62.ここからは、悪役の矜持
「あなたが勝った。
なら――私は、完璧に負けなきゃいけない」
その声は、奇妙なほど澄み切っていた。
そこにいたのは、欺く者じゃない。
――救済を語る者の顔だった。
「……は、はぁ……ふ、ふふ……」
笑うたびに、息がこぼれる。
それでも――唇だけは、きれいに弧を描いていた。
「……見ていますか?」
その声が、ざわめきを裂く。
「あなた方が求めた“神”の最期ですよ」
誰かが息を呑む音がする。
メシアは肩で笑い、視線を横に滑らせた。
「――さあ、祝ってください。呪ってください。どちらでも構いません。
等しく、甘美なものですから」
その目に、憎しみも後悔もない。
ただ――どこか遠くを見ていた。
光を失った瞳なのに、冷たく強い。
「信じてくれて……ありがとう」
吐き出すように、柔らかな声。
一瞬だけ、震えが混じった気がした。
そして、次の言葉は――鋭利だった。
「でも――信じた時点で、あなた方の負けだ」
「そんなの……違う……!」
泣きそうな声が、どこかで上がる。
「嘘だ……俺たちは……救われたはずだ!」
「まだ信じてる……信じたい……!」
祈りと罵声が交錯する。
「悪魔が憑りついてるんだ! メシア様を返せ!」
「ふざけるな……俺たちは、何のために……!」
「裏切りだ……裏切りだ……!」
「じゃあ……俺たち、何を信じればいいんだ……?」
嗚咽まじりの声。
「……誰も……もう……」
会場が軋む。
――逃げ出そうとする者。
――なお祈り続ける者。
――呆然と立ち尽くす者。
足音、嗚咽、祈り。
全部が混じって、音が濁っていく。
その混沌を、メシアは笑いで切り裂いた。
だが、その笑みはもう、血の味がするほどひび割れていた。
「――では、教えて差し上げましょう」
声が、落ちる。低く、深く。
「“苦しさは幸福への道筋”?」
間を置いて、吐き捨てる。
「――そんなわけないでしょう」
微笑んだまま、言葉だけが鋭くなる。
「そんなものを信じるのは、養分になりたい馬鹿だけですよ」
ざわめきが震えた。誰かが泣き崩れる音がした。
「賢く、正しい努力以外は、全部無駄です」
淡々と、静かに。
「そんなことも分からないんですか?」
吐息が乱れている。
なのに、彼はまだ笑っている。
誰よりも、優しく、誰よりも酷く。
「あなた方は、“弱さ”を飾るために、私を選んだ」
声が、かすれた。
「なら、次は――何を選ぶんですか? ……愉しみですね」
その瞬間、足元に血のような熱が広がった気がした。
メシアの声が、耳に残って離れない。
そして――美しく笑ったまま、呪いのように囁いた。
「……だから、愛を込めて。
――地獄から、あなた方へ。祝福を」
その声に、会場のざわめきが一瞬止まる。
ふっと、肩が落ちた。
優雅な所作のはずなのに、背筋に“ぎこちなさ”が混ざっている。
「……あ……は、ぁ……」
吐息が漏れるたび、胸の奥で何かが砕けていく。
指先が、ぴくりと痙攣した。
片膝を、床に。
袴が広がり、ゆっくりと沈んでいく。
その姿は、どこか――舞台の終幕のように美しいのに、儚かった。
「……冷たい……指が…………どうして……」
「……見えて……ない……暗い……」
言葉は途切れ、ノイズみたいに震える。
焦点を失った瞳が、宙をさまよっていた。
最後に、唇がかすかに動く。
「……これで……よかった……」
――その声は誰にも届かせない程に、小さかった。
微かな安堵が、奥ににじんだ声だった。
次の瞬間、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
床を打つ音は、驚くほど小さかった。
だが――笑みだけは、顔に貼りついたままだった。
……その時だった。
――乾いた音が、耳を打つ。
視線を落とすと、一枚の札が床に転がっている。
柳に燕。
あの男が抱えていた仇の札。
それが、もう意味を失った証みたいに、静かにそこにあった。
背中に、声が落ちてきた。
柔らかいのに、やけに耳に残る声。
同時に――ふわっと、花の匂いがした。
牡丹。甘くて、ちょっと重たい香り。
「――おめでとう、名取くん」
振り返ると、そこにいたのは蝶谷。
長い髪が、月明かりを吸ったみたいにゆるやかに揺れている。
その笑みは、穏やかなのに……どこか底が読めない。
見てるだけで、背中に鳥肌が走る。
