41.……あーあ。 格好良いですね、名取くん
笑いが漏れる。
「しかも、殴られてすぐ逃げようとしてさ。
“もうやめろ”とか言いながら階段に這いつくばって、マジで哀れだった」
「でも逃がさねーよな、あそこまで来たら」
「それでよ、それで。こいつ、“風待”とか“子規さん”とか、助け求めてんのよ。泣きそうな声で」
「“風待なら、すぐ来てくれる”とか言ってたけど――
来るわけねーよな!だっせえ」
腹を抱えて笑う者すらいる。
「ほら、あいつ顔だけはいいからさ。勘違いしてたんだろ?
"ボクは誰かに守られてる側”だって。違うっつの」
「逃げたやつは、負けだよ。
あいつ、もう終わり。あんなの信仰のかけらもねえ」
「メシアさまが無視したとき、最高だったわ。
あの瞬間、泣きながら正座してたからな。超ウケた」
声が、次々と上がる。
まるで“壊れる姿”が、ご褒美であるかのように。
誰かの崩れた表情が、“娯楽”であるかのように。
……紫藤。
あいつが、そんな目に遭ってたなんて――知らなかった。
だから、段ボールから出した時に、あんなに怯えていたのか。
そこから、すぐに気丈に振る舞っていたのが痛々しく思えるぐらいだ。
「――……っ」
胸の奥が、ぐしゃりと潰されるような音がする。
だけど、信者たちはまだ笑っていた。
誰かの痛みの上に、何のためらいもなく座っている。
「で、なんだっけ。最後に言っていた名前?」
「ごめん、名取くん?とか言ってた」
「名取? ……誰だっけそれ」
その瞬間、頭が真っ白になった。
紫藤が――
あんな地獄の中で、ボロボロになりながらも、
最後に口にしたのが、俺の名前だったなんて。
俺を、呼んでた?
助けを、求めてた?
――なのに、俺は、そこにいなかった。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れる音がしたような気がした。
申し訳なさが喉を詰まらせて、悔しさが視界を揺らす。
その痛みに耐えきれず、言葉が口を突いて出た。
「……やめてくれ」
俺は言った。
「紫藤 卯月の悪口はやめろよ」
信者たちの笑いが、ピタリと止まる。
「確かに、腹立つのは分かる。あいつ、変にプライド高いし、言い方もムカつくこと多いし……でもさ――」
息を吐いて、言葉を繋ぐ。
「お前らが言うなよ。
誰よりもあいつを追い詰めておいて、今さら笑ってんじゃねえよ……!」
その瞬間だった。
ギィ……ッ。
空気が軋むような音が、耳の奥で鳴った気がした。
全員の目が、俺だけに向けられる。
一斉に。まるで一つの意思を持った機械みたいに。
しまった、と本気で思った。
一人が、拳を握りしめる。
もう一人が、じり、と足を前に出す。
何かが起こる、そう確信した。
だが――その場にいた別の信者が、ぽつりとつぶやく。
「……こいつ、雨柳 鬼雷のお気に入りだろ」
「マジで手ぇ出したら……文字通り、殺される」
信者たちが一瞬だけ躊躇する。
そして、メシアの方を見た。
メシアは、笑っていた。
「全く困ったものですね。
私は、全員に“平等”でありたいと思っているのに」
そして、芝居がかった口調で言う。
「彼だけは、治外法権ですからね。……ね、名取くん?」
その言い方に、背筋が冷えた。
「さ、皆さん。
彼を“治療”するために、シマのサロンに戻っていてください」
信者たちは、すぐには動かない。
だが誰かが動くと、あとは機械のように整然と去っていった。
最後の足音が消え、部屋には俺とメシアだけが残る。
静かだった。
――なのに、心臓の音がやたらとうるさい。
俺は、一歩前に出た。
「……お前さ」
メシアが、振り返る。
その顔はまだ、完璧な微笑みを保っていた。
「どうして、“苦しみに耐えた分だけ幸せがある”なんて――
そんな嘘を吐くんだ?」
それを聞いた瞬間。
メシアの笑みが、ピクリと揺れた。
でもすぐに戻る。
「嘘ではありませんよ」
優しい声だった。優しすぎるほどに。
けれど、俺は踏み込む。
「いや――お前自身が、嘘だって思ってんだろ」
一拍の沈黙。
メシアの目が細められ、そして。
「……」
真顔になった。
その顔は、仮面が外れたように、冷たい。
そして――
「……ふふっ」
小さく、笑った。
楽しそうに。まるで何か“良いおもちゃ”を見つけたかのように。
「名取くん。
そういうの……言わない方がいいですよ?」
声は穏やかだった。
でも、その奥には確かに怒りがあった。
その怒りは、言葉の温度をゆっくりと変えていく。
「どういう振る舞いが求められているか。
それを理解して、ニーズに応える――それが、“教祖”です」
その言葉に、俺は息を飲んだ。
「人の不幸を、幸福だと“思わせる”。
“それでも生きてていいんだ”って信じさせる。
それができなきゃ、“教祖失格”なんですよ。
私は無能になりたくない。だから、ちゃんと作ってあげてるんです。
――彼らが、欲しがってる偶像をね」
その言葉のあと、メシアの目が――変わった。
赤い十字架のような光を宿した、あの目が、俺を射抜く。
「だからこそ」
声のトーンが一段下がった。
「“素で”それをやってしまう、あなたのような人間は――
消えていただきたいんです」
そこには、教祖も微笑みもなかった。
あるのはただ、“怒りを綺麗に整えた殺意”だった。
「偽物は、偽物なりに頑張って演じている。
本物の天然の英雄が、それを剥がしてしまうのは――無粋ってものです」
俺は、胸の奥が焼けるような感覚のまま、ゆっくりと手を動かした。
ポケットの奥にしまっていた一枚の札を――引き抜く。
「……ふざけんなよ」
喉の奥から、絞り出すように言葉が出た。
「お前が、誰かを助けてる?
なら、俺を見ろよ。
紫藤があんな目に遭って、それを見て俺がどれだけ悔しかったか」
拳が震える。
「雨柳だって、お前に“処理しろ”って言われて――
ずっと苦しんでんだよ」
札を掲げる。
「俺が、今――お前を苦しんでるって思ってる。
それだけで、お前は“俺の仇”だ」
そして、はっきりと言った。
「仇討ちだ、メシア」
言い切った瞬間、自分の声がやけに大きく響いた気がした。
けれど――後悔は、ない。
仇討ちだ――と、俺が告げたとき。
メシアは、ほんの少しだけ眉を上げた。
驚いたわけじゃない。ただ、計算外の“ノイズ”に遭遇したときのような、
静かに肩をすくめる仕草。
まるで、“そう来たか”とでも言いたげだった。
そして――笑った。
あくまで優等生然とした、整った所作で。
完璧に作られた薄い笑顔。
けれど、その口元には、どうしようもなく人を見下したような線が浮かんでいた。
「……あーあ。
格好良いですね、名取くん」
その言葉に、背筋がぞわりとした。
まるで“正しさ”を嘲笑うような声だった。
「――では、始めましょう」
淡々と。
涼しげに。
何もかも“見通している側”の表情で。
その声は穏やかだった。
けれど、確実に空気が変わった。
目の前の“誰か”が、“何か”へと変わっていく。
そんな感覚が、肌をひりつかせる。




