5.悪辣な合理も、勝てば官軍
◇
美術塔の静かな一室。
冷たい石の床に、ぱた、ぱた、と札が並ぶ音だけが響いていた。
音の主は、蝶谷 夜白。
黙ったまま、黒い花札を一枚ずつ並べていく。
その手つきには、妙な緊張感と、どこか楽しげな空気が混ざっていて――
まるで舞台の“仕込み”でもしてるみたいだった。
「……まずは、全部見せるね」
俺の方を見もせず、蝶谷は札をひとつずつ拾い上げては、丁寧に床へ置いていく。
花が咲くように広がっていく札たち。けど、どれもただの“飾り”じゃない。
そう。しっくりくるのは――「駒」。
「一月、二月、三月……」
蝶谷がひと月ずつ口にしながら、札を並べていく。
それぞれに違う花が描かれていて、意外と華やかだった。
「……ってことは、1つの花に4枚か。
12つの花があるから全部で48枚?」
俺がぼそっとつぶやくと、蝶谷が軽く頷いた。
「うん、そう。構成はそんな感じ。
トランプでいうスペードとかハートの代わりに、“松”とか“藤”とかね。名前は色々あるけど」
蝶谷は一枚、黒っぽい札をひょいっと摘んで見せてきた。
「最初のうちは、ぜんぶ“花”って呼んじゃっていい。
名前とか絵柄より、“合わせられるかどうか”のほうが大事だから」
そう言って、札を二枚、指先でスッと寄せて――
ぱんっ。
乾いた音が、静かな部屋に響く。
紙でも木でもない、不思議な音。けど、確かに“重なった”感触があった。
「トランプでさ、同じマークの札を揃えるゲームあるじゃん? あれと近いよ。
花札では同じ“月”の札を合わせたら、“揃った”ってことになる」
「……あれ? 札って、よく見ると似てるの多くないか?」
「ふふ、気づいた? でもね、全部ちゃんと違うんだよ」
夜白は、品のいい仕草で札を並べ直す。
「これが一月から十二月。
いわば、季節の花カレンダーってやつだね」
「えーと……サボテン、梅、桜、ブドウ、アヤメ、牡丹、ナンテン、山、マリーゴールド、紅葉、柳、桔梗……とか?」
「……今、サボテンって言った? あとマリーゴールド?
その発想、逆にすごいよ」
「いや、自分でも途中で“何かおかしい”とは思った」
「うんうん、そういうズレ方、嫌いじゃない。むしろ興味ある。
ねえ、もう一回じっくり聞かせて?」
「拷問かよ……やめてくれ、ほんとに」
「まあ、花の名前なんておまけだよ。
大事なのは、“どれがどれとくっつくか”ってこと」
「じゃあ実際は何なんだよ、サボテンは置いといて教えてくれ」
「えーっと……なんだったっけ、サボテン?」
「ボケてるだろ完全に」
「でもね、名取くん。
花の名前、覚えない方が強くなるんだよ?」
「……は?」
「花札はね、“精神戦”なんだよ。
ちょっと抜けてる方が警戒されないし、相手の読みも狂う。
結果、勝てる」
蝶谷は札をすべらせながら、涼やかな目元で笑う。
――その奥に、“何かを試している”ような気配があった。
「……でも俺は、そういうの好きじゃない。ルールはちゃんと知っておきたい」
「真面目だなぁ。
じゃあ、マツウメサクラーフジアヤーメボタンハギススキキクーモミジヤナギキリー」
「おい、その言い方ふざけてるだろ」
「うん、ふざけてる。だって本当は教えたくないもん。
覚えたら、鈍るよ? 強さって、意外とそういうもんでしょ」
「……そうなのか?」
「覚えるのは“取る優先順位”だけでいいんだよ。
菊・桜・芒が一軍。松・紅葉・牡丹・桐が二軍。
萩と梅が三軍で……ベンチウォーマーは藤と菖蒲、ってとこかな」
――たかが、花の絵札を揃えるだけの遊び。
最初は、そう思っていた。
けれど――
蝶谷のその“軽口”の裏側にあった妙に研ぎ澄まされた“本気”が、
背中にじわりと冷たい汗を這わせてくる。
◇
「はい、名取くん。“出す”練習ね。
