尽よ。私だって追いかける方が好きなのに。
また別の日、雅はお昼の眠い時間にやってきて私の前に座った。頭から背中を優しく撫でてくれたと思ったら、次第に頭を叩き始めた。
何度も叩くので「ニャッ」と抗議の声を上げたら「きゃっきゃっ!」と大喜びだ。その笑顔が愛らしくて、叩かれるたびに「ニャッ!」「ミャッ!」と応えたのが失敗だった。楽しくなった雅は大はしゃぎで際限なく私の頭を叩き続ける。いい加減頭が痛くなったのでまたキャットタワーを登り食器棚の上に避難した。
「ごめんね。もうしないから」
などと謝罪されても残念ながら応える気はない。すぐに同じことが繰り返されるからだ。こんなことが日常茶飯事なのだ。
雅はとても愛らしくて大好きな飼い主だけど、相手の気の引き方がなってないわ。良い女に育つには私が教えないとかしら。
もうひとつの問題はママだ。
やや甘やかし過ぎな気がするものの、雅への愛情に溢れた良い母親なのは間違いない。
雅の乱暴な行動に目くじらを立てることもなく、優しく注意するだけで暖かく見守っている。私ともよく遊んでくれる。しかし、その遊びがなんというか、納得いかないのだ。
彼女は手に小さな箱を持つと私の近くの床を指さす。
「モコちゃん、ほら、見て見て」
言われて私は床を見ると、何やら小さな緑色の点が動いている。
「ほらほら」
素早く動く点を見ていると居ても立っても居られなくなり、つい飛びついてしまう。でも、何も捕まえられないのだ。
目で追い前足で何度も叩いても、やはり何もない。見えるのに触れられない、不安になる感覚。もう何度も繰り返してわかっているのに、目の前で光を動かされるといつも落ち着かなくなり、つい反応してしまう。
どう考えても揶揄われているとしか思えないのだ。あまり気持ちの良いものではない。
「やっぱりこっちが好き?」
それでも徐々に沸き上がる衝動を抑え込めるようになった頃、ママは先端に羽根のついた棒を持ち、私の前でゆらゆらと揺らし始めた。
私はしなる棒の先で揺れる羽根に目を奪われる。
「ニャッ!」
両前足で挟んで捕まえられた時には思わず嬉しくて声を上げてしまった。
「やっぱり好きなのねぇ」
彼女は優越感に満ちた笑みを見せる。
ぐぬぬ。緑色の光はなんとか我慢できたけど、この羽根は駄目ね。どうしても捕まえたくなるのよ。捕まえた手応えがあるのは癖になるわ。
でも、この私が弄ばれているようで本当に癪なの。
そんな私の様子を見て雅は楽しそうに笑う。
「モコ、凄い」
無邪気な彼女にそう言われると、ちょっとやる気になってしまう。
「あたしがやる」
「はいはい。ゆっくり揺するのよ」
雅が棒を振りはじめたら、わだかまりなどどこへやら。しばらく夢中で羽根を追いかけることになる。
遊び終わるたびに、今日も完全に翻弄されたと少し悔しい気持ちになるのだった。
そんな小さな不満はあっても、概ね満足できる生活だった。
夜、衣装ケースの上からベッドで眠る雅の寝顔を見つめる。
無垢で純真な彼女からは、幼子の愛らしさだけでは言い表せない魅力を感じる。
私のことを好いてくれていることは、すごく伝わってくる。今は体力がないから程よい構われ方だけど、もう少し大きくなったらもっと私に構ってくるのかしら。正直、ある程度は放っておいて欲しいのだけど、いざ構われなくなったら、きっと寂しい思いをしそうだわ。その時は私から誘えば大丈夫よね。
私は音もなくヘッドボードに飛び移り、雅の隣に滑り込んだ。
こうして静かな夜に寝息を立てる横顔を眺めていると、なぜか切ない気持ちになることがある。それはこの世で最も尊いものに感じられた。




