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63.俺たちの、ささやかな『笑える日』だ。(燕命編:終)


光が、ぱきん、と割れる。

現実が戻る。

俺の掌の中で、二枚の札が静かに重なっていた。


蝶谷が、低く笑った。

「……いい子」

その声が、妙に遠い。


胸の奥で、ざらりと嫌な感覚が残る。

けど――終わったんだ。

あの戦いも、あの男も、もう戻ってこない。


深呼吸をひとつ。

夜の匂いを吸い込む。

空気が、少しだけ軽くなった気がした。


(これでいい。

これで、紫藤も、雨柳も――何も知らないまま、朝を迎えられる)


そっと目を閉じる。

まぶたの裏で、さっきの光景がまだちらついていた。

けど、それを押し流すように、俺はもう一度、札を強く握りしめた。



札を重ね終えた俺は、深く息を吐いた。

胸の奥で、ざらりとした感覚がまだ消えない。

けど――終わった。


静まり返った会場に、かすかなざわめき。

さっきまで罵声を浴びせてきた信者たちが、動けずに立ち尽くしている。


「……うそ、でしょ」

「……だって、メシア様は……」

「仇が……消えた……?」


押し殺した声が、ぽつり、ぽつりと漏れる。

その言葉が現実を肯定するたび、彼らの顔から血の気が引いていく。

罵倒も怒りも、もう残っていない。

ただ、空っぽの穴を抱えて――呆然と、俺を見ていた。


俯いて肩を震わせる子。

笑顔を貼りつけたまま、目だけが死んでいる子。

その視線は、責めていない。

けど――俺は、嫌でもわかってしまう。


(……俺が、壊したんだ)


背後から、蝶谷の声。

「ねえ、名取くん」

やけに軽い調子で、俺の肩に指先が触れた。

「――で、どうする? このあと」


(……紫藤と、雨柳を守りたい。

せめて、明日の朝ぐらいは、何も知らずに笑わせたい)


俺は、ゆっくりと口を開いた。

「……今日と、明日だけでいい。

雨柳の部屋で……自由にさせてほしい」


蝶谷が、薄く笑った。

その瞳が、月明かりを含んで、妙に艶っぽい。

「ふぅん……“自由に”、ねぇ」


一歩、近づいてくる。

距離がやけに近い。

「――なんでもするー?」

囁く声。

吐息が首筋をかすめて、心臓が跳ねた。


(……っ、こういうときに、冗談言うなよ)

一瞬だけ、色々な考えが頭をかすめる。

逃げ道を探すみたいに、唇を噛んだ。

でも、やっと絞り出す。


「……戻るよ。

ちゃんと戻るから――約束する」


蝶谷は目を細めた。

ふわっと、花の香りが濃くなる。

「……そっか」

そして、ひとこと。

「じゃあ、好きにしなよ」


その笑みは、やっぱり底が見えなかった。



雨柳の部屋に戻ったとき、俺はやっと肩の力を抜いた。

頭の奥に残っていた白い残光も、重い空気も、もう遠い。


視線を右にやると――紫藤が、桜の木に鶯がついてる……抱き枕?

いや、待て。それ、どこから持ってきた。

あんなにボロボロで帰ってきたのに、自分の部屋からちゃんと回収してきたのか?

……うん、まぁいい。考えるのやめよう。


その紫藤は、眉をひそめて抱き枕をぎゅっと抱えたまま、寝言をつぶやいた。

「……ボクは……パンダです……」

パンダじゃない。確実に。ツッコミを飲み込みつつ、俺は左を見る。


そこには雨柳。

ベッドに仰向けで、腕を顔に乗せている……が、寝息じゃない。

どう聞いても、それ深い溜息な。

しかも足、パタパタ揺れてるし。もう寝るフリすら雑だろ。


俺はその真ん中に潜り込み、ふぅ、と息を吐いた。

やっと、眠れそうだ――と思った瞬間、右の紫藤が左を向き、左の雨柳が右を向いた。


……おい。

「……絶対、起きてるだろ、お前ら」


大きな溜息を吐く俺に、さらに大きな欠伸が出た。

それを見て、二人は――吹き出した。


「だって、疲れたんだから仕方ないでしょ」

あ、普通に目開いてるじゃねぇかコイツら。


「で、どうだったんだよ、メシア戦」

「名取くんなら勝ったんですよね? ね?」

プレッシャーに満ちた紫藤の視線。やめろ、刺さる。


「卯月、それ以上名取にプレッシャー与えたら……オレが物理的にプレッシャーするからな?」

雨柳が指をポキポキ鳴らす。物騒だな。

「ひ、ひぇ!? 名取くん助けて下さい!」

「そうだな、雨柳」

「……えー、なんだよー?」

「それ、プレッシャーじゃなくて……プレス」

「そっか! じゃあ、プレスな!」

「な、名取くん!? 裏切りましたね! ボク怪我人なんですからぁ!」


……何だろうな、このくだらなさ。

全員、満身創痍。

俺だって疲労困憊なのに、笑いが止まらない。

明日は、きっと丸一日寝るだけになるんだろうな。

「俺さ、お前らが寝てる間に、全部終わらせてさ」

ふと、そんなことを口にしてしまった。


「うん」「はい」

素直な相づちに、逆にこっちが戸惑う。


「これで、危ないものは何もなくなったって……言いたかったんだ」


少しだけ、声がかすれた気がする。


「……そっか。ありがとな、名取」

雨柳が、ベッドに顔を埋めながらぽつりと続ける。

「オレ、ずっと“強い奴”でいなきゃって思ってた。……守られるとか、人生で初めてだ」


「ボクも……なんだろ、うまく言えないけど……名取くんがいると、まだ頑張れる気がするんです」

紫藤の声は、静かで、それでいてどこか柔らかい。


胸の奥が、じわっと熱くなる。

――やめろよ。そんなこと言われたら、こっちが照れるだろ。


「……あー……はいはい、分かったから寝ろ」

わざと乱暴にそう言って、二人の布団をぐいと引っ張った。


ほんの少し、笑いがこぼれる。

もう戦う必要はない――少なくとも、今夜は。

メシアとの勝負も終わった。

誰も欠けず、こうして笑って戻って来られた。


この学苑じゃ、それだけで奇跡だ。

……それなら、今くらい信じてもいい。


――目を閉じたら、次はきっと。

小さく、誰にも聞こえないつもりで呟く。

「……朝起きたら、笑ってられる日を、渡してやるよ」


「えっ、今なんか言った?」

雨柳が身を起こす。


「……言いましたね。『笑ってられる日』、だって」

紫藤がわざとらしく口元を押さえて笑っている。


「なっ――聞くな! 忘れろ! 寝ろ!!」

顔が熱くなるのをごまかすように、二人の頭を布団に押し込んだ。


「ひどっ!」「名取くん、顔赤いですよ!」

そんな抗議も、笑いに変わる。

その音を子守唄みたいに聞きながら、俺はゆっくり瞼を閉じた。


――願いなんて、きっと全部は叶わない。

でも、今はこの一瞬でいい。

明日が来るまでの、この仮初の平和が――俺たちの、ささやかな『笑える日』だ。


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