51.こい被りと特別講義
「……そういえば、2文って……なんだ?」
「あの。蝶谷先輩……教えておいてくださいよ」
「えー? 俺、一回しか言わないって言ったじゃん。
聞いてなかったの、名取くん?」
あくび混じりに蝶谷は軽く髪をかき上げた。
だるそうなのに、なんとなく機嫌が良さそうで――まるで飼い猫みたいな仕草だった。
「それに脱走した飼い犬にあげる餌なんて、ないんだけどなー?」
「そこをなんとか。周りの目が地味に痛い。
蝶谷先輩、助けてくれ」
「しょうがないなぁ」
くすっと笑って、蝶谷が身体をこちらへ少し傾ける。
その動きに合わせて、周囲のざわつきがわずかに引いた気がした。
「君が“戦いたい”って顔するようになっただけでも、進歩だと思うから――今回は特別」
肩をすくめるようにして笑ったその顔は、いつもよりやさしくて。
不意に、胸の奥がくすぐったくなった。
けれど。
「……次からは、ちゃんと俺に従ってね?」
その一言だけ、音が違った。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
笑顔のままなのに、目だけが異様に鋭かった。
(……今の顔、笑ってなかったよな)
「じゃあ、特別講義」
声のトーンは変わらないのに、空気がぴりりと引き締まる。
さっきまでゆるかった世界が、急に輪郭を持ちはじめた。
「相手が“こいこい”してるときに上がると、点数が倍になる。
それを“こい被り”って呼ぶの。今は、名取くんがちょっとだけ優勢。
メシアくんが1文、名取くんが2文――」
(……そっか。勝ってる。俺が)
じんわりと、胸が温かくなる。
けれど――
「じゃあ、問題」
蝶谷の声が、ふと鋭さを帯びた。
「メシアの持ってる札の中に、ひとつだけ推測できる札があるんだけど……なーんだ?」
「え……この二枚の中で……? 分からない」
蝶谷は一拍だけ間を置いてから、低く、静かに言った。
「……メシアくん、持ってるでしょ。
――“菊のかす”」
その瞬間、音のない波紋が広がる。
メシアがこちらを向く。
無表情のまま、ほんのわずかに唇を持ち上げて――笑った。
けれど、それは喜びでも余裕でもない。
ただの“応じた”だけの笑みだった。
一瞬、蝶谷と目が合う。
でも、何も言わない。
その沈黙が、逆に不気味だった。
やがて――札が差し出される。裏向きのまま。
メシアの指先が、ほんのわずかに震えていた。
(……これ、ほんとに“菊のかす”なのか?)
確認したい衝動に駆られたが、同時に、これをめくるのは――
何かを壊すことになるような、そんな気もして。
だから俺は、裏のまま受け取り、黙って山札に混ぜた。
一切の確認をせずに。
そのときだった。
メシアが、ぱち、と俺の方を見た。
……目を見開いていた。
その表情に、驚きとも、苛立ちともつかないものが一瞬浮かぶ。
そして――
「……そういう所ですよ」
ぽつりと、吐き捨てるように言って、俺を睨んできた。
なんだ……?
なんで今、それを言うんだ?
責められた、ってほど強い言葉じゃない。
でも、軽い冗談でも、感謝でもない。
むしろ――怒っているような、でも、どこか羨ましそうな、そんな色が混じっていた。
俺は思わず言葉を返せず、ただ一度、ゆっくり息を吸う。
目の前の空気が、すっと張り詰める。
体の内側が、じんわりと熱を帯び始めていた。
(……最後の勝負だ)
音もなく、その始まりが――静かに迫ってくる。
◇
こいこいでは、勝ったほうが次の“親”になる。
だから――三月戦の“親”は、俺だ。
札を配く。
その瞬間、胸がざわつく。
(……いけるかもしれない)
最後の勝負が、静かに動きはじめた。
場に出てる札は――
桐のかす、桐のかす、【萩】の短冊、【桜】のかす、【桜】に幕、菖蒲のかす、牡丹に青短、藤のかす。
手札は、
紅葉に鹿、【桜】のかす、【萩】に猪、松に鶴、梅のかす、梅に鶯、芒に月、柳に燕。
まず気になるのは、「桜に幕」。
これ、俺の手札にある「桜のかす」で取れる。
勝った方から手番が始まるルールだし、
ここで取れたら、流れは一気にこっちに傾く。
ただ、花札って一つの花につき4枚しかない。
ってことは、メシアがその1枚を持ってなければ――俺が取れる可能性は高い。
だから、最優先ってほどではない。
……けど。
正直言って、「桜に幕」は物凄く欲しい札だ。
あえてスルーする理由も、あんまりない。
無駄にリスク取るくらいなら、ここは確実に取りにいくべきだろ。
それに――
「紅葉に鹿」と「萩に猪」も手札にある。
この2枚が揃ってることも、かなりいい。
牡丹に蝶さえくれば、次こそ猪鹿蝶が組める。
さらに、「松に鶴」と「芒に月」も手札にあって、
こっちは光札。場に噛み合えば、三光が狙える。
……ただ、一枚だけ、すごく扱いに悩む札がある。
「柳に燕」
もしこの先、「柳に小野道風」を取れたら、
三光が“七文”になって、点数が一気に跳ね上がる。
倍付けになる境界線を超える、決定打になる札。
だから――
この「柳に燕」を、
どう動かすかが、たぶんこの勝負の鍵になる。
◇




