63.俺たちの、ささやかな『笑える日』だ。(燕命編:終)
光が、ぱきん、と割れる。
現実が戻る。
俺の掌の中で、二枚の札が静かに重なっていた。
蝶谷が、低く笑った。
「……いい子」
その声が、妙に遠い。
胸の奥で、ざらりと嫌な感覚が残る。
けど――終わったんだ。
あの戦いも、あの男も、もう戻ってこない。
深呼吸をひとつ。
夜の匂いを吸い込む。
空気が、少しだけ軽くなった気がした。
(これでいい。
これで、紫藤も、雨柳も――何も知らないまま、朝を迎えられる)
そっと目を閉じる。
まぶたの裏で、さっきの光景がまだちらついていた。
けど、それを押し流すように、俺はもう一度、札を強く握りしめた。
◇
札を重ね終えた俺は、深く息を吐いた。
胸の奥で、ざらりとした感覚がまだ消えない。
けど――終わった。
静まり返った会場に、かすかなざわめき。
さっきまで罵声を浴びせてきた信者たちが、動けずに立ち尽くしている。
「……うそ、でしょ」
「……だって、メシア様は……」
「仇が……消えた……?」
押し殺した声が、ぽつり、ぽつりと漏れる。
その言葉が現実を肯定するたび、彼らの顔から血の気が引いていく。
罵倒も怒りも、もう残っていない。
ただ、空っぽの穴を抱えて――呆然と、俺を見ていた。
俯いて肩を震わせる子。
笑顔を貼りつけたまま、目だけが死んでいる子。
その視線は、責めていない。
けど――俺は、嫌でもわかってしまう。
(……俺が、壊したんだ)
背後から、蝶谷の声。
「ねえ、名取くん」
やけに軽い調子で、俺の肩に指先が触れた。
「――で、どうする? このあと」
(……紫藤と、雨柳を守りたい。
せめて、明日の朝ぐらいは、何も知らずに笑わせたい)
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……今日と、明日だけでいい。
雨柳の部屋で……自由にさせてほしい」
蝶谷が、薄く笑った。
その瞳が、月明かりを含んで、妙に艶っぽい。
「ふぅん……“自由に”、ねぇ」
一歩、近づいてくる。
距離がやけに近い。
「――なんでもするー?」
囁く声。
吐息が首筋をかすめて、心臓が跳ねた。
(……っ、こういうときに、冗談言うなよ)
一瞬だけ、色々な考えが頭をかすめる。
逃げ道を探すみたいに、唇を噛んだ。
でも、やっと絞り出す。
「……戻るよ。
ちゃんと戻るから――約束する」
蝶谷は目を細めた。
ふわっと、花の香りが濃くなる。
「……そっか」
そして、ひとこと。
「じゃあ、好きにしなよ」
その笑みは、やっぱり底が見えなかった。
◇
雨柳の部屋に戻ったとき、俺はやっと肩の力を抜いた。
頭の奥に残っていた白い残光も、重い空気も、もう遠い。
視線を右にやると――紫藤が、桜の木に鶯がついてる……抱き枕?
いや、待て。それ、どこから持ってきた。
あんなにボロボロで帰ってきたのに、自分の部屋からちゃんと回収してきたのか?
……うん、まぁいい。考えるのやめよう。
その紫藤は、眉をひそめて抱き枕をぎゅっと抱えたまま、寝言をつぶやいた。
「……ボクは……パンダです……」
パンダじゃない。確実に。ツッコミを飲み込みつつ、俺は左を見る。
そこには雨柳。
ベッドに仰向けで、腕を顔に乗せている……が、寝息じゃない。
どう聞いても、それ深い溜息な。
しかも足、パタパタ揺れてるし。もう寝るフリすら雑だろ。
俺はその真ん中に潜り込み、ふぅ、と息を吐いた。
やっと、眠れそうだ――と思った瞬間、右の紫藤が左を向き、左の雨柳が右を向いた。
……おい。
「……絶対、起きてるだろ、お前ら」
大きな溜息を吐く俺に、さらに大きな欠伸が出た。
それを見て、二人は――吹き出した。
「だって、疲れたんだから仕方ないでしょ」
あ、普通に目開いてるじゃねぇかコイツら。
「で、どうだったんだよ、メシア戦」
「名取くんなら勝ったんですよね? ね?」
プレッシャーに満ちた紫藤の視線。やめろ、刺さる。
「卯月、それ以上名取にプレッシャー与えたら……オレが物理的にプレッシャーするからな?」
雨柳が指をポキポキ鳴らす。物騒だな。
「ひ、ひぇ!? 名取くん助けて下さい!」
「そうだな、雨柳」
「……えー、なんだよー?」
「それ、プレッシャーじゃなくて……プレス」
「そっか! じゃあ、プレスな!」
「な、名取くん!? 裏切りましたね! ボク怪我人なんですからぁ!」
……何だろうな、このくだらなさ。
全員、満身創痍。
俺だって疲労困憊なのに、笑いが止まらない。
明日は、きっと丸一日寝るだけになるんだろうな。
「俺さ、お前らが寝てる間に、全部終わらせてさ」
ふと、そんなことを口にしてしまった。
「うん」「はい」
素直な相づちに、逆にこっちが戸惑う。
「これで、危ないものは何もなくなったって……言いたかったんだ」
少しだけ、声がかすれた気がする。
「……そっか。ありがとな、名取」
雨柳が、ベッドに顔を埋めながらぽつりと続ける。
「オレ、ずっと“強い奴”でいなきゃって思ってた。……守られるとか、人生で初めてだ」
「ボクも……なんだろ、うまく言えないけど……名取くんがいると、まだ頑張れる気がするんです」
紫藤の声は、静かで、それでいてどこか柔らかい。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
――やめろよ。そんなこと言われたら、こっちが照れるだろ。
「……あー……はいはい、分かったから寝ろ」
わざと乱暴にそう言って、二人の布団をぐいと引っ張った。
ほんの少し、笑いがこぼれる。
もう戦う必要はない――少なくとも、今夜は。
メシアとの勝負も終わった。
誰も欠けず、こうして笑って戻って来られた。
この学苑じゃ、それだけで奇跡だ。
……それなら、今くらい信じてもいい。
――目を閉じたら、次はきっと。
小さく、誰にも聞こえないつもりで呟く。
「……朝起きたら、笑ってられる日を、渡してやるよ」
「えっ、今なんか言った?」
雨柳が身を起こす。
「……言いましたね。『笑ってられる日』、だって」
紫藤がわざとらしく口元を押さえて笑っている。
「なっ――聞くな! 忘れろ! 寝ろ!!」
顔が熱くなるのをごまかすように、二人の頭を布団に押し込んだ。
「ひどっ!」「名取くん、顔赤いですよ!」
そんな抗議も、笑いに変わる。
その音を子守唄みたいに聞きながら、俺はゆっくり瞼を閉じた。
――願いなんて、きっと全部は叶わない。
でも、今はこの一瞬でいい。
明日が来るまでの、この仮初の平和が――俺たちの、ささやかな『笑える日』だ。
◇