同じ花を合わせるだけ。とーっても簡単な作業だよ?」
蝶谷の声は、ふわっと空気に溶けるような柔らかさだった。
でも、なぜかスッと胸の奥に刺さる。妙に印象に残る声色。
「名取くん、“桜さん”と“梅さん”のご挨拶、できるかな?」
「……誰?」
「このお二人のこと」
蝶谷がすっと札を二枚差し出す。
片方はまるっこくて愛嬌のある“梅”。
もう片方は花びらがギザギザしてて、ちょっと派手めな“桜”。
「……俺のこと、完全に初心者扱いしてるだろ」
「うん、してるよ。だから、はい。見分けて?」
「こっちが梅で、こっちが桜……だろ?」
「正解。お見事。すごーい、初対面で見抜くなんて」
蝶谷がぱちぱちと拍手じゃなくて、指をぱちんと鳴らす。
軽い音なのに、耳に残る。不思議と印象的だ。
「馬鹿にするな……って言いたいところだけどな。
ま、学びってのは段階あるし、最初は初級から、が普通だよな」
「ふふっ、さすが元先生。
でも今回はね、おちょくるために言っただけ」
苦笑しながら肩をすくめるしかない。
「じゃあ、改めて言わせてもらおうか」
「うん、どうぞ」
「馬鹿にするなよ」
「うんうん。君は今、生まれたての赤ちゃんだから。
馬鹿なの、当然だよね?」
蝶谷が、にこりと芸術作品みたいに美しい笑みを浮かべる。
その笑顔、光の加減で見たらたぶん、額縁に入れてもいける。
でも――中身は、わりと容赦なかった。
「じゃあ、桜の札を“桜に幕”の札と合わせてみようか」
蝶谷が指さしたのは、中央に置かれた、派手な一枚。
赤に、紫に、黒――まるで歌舞伎の舞台みたいなデザインだ。
「……たしかに、“幕”って感じだな」
俺はさっき覚えたばかりの“桜”の札を手に取る。
ちょっとだけ緊張して、深呼吸して、それから――そっと重ねた。
ぱんっ。
控えめな音だったけど、手のひらにちゃんと“合った”感覚が伝わってくる。
「うん、ばっちり取れた。
じゃあその札、自分の右側に置いてね」
「……右って、こっちか?」
一瞬迷ってから、手元の右側を指さす。
「正解。そこが“君の陣地”。
札の並べ方って、人によってクセ出るんだよ。そこを見るの、けっこう好き」
「花札で性格診断かよ……」
「うん、そういうの楽しいじゃん?
たとえば君には、“わざと雑に置いて”ほしいな」
「いやいや、なんで?」
蝶谷は、にこっと笑った。
やわらかく、どこか芸術作品みたいに整った笑顔。
「――勝つため、かな」
その言い方は、ほんとに軽い。
でも、言葉の奥に混じる"本気”が、妙に冷たかった。
その目は、まるで珍しい虫でも観察してるみたいにじっとしてて――
けれど、その奥にあるのは、ちゃんとした"戦意"だった。
俺は思わず、ため息をつく。
取った札を、わざと雑に、ぐちゃっと置いた。
まるで花畑を足で踏んだみたいで、胸がざらっとする。
「……なあ、俺って今、教えてもらってるの、ほんとに"花札"だよな?」
「もちろん」
蝶谷はさらっと返す。
「――ただし、“勝たなきゃ命がない”タイプの花札ね。
楽しさ? 正しさ? そういうのは、勝ったあとに思い出せばいいんじゃない?」
言ってることはめちゃくちゃなのに、妙に筋が通ってて、反論できなかった。
もう一度、深く息を吐いて、散らばった札たちを見つめる。
“なんか気分悪いな”って思ったけど、
ここで俺は、誰でもない存在で――
だったら、今この場で“誰かになる”しか生きる道がない。
俺は溜息を吐いて、受け入れる。
――そのとき。
「さあ、これで君も、やっと“人権あり”だね」
蝶谷が、冗談みたいに笑った。
けど、目は全然冗談じゃない。
それに卑怯を受け入れろ、なんて冗談じゃない。
でも、俺は何者でもない。今は彼に教わるしかない。
彼だって俺を勝たせようという意思は本物だと伝わってくる。
だから俺は、黙って頷く。それしかない。
◇