37.救済とは天秤にかけることらしい
心臓が、跳ねた。
玄関の鍵が――静かに、けれど確実に、回った音だった。
「っ……!」
次の瞬間、雨柳が俺の肩を掴んできた。
その手は、妙に冷たくて、震えていた。
「……悪い、ちょっと待ってろ」
耳元で、低く早口に囁く。
その声は、さっきまでとまるで違っていた。感情を抑えつけるような、ひりついた音だった。
何が起きているのか分からないうちに、
俺は部屋の隅――段ボールの山の中、ひときわ大きな空箱に押し込まれた。
「お、おい……!?」
声を出す間もなく、雨柳の手が蓋をギュッと閉じる。
視界が、茶色い段ボールの裏地に奪われた。
中は蒸し暑く、息苦しい。
わずかな隙間から漏れる廊下の明かりが、箱の内側をうっすら照らしていた。
(なに、が……なんで……!?)
混乱する頭の中に、あの声が――
「やあ、鬼雷くん」
――落ちてきた。
「君に“殺すように命令”した名取くんが、脱走したそうですね?」
凍りついた。
空気が、肌にまとわりつくほど重く湿り、背骨を一本ずつなぞるような悪寒が走る。
――燕 メシア。
心臓が、逃げ場を失ったように暴れ出す。
息を潜めても、耳の中で鼓動が暴力的に鳴り響いた。
「……知らねえよ」
雨柳の声が聞こえた。
低い、いつもの調子――に見せかけて、どこか、詰まっている。
喉の奥で引っかかった言葉。それがバレそうで、怖かった。
(ダメだ、絶対バレる……!)
段ボールの壁一枚が、やけに薄く思えた。
この中で動いたら、呼吸を荒くしたら、すぐに気づかれる――
そんな気がして、微動だにできない。
けれど、メシアはあっさりと笑ったように言う。
「ええ、そうですよね。それでは――」
足音が、遠ざかる。
(……え?)
なんで?
絶対、気づいてたはずなのに――
安堵の影がかすめた、その刹那。
――ガチャ。
再び開く、扉の音。
「これ、君に“贈り物”です。
もし会ったら、名取くんにも“見せて”あげてください」
“それ”が何なのかは、見えない。
でも、置かれた瞬間に伝わってきた――
“重いもの”が床を沈ませる、鈍く湿った音。
(……贈り物?)
いやな予感が、喉元までこみ上げる。
なにか、体温のないものが、そこに横たわっている気がした。
「それでは、良い学苑生活を」
メシアの声が柔らかく響く。
でもその優しさは、歯車が欠けた人形のような、不気味な整然さを含んでいた。
――ギィ……
また、扉が開く。
「びっくりしました? 今度こそ……失礼します」
今度の声は、さっきよりも甘くて、親しげだった。
けれど、それがかえって、ぞっとするほど“狂って”聞こえた。
パタン、と静かに閉じられた扉。
……たぶん、本当に出ていったんだと思う。
音も気配も、何も残っていない。
けど――
俺の中ではまだ、あの扉の向こうに、メシアが立ち尽くしている気がしてならなかった。
さっきの声が、耳の奥にこびりついて、離れない。
暗くて狭い段ボールの中、何も見えないこの世界で、
俺はただ、息を殺して震えていた。
「……名取、出ていいぞ」
沈黙を割るように、雨柳の声が落ちてくる。
続いて――カサ、と軽く音を立てて段ボールの蓋が開いた。
まぶしい。
光が戻ってきた。
息を潜めていた暗闇の中から、ようやく解放されたはずだった。
……でも。
その光の先にあったのは、雨柳の強張った表情と――
部屋の中央に、ぽつんと置かれた“もうひとつの段ボール”。
いやに静かで、不自然な存在感。
直感でわかった。“それ”は、見てはいけない。
「……なんだよ、これ」
俺が言うより早く、
雨柳の手が伸び、重たそうにその蓋を開けた。
途端――空気が、変わった。
嫌なにおいが鼻をつく。
生暖かく、鉄と汗と、乾いた泥の混じった、どこかで嗅いだことのあるにおい。
中にいたのは――人だった。
制服は泥と血とでぐちゃぐちゃに汚れ、
その体は、腕で顔を必死に隠していた。
でも、その腕ですら――爪が割れ、あちこちに引っかき傷や打撲の痕。
そのすべてが“沈黙させられていた時間”を物語っていた。
小さなすすり泣きが、箱の奥から漏れる。
でも、声にならない。
泣いていることすら隠そうとして、ただ呼吸を殺して、
震えていた。
“見つかったら終わる”と、体が覚えているみたいに。
存在そのものを、消そうとするように。
「……っ」
言葉が出なかった。
見てはいけない。見てしまった。
目を逸らせば、それで済んだかもしれないのに、
光の中に引きずり出された“現実”が、容赦なく焼きつく。
それは、プレゼントなんかじゃなかった。
“警告”だった。
――「次はお前だよ」、と。
メシアの声が、耳の奥でまた笑う気がした。
ぞわりと背中をなぞるように、あの狂気が蘇ってくる。
そして俺は、まだ、息を吐けなかった。
――見てはいけない。
見ても、理解しちゃいけない。
そのまま、何もなかったフリをしていればよかった。
……でも。
「……大丈夫か……?」
勝手に、口が動いた。
声が、震えていた。自分でも分かるくらい、かすれて、頼りない。
それでも、“それ”はかすかに反応した。
「……ごめんなさい……」
その声を聞いた瞬間、体の芯が凍りついた。
「……紫藤……?」
顔はまだ、腕で隠れている。
でも、間違えるはずがない。
この声は――紫藤 卯月だ。
「嘘、だろ……」
全身、ボロボロだった。
泥と血でぐちゃぐちゃになった制服、傷だらけの腕。
震えながら、小さく、息をするのがやっとの姿。
彼は、おそるおそる顔を上げた。
「名取くん……? 鬼、くん……? な、なんで……ここに……?」
視線が合った。
その瞬間、紫藤の肩がビクン、と跳ねた。
――気づいたんだ。
自分のこの姿を、俺たちに見られたって。
「……っ、見ないでくださ……見ないで……っ、ほんと……情けないったら、ないですよね……!」
紫藤は体を折りたたむように、必死に自分を抱えた。
顔を隠し、膝を引き寄せて、まるで――殴られる前に、先に自分を壊してしまおうとしてるみたいだった。
「……卯月、悪い。
多分、オレのせいで……巻き込まれたんだよな?」
雨柳が、搾り出すように言った。
「鬼くん……? 違います……ボクが……勝手に……」
紫藤の声は、上手くつながらなかった。
けれど、その断片だけで、どれだけのことがあったのか、察するには十分だった。
「……戦いたかった……。
こんなのが、正しいなんて……ボクは……認めたくなかったんです……」
俺はただ、息を呑んで立ち尽くしていた。
崩れていく紫藤から、目を逸らせなかった。
「……紫藤、大丈夫だ。もう大丈夫だから……」
言葉になっていない励ましだった。
その瞬間――
「うっ……はっ、……うぐ………っ!」
堰を切ったように、涙が溢れた。
嗚咽が、止まらない。
俺は、震える彼の手を握り返しながら、そっと毛布をかけた。
体がほんの少し、温かくなっていく。
しばらくして――
雨柳が、静かに言葉を落とした。
「……オレさ、卯月のこと。
そこそこ