25.【従属の美学】沈む声、沈む拳、沈む俺たち
そのときだった。
「……やめて、ください!!」
張り詰めた声が、遠く、空気の膜越しに聞こえた。
耳が、ふわふわする。反響するような、押し返すような。輪郭のぼやけた音。
紫藤……卯月が、叫びながら、一歩、踏み出していた気がした。
「彼は……このまま連れて行かれたら……!」
声が震えてる。必死だってことは、わかる。でも、言葉の端々が、霧の中に溶けていく。
「……きっと、もう……感情を……殺して……ただ、勝つためだけの……しか……できなくなる……っ。
……それじゃ、心が……壊れるんです……!」
叫んでるのに、ごめんな……。
声が、うまく聞き取れない。
霞がかった視界の中で、彼の姿だけが滲まずにいた。
それが、妙に悔しかった。
……なんで、こんなときに限って、ちゃんと見えるんだよ。
でも、すぐに――
「――坊ちゃま」
低く、静かな……けど、はっきり聞こえる声が、彼を止めた。
誰かが、腕を掴んでいる。
白くて細い指。冷たい陶器みたいな肌。……ああ、あれは、“ほとり”って呼ばれてた子だ。
俺の視界の端に立つその姿が、白く、赤く、ゆらいで見える。
「だめですよ。前に出ては」
「……ほとりさん、やめて……お願い、今だけは……!」
紫藤の声が、震えていた。懇願するように。
なのに。
「坊ちゃまの“願い”を、こんなところで……台無しにするつもりですか?」
……穏やかだ。でも、逃げ場がない。あの声は。
紫藤の足が止まったのが、わかった。
体ごと、沈むように見えた。
俺、……何もできない。
悔しいのに、動けない。……情けない。
このまま、誰かの腕の中で沈んでいくだけなんて――。
「……どうして……みんな……人を、駒みたいに……使うんだ……」
紫藤のかすれた声。
ちゃんと聞こえた。そこだけが、鮮明だった。
“駒”か。……たぶん、俺も、その一つだ。
いや、すでに、壊れかけの。
そのとき。
「……名取、」
別の声がした。雨柳だ。視界の向こうで、一歩、前へ。
彼が拳を握っているのが、ぼんやりと見えた。
たぶん、蝶谷に向かって行こうとしてる。
でも
「……ああ、鬼雷くん。それ以上は、だめだよ」
青年の忠告に似た低い声が響いた瞬間、時間が止まった気がした。
柔らかい。でも、冷たい。
選択肢なんて、最初からなかったみたいに、綺麗に言い切る声。
「君は、最初から“従うしかない”立場だったはずだろう?」
雨柳の動きが止まった。
あの肩がびくりと震えるのが、分かった。
その拳。震えていたのに。
……前には、出られなかった。
「花札も教わってない。駆け引きも、交渉も。君には、戦うための武器が与えられていない。
ただ、“汚れ役”として、ここに置かれてるだけ」
遠回しじゃないのが、余計に刺さる。
どこも尖ってないのに、冷たくて、刺さる。
視界が、また落ちる。
瞼が重たい。けど、あの声だけは、なぜかよく届く。眠気の中に、水音のように染み込んでくる。
「その役目を果たせば、将来は護衛でも武官でも、“まともな場所”に行ける。
でも……機嫌を損ねたら、その時は――」
間。
「手足を切り落とすよ。君のだけじゃない。
今、君が守ろうとしてる“周り”ごと、ね」
雨柳の拳が、小さく震えてる。
でも、言い返さない。
俺と同じだ――ただ、立ち尽くすしかない。
悔しい。ほんとに、悔しい。
目を閉じれば、少しだけ楽になる。
でも、閉じたら最後。きっと、もう目を開けられない気がする。
それでも、声は止まらなかった。
「ああ、そうだ。ついでに、ひとつだけ」
まるで世間話でもするかのように、青年は続ける。
でも、その口調が、一番怖い。
「鬼雷くんが“美術塔に行きたい”って言ったとき、小柳 小路先輩は……止めませんでした。
蝶谷さんって、仇を扱う研究者であり美術者ですよね? 普通なら、警戒すると思うんですけど……」
また、空気が変わった。
「むしろ、道案内までしてたって聞いてます。あれ、どうしてでしょうか」
声が、ざわめきに変わる。
「知ってて、黙ってたの?」
「それって……ちょっと……」
誰かの失敗が、誰かの責任にされていく。
そんな流れが、はっきりと分かる。
俺が――何もできないうちに。
「すみません。そんなに困らせるつもりはなかったのですが……余計なことを言ってしまいましたね」
青年はそう言って、一歩、下がった。
“ただの通りすがり”みたいに。
俺たちは、ただ……“置かれてるだけ”のようで、
実際には、ちゃんと“役割”を割り振られて、利用されてる。
誰かの“都合”のいい筋書きの中に、黙って並べられてるだけなんだ。
そう思ったら、涙が出そうになった。
眠い。悔しい。寒い。……なにより、情けない。
きっと今の俺は――誰よりも、“弱くて、都合のいい存在”に見えてる。
……そんなふうにしか見られない自分が、一番、許せなかった。