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61.救世主は、救逝を説く


俺の手の中で、札がひとつ、またひとつと冷たく並んでいく。

ただの紙切れだ。けれど、その重みは指先に鉛のように食い込んでいた。


――最後の儀式。

勝った俺が、敗者に“引かせる”。

ただ、それだけ。

なのに、喉が焼けつくみたいに渇いて、息がまともにできない。


「……引いて、くれ」


掠れた声が、やけに遠くで響く。

言わなきゃ終わらない。この“地獄”は、俺が札を渡さなきゃ終わらない。


メシアが、歩み寄ってくる。

足取りは驚くほど軽やかで、堂々としていた。

――まるで、ここが自分の舞台だと言わんばかりに。


「名取くん」

その唇が、なめらかな曲線を描いて笑う。


「……勝者には、似合わない顔をしてますね」


「……そう見えるか?」


「ええ、残念ながら」

肩をすくめる仕草さえ、絵になるほど艶やかだった。

「こういうときは――笑うものですよ。勝者は」


メシアが、すっと背を反らし、両手を広げて振り返る。

その先にいるのは、震える信者たちだ。


「……メシア様……?」

「大丈夫ですよね……?」


不安にすがる声が、小さく漏れる。

それを、彼は刃で切り裂くような声で、甘く笑った。


「まだ、私を信じているんですか? 本当に――愛らしい」


その声音は、優しさに似た毒を孕んでいて、ぞっとするほど甘美だった。


「……やめろ」


言葉が勝手に漏れる。何に対してか、自分でも分からない。

けれど――苦しかった。


俺が勝ったから、今、この光景がある。

一人の青年が負けただけで、多くの人が不安に震えている。

それなのに、さらに煽って、踏みにじる必要なんて――どこにもないだろう。


なのに、止められない。

俺の声なんて、この舞台のざわめきには届かない。


「……やめろ、だって?」


その声に、背筋がぞくりとした。

メシアの瞳が、まっすぐ俺を射抜く。

光を帯びた十字架が、その双眸に沈んでいた。

笑っている――冷たく、祈りにも似た笑みで。


「優しいですね」


吐息みたいに柔らかい声。それなのに、耳に刺さる。


「でも、そんなものじゃ、誰も救えない。

……あなたも、救えない」


「救うつもりなんか――」


「嘘は嫌いです」


囁きが、首筋をなぞるように甘く落ちた。

そこに潜む毒が、全身を鈍く痺れさせる。


「あなたは、救いたい。そういう顔だ」


ゆっくり、慈しむみたいに続ける。


「でも――"悪役"を踏み潰せないなら、その優しさはただの飾りだ」


……胸が、きしりと軋んだ。

息が苦しい。

何を言い返しても、負けを認めるようで、口が動かなかった。


「――ほら。札を」


その一言と同時に、メシアの指先が俺の手元に触れる。

冷たい。

けれど、その冷たさよりも先に――空気が震えた。

視界がきつく狭まり、音が遠のく。


――何かが始まる。

そう思った瞬間、喉の奥で言葉が砕けた。


その時、――風が鳴った。

耳の奥で、ひゅう、と細い音がしみ込む。

思わず、空を仰ぐ。


「……どうしました?」


声をかけられて、肩がわずかに跳ねる。


「い、いや……何か――」


視界の隅で、柳の影がしなっている。

……動くはずのないものが、風に揺れたように。


幻覚?

そう思った時には、もう音は消えていた。


(……何だ、今の……)


「命乞いの時間を頂けるのは有難いですが――」


メシアの声が、ゆっくりと笑みを刻む。


「……いっそ、早く殺して下さい」


――現実が、鋭く割り込んだ。

耳に残っていた羽音が、一瞬で断ち切られる。

幻の赤は霧散し、無機質な白が視界を満たす。


「ああ……悪かった。

――引いてくれ」


掠れた声が自分のものだと

気づくまでに一拍かかった。


メシアの指先が、そっと札に触れた。

指の動きが、やけに緩慢に見える。

呼吸が詰まる。耳の奥で、自分の鼓動が痛いほど響いた。


――ひらり。


一枚の札が、静かに裏返る。

絵柄が、視界に突き刺さる。


芒に雁。

――芒……八月だ。

月札の数字を、反射的に思い出す。

八月。偶数。


その瞬間、胸の奥が、ひび割れるような音を立てた。

足元の世界が、一気に裏返る。


偶数。


短いその言葉が、刃のように突き刺さる。



「はいっ、偶数入りました~~~っ!」



賀松の明るい声が、銃声みたいに空気を撃ち抜いた。

一瞬で、世界が裏返る。


どよめき。罵声。泣き声。

熱狂は崩れ落ち、血の匂いを孕んだ狂気に変わっていく。

足音が床を叩き、誰かが椅子を蹴り倒す音が混じった。


「仇花に……なったのか……?」

「教祖なら、奇跡で奇数に出来ただろ!」

「メシア様、なんで……!」


絶叫が飛び交う中で、信者の一人が膝をついた。

「……嘘だ……違う……」


その声を、メシアは嗤った。


「――ねえ、笑わせないでください」


声音は、冷たく、艶を帯びていた。

吐息の一つさえ、氷の刃みたいに鋭い。


「信じた? 私を?

――滑稽ですね」


メシアの口元が、薄く歪む。


「“信仰”なんて、最初から茶番ですよ」


彼の声が、ざわめきの中で異様に澄んで響いた。

冷たさと艶を帯びた響きが、会場の隅々まで突き刺さる。


「あなた方は自分の弱さを飾るために、私を神にしただけ」


空気が震えた。

その一言で、ざわめきが爆ぜる。

誰かが泣きそうな声をあげる。


「そんなこと、ない……」

「俺たちは――」


悲鳴にも似た反論が、波紋のように広がっていく。

だが、メシアの微笑は揺るがない。

むしろ、舞台の幕を開く俳優のように、完璧な弧を口元に描いていた。


「――裏切られた顔をされるのは、何故でしょうか」


その声が、静かに、観客の心を刈り取っていく。


「だって、あなた方は“騙されていた”だけ」


短い沈黙が、会場を呑み込む。

音が遠のき、冷たい空気が足元から這い上がる。

息を呑む音が、ひとつ、ふたつ。


そして――

「おもちゃと遊ぶのに、理由なんて要らないでしょう?」


その瞬間、異変に気づく。

メシアの影が、淡く揺らいでいた。

黒がにじみ、音もなく剥がれ落ちていく。

まるで、存在そのものが風に解かれていくみたいに。


(……これが、仇を失うってこと、なのか……?)


喉の奥が焼けるように乾く。

そのとき――メシアが小さく咳き込み、身体を折り曲げる。

膝が、わずかに床を叩いた音が響く。

――倒れる。

そう思った瞬間、俺は反射的に肩を差し出していた。


「……メシア、もう休めよ。

影が……おかしいことになってる」

声が震えているのが分かった。

けれど、彼はその言葉を踏みつけるように――笑った。


「――いいわけ、ないでしょう」

完璧な弧を描いた唇。

だが、その奥で、呼吸は乱れ、喉が小さくひゅう、と鳴っている。

肩を預けながらも、必死に背筋を伸ばそうとする仕草が痛々しい。



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