蝶谷が、耳のすぐそばで囁いた。
息がかかる距離で。
「ねえ、それと……君の“仇”が入ってる札、重ねてみよっか」
意味は分かった。
分かったのに、胸の奥がざらりと逆立った。
心臓の奥で、何か嫌な音がした。
「……いや、今、そんな気分になれない」
声がかすれる。
勝ったはずなのに――全然、嬉しくない。
「知ってるよ」
ひと呼吸置いて、蝶谷が笑う。
低い声で、ふわっと。
「……なら、俺の仇にしちゃおうか?」
「いや、それは違うだろ」
「だよねぇ」
細い指先が札をなぞる音がやけに響いた。
「なら、重ねようよ」
俺は、札を見つめる。
柳に燕。
その隣に、自分の仇の札。
胸の奥で、ざらりと何かが逆立っていた。
でも――ここで逃げたら、違う。
(だって……二人は、俺のために)
紫藤と雨柳。
血を流して怯えたあの姿、俺を庇って怒鳴る声。
その二人が信じてくれた俺が、ここで背を向けていいはずがない。
この制度が間違っているとわかっていても――
ここまで来た以上、従うしかない。
それが、この世界の“筋”だ。
(終わらせるんだ。二人が眠っている間に、全部)
(朝、目を覚ましたときには――何もかも終わってるように)
俺は、札を重ねた。
――瞬間、白い閃光が視界を裂く。
胸の奥に、何かが流れ込んできた。
熱と冷たさが入り混じった奔流。
メシアの――過去。
◇
「――祝福されて生まれた子だ」
そう言われていた。
未来を視る一族の家に、生まれたから。
父も、母も――誰の未来でも、何十年先まで透き通るように見通せた。
なのに、私だけは。
(……何も、見えない)
どれだけ睨んでも、映るのは、ぼやけた影ばかり。
「……どうして、お前は」
父の声は、刃のように冷たく、耳を裂いた。
その視線を、正面から受け止められなかった。
首が動かない。喉が、固まる。
「未来を語れない子は、ただの――」
父は言葉を飲み込み、代わりに吐き捨てるみたいに笑った。
(役立たずだって、笑われた)
私も、そう思うしかなかった。
だから、決めたんだ。
この学苑で、せめて――権力を握る。
そこにしか、生きる意味を置けなかった。
――そして、私は戦った。
未来が曖昧でも、ぼやけた影を頼りに、勝てる相手を選んで。
勝って、勝って、勝ち続けて……。
「燕 メシアくん、君さ――柳の副牌、やってみない?
野良で仇討ちされても困るでしょ」
柳の主牌、小野先輩にそう告げられたとき――
やっと、息ができた気がした。
けど、安心した途端に、見えてしまったんだ。
教室の隅から、視線が刺さる。
昔の私と同じ、壊れかけの子たちの目だ。
(捨てられて、必死に立っている子ばかり……)
“信じたい誰か”を、探してる目だった。
そのとき、悟った。
――私が、選ばれたんだ。
なら、逃げられない。
せめて、麻酔を打とう。
「幸福の準備」なんて言葉で、痛みを誤魔化してやろう。
死ぬための学苑生活に、意味があると思わせてやろう。
それが、私にできる“救い”だと――思い込むしかなかった。
そして、今日。
名取くんとの仇討ちの最中で――視えてしまった。
「……っ」
指先が震える。視えた未来は――私の敗北。
(動揺するな……大丈夫、まだ――)
駄目だ。視えてしまったら、もう、勝てない。
(じゃあ……彼らは?)
今さら負けられない。
信じてくれた、あの子たちは?
――なら、決めろ。
「“信仰”なんて、最初から茶番ですよ」
声が、ざわめきの中で異様に澄んで響いた。
苦しかった。その声が、会場の隅々まで突き刺さる。
「あなた方は、自分の弱さを飾るために――私を神にしただけだ」
視線を上げる。
彼らの顔には、驚きと恐怖と、否定したい色が入り混じっていた。
それでいい。それでいいんだ。
(……そうだ。大噓を吐こう)
最後まで、悪役を演じ抜こう。
嫌われて、軽蔑されて――それでいい。
彼らが、私を見捨てられるなら、それでいい。
(……本当は、最後まで信じて欲しかったけど)
でも、それじゃ、彼らが不幸になる。
そんなの、教祖失格だ。
――これは、自己犠牲じゃない。
ただの意地だ。
最後まで、彼らにとっての“救済者”でありたい――
そんな、最低で滑稽なエゴ。
だから、笑え。
世界で一番の悪役の顔で。
断頭台に立つなら、処刑されるのは――
最も醜く、最も悪い奴の方が、皆は喜ぶじゃないか。
◇




