38.期待を壊す事が出来るほど、強くなんてなかったんだ
◇
毛布の上で、紫藤はようやく呼吸を整えていた。
手の震えはまだ少し残っていたけれど、それでも、さっきよりずっと落ち着いて見える。
名取は何も言わず、アルコール綿で腕の傷を消毒していく。
ひび割れた指先が、やけに細く見えた。
――力が入らないのも、無理はない。
「……痛かったら言えよ」
「……はい。でも、なんだか平気です。変ですね。
名取くんがやってくれてるだけで、少し……楽になります」
名取は返事をしなかった。
その代わりに、包帯を巻く手つきを、いつもより丁寧にした。
後ろから、雨柳がタオルを持ってきて、紫藤の前にぽいと置く。
「顔、拭け。泥と涙、放っとくと目が沁みるぞ」
「……鬼くん、そういうとこ、やっぱ優しいんですね」
「うるせえ」
空気に、変な間ができた。
話さなきゃいけないことは、いくつもあるのに――誰も口を開かなかった。
やがて、紫藤がぽつりとつぶやいた。
「……もう、十分すぎるくらい怖い目に遭ったのに」
名取も雨柳も、ただ黙って聞いていた。
「それでも、今みたいに誰かに手当てしてもらったり、普通に話せたりすると……また、そういうのが欲しくなってしまいそうで。……それが、怖いんです」
名取が顔を上げる。
紫藤の目は伏せたままだった。
「……そう思うの、悪いことじゃねぇよ」
「……でも、期待しちゃったら、また……」
「手を伸ばさねぇと握っていいか分かんねぇんだよ。
お前の手は綺麗だろ? なら、胸張って手を伸ばせよ」
そのときだった。
雨柳がふと、視線を外した。
そして、ぽつりとつぶやく。
「……名取」
「ん?」
「オレ、仇討ちする」
名取が、一瞬だけ眉を寄せた。
「……誰と」
雨柳は、まっすぐに言った。
「名取と。仇討ちする」
まるで今日の夕飯の相談でもするみたいに。
ごく自然な口調だった。
「……おい、待て。それ、どういう……」
名取がようやく言葉を返す。
「冗談だろ?」
「冗談だったら、どれだけ楽だったか……って話」
雨柳は、目をそらさなかった。
その声は、静かで、少しだけ苦そうだった。
◇
「……ちょっと待て」
俺は座ったまま、目だけを雨柳に向けた。
「それって……俺と、ってことか?」
「ああ。名取と仇討ちする」
雨柳の声は、ひどくあっさりしていた。
けれど、その目はどこか遠くを見ていた。
「メシアから、名取をちゃんと処理しろって言われた」
紫藤が息をのむのが、すぐ近くで聞こえた。
俺の眉も、知らないうちにわずかに動いていた。
「でも、"どうやって殺せ”とは言われてない。
だったら、仇討ちって形でも通るだろ?」
「……お前、それ本気で――」
「花札なんて知らねぇし、名取とやったって勝てるわけがねぇ。
でもメシアは、"名取を殺す気で動いてる”ってだけで、満足すんだよ。
だったら、形だけ整えて、俺が負ければいい」
あまりにもあっけらかんとした声だった。
でも、嘘じゃないと分かった。
「……雨柳」
「名取、お前さ。
メシアに勝てるって思ってんのか?」
「……思ってるよ。
勝たなきゃ、ならねぇだろうが」
その言葉に、雨柳が明確に動揺したのがわかった。
低い声で、ぽつりと吐き出すように言う。
「……やめてくれよ、名取。それが、怖ぇんだよ」
「何がだよ」
「“倒す”って言ってる時点で、もうダメなんだよ。
あいつはそういう次元じゃない。視えてるって感じなんだ」
「視えてる?」
「分かんねぇけど、負けた奴はそうやって言ってる。
なら、折れてるフリして、空気読んで従って、流してやり過ごす――
それが、一番の生き残り方だろ?」
その声には怒りはなかった。ただ、怯えと焦りだけがあった。
俺を守ろうとしてるんだと、わかってはいた。
……でも、それでも。
そこへ、静かに割り込んだ声があった。
「そんな雑なやり方で、名取くんを守ったつもりなんですか?」
紫藤だった。
怒っているようには見えなかったけど、その瞳の奥には、明らかに棘があった。
「じゃあ、ボクがやります。
代わりに――鬼くんと仇討ちする」
「は?」
雨柳が目を細める。
「ボクにとって、"都合がよくて、弱くて、勝てそう”な相手って、鬼くんしかいないんですよね。
名取くんの邪魔にならないように、すぐ終わらせますから」
わざと軽く言ってるのがわかった。
でも、その言葉の裏には、間違いなく怒りがあった。
「……名取くん」
名指しされて、俺は視線を向ける。
「大事なお友達に負けてもらって、嬉しいわけないですよね?
名取くんは、勝つことすら怖がってたのに」
紫藤の一言が、思いがけず深く刺さった。
心の奥、触られたくない場所を不意に突かれたような、そんな痛みだった。
「”名取に負けてもいい”って、言いましたよね、鬼くん。
ボクは……それ、絶対に言いません」
その瞬間、雨柳がぐっと一歩、前へ出た。
「名取には――負けてもいいと思ったんだよ」
その声には怒気じゃなく、息を押し殺すような、どうしようもない想いが詰まっていた。
「オレには何もねぇ。
でも、名取のために役に立てるなら、それだけで――十分なんだよ。
だから、オレが負けるくらい、全然大したことじゃねぇ」
まっすぐな声だった。
重くもないのに、どうしようもなく胸を圧迫してくる。
言葉の端が、明らかに鋭くなった。
「卯月は良い奴だと思ってるけどな。
名取と臣ちゃん以外は、オレにとっちゃどうでもいいんだよ」
雨柳は紫藤をにらんだまま、でもその言葉の半分は――俺に向けられていた。
「オレは、名取にとって生き延びられる選択をさせる。
その為に、メシアと戦わずに温和にいて欲しい。そんだけだ」
紫藤は、ほんの少し目を伏せて、すぐに小さく笑った。
「……でも、ボクはやっぱり、名取くんに勝ってほしいんです。
……あのメシアくんに勝ってくれたら、ボク、自分の分まで報われる気がして」
紫藤は笑ったまま、ほんの少し肩をすくめた。
「――村人Aが、勇者に魔王退治を頼む、みたいな。
情けないのは分かってますけど……それでも、どうしても」
ふたりの声が交差する。
どっちも、俺のために言ってくれてる――なのに、決めようとしてるのは俺じゃない。
争わせてるのは、きっと俺の曖昧さだ。
だからこそ、言わなきゃいけなかった。




