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38.期待を壊す事が出来るほど、強くなんてなかったんだ


毛布の上で、紫藤はようやく呼吸を整えていた。

手の震えはまだ少し残っていたけれど、それでも、さっきよりずっと落ち着いて見える。


名取は何も言わず、アルコール綿で腕の傷を消毒していく。

ひび割れた指先が、やけに細く見えた。

――力が入らないのも、無理はない。


「……痛かったら言えよ」


「……はい。でも、なんだか平気です。変ですね。

名取くんがやってくれてるだけで、少し……楽になります」


名取は返事をしなかった。

その代わりに、包帯を巻く手つきを、いつもより丁寧にした。


後ろから、雨柳がタオルを持ってきて、紫藤の前にぽいと置く。


「顔、拭け。泥と涙、放っとくと目が沁みるぞ」


「……鬼くん、そういうとこ、やっぱ優しいんですね」


「うるせえ」


空気に、変な間ができた。

話さなきゃいけないことは、いくつもあるのに――誰も口を開かなかった。


やがて、紫藤がぽつりとつぶやいた。


「……もう、十分すぎるくらい怖い目に遭ったのに」


名取も雨柳も、ただ黙って聞いていた。


「それでも、今みたいに誰かに手当てしてもらったり、普通に話せたりすると……また、そういうのが欲しくなってしまいそうで。……それが、怖いんです」


名取が顔を上げる。

紫藤の目は伏せたままだった。


「……そう思うの、悪いことじゃねぇよ」


「……でも、期待しちゃったら、また……」


「手を伸ばさねぇと握っていいか分かんねぇんだよ。

お前の手は綺麗だろ? なら、胸張って手を伸ばせよ」


そのときだった。

雨柳がふと、視線を外した。


そして、ぽつりとつぶやく。


「……名取」


「ん?」


「オレ、仇討ちする」


名取が、一瞬だけ眉を寄せた。


「……誰と」


雨柳は、まっすぐに言った。


「名取と。仇討ちする」


まるで今日の夕飯の相談でもするみたいに。

ごく自然な口調だった。


「……おい、待て。それ、どういう……」


名取がようやく言葉を返す。


「冗談だろ?」


「冗談だったら、どれだけ楽だったか……って話」


雨柳は、目をそらさなかった。

その声は、静かで、少しだけ苦そうだった。



「……ちょっと待て」


俺は座ったまま、目だけを雨柳に向けた。


「それって……俺と、ってことか?」


「ああ。名取と仇討ちする」


雨柳の声は、ひどくあっさりしていた。

けれど、その目はどこか遠くを見ていた。


「メシアから、名取をちゃんと処理しろって言われた」


紫藤が息をのむのが、すぐ近くで聞こえた。

俺の眉も、知らないうちにわずかに動いていた。


「でも、"どうやって殺せ”とは言われてない。

だったら、仇討ちって形でも通るだろ?」


「……お前、それ本気で――」


「花札なんて知らねぇし、名取とやったって勝てるわけがねぇ。

でもメシアは、"名取を殺す気で動いてる”ってだけで、満足すんだよ。

だったら、形だけ整えて、俺が負ければいい」


あまりにもあっけらかんとした声だった。

でも、嘘じゃないと分かった。


「……雨柳」


「名取、お前さ。

メシアに勝てるって思ってんのか?」


「……思ってるよ。

勝たなきゃ、ならねぇだろうが」


その言葉に、雨柳が明確に動揺したのがわかった。

低い声で、ぽつりと吐き出すように言う。


「……やめてくれよ、名取。それが、怖ぇんだよ」


「何がだよ」


「“倒す”って言ってる時点で、もうダメなんだよ。

あいつはそういう次元じゃない。視えてるって感じなんだ」


「視えてる?」


「分かんねぇけど、負けた奴はそうやって言ってる。

なら、折れてるフリして、空気読んで従って、流してやり過ごす――

それが、一番の生き残り方だろ?」


その声には怒りはなかった。ただ、怯えと焦りだけがあった。

俺を守ろうとしてるんだと、わかってはいた。


……でも、それでも。


そこへ、静かに割り込んだ声があった。


「そんな雑なやり方で、名取くんを守ったつもりなんですか?」


紫藤だった。

怒っているようには見えなかったけど、その瞳の奥には、明らかに棘があった。


「じゃあ、ボクがやります。

代わりに――鬼くんと仇討ちする」


「は?」


雨柳が目を細める。


「ボクにとって、"都合がよくて、弱くて、勝てそう”な相手って、鬼くんしかいないんですよね。

名取くんの邪魔にならないように、すぐ終わらせますから」


わざと軽く言ってるのがわかった。

でも、その言葉の裏には、間違いなく怒りがあった。


「……名取くん」


名指しされて、俺は視線を向ける。


「大事なお友達に負けてもらって、嬉しいわけないですよね?

名取くんは、勝つことすら怖がってたのに」


紫藤の一言が、思いがけず深く刺さった。

心の奥、触られたくない場所を不意に突かれたような、そんな痛みだった。


「”名取に負けてもいい”って、言いましたよね、鬼くん。

ボクは……それ、絶対に言いません」


その瞬間、雨柳がぐっと一歩、前へ出た。


「名取には――負けてもいいと思ったんだよ」


その声には怒気じゃなく、息を押し殺すような、どうしようもない想いが詰まっていた。


「オレには何もねぇ。

でも、名取のために役に立てるなら、それだけで――十分なんだよ。

だから、オレが負けるくらい、全然大したことじゃねぇ」


まっすぐな声だった。

重くもないのに、どうしようもなく胸を圧迫してくる。


言葉の端が、明らかに鋭くなった。


「卯月は良い奴だと思ってるけどな。

名取と臣ちゃん以外は、オレにとっちゃどうでもいいんだよ」


雨柳は紫藤をにらんだまま、でもその言葉の半分は――俺に向けられていた。


「オレは、名取にとって生き延びられる選択をさせる。

その為に、メシアと戦わずに温和にいて欲しい。そんだけだ」


紫藤は、ほんの少し目を伏せて、すぐに小さく笑った。


「……でも、ボクはやっぱり、名取くんに勝ってほしいんです。

……あのメシアくんに勝ってくれたら、ボク、自分の分まで報われる気がして」


紫藤は笑ったまま、ほんの少し肩をすくめた。


「――村人Aが、勇者に魔王退治を頼む、みたいな。

情けないのは分かってますけど……それでも、どうしても」


ふたりの声が交差する。

どっちも、俺のために言ってくれてる――なのに、決めようとしてるのは俺じゃない。


争わせてるのは、きっと俺の曖昧さだ。

だからこそ、言わなきゃいけなかった。



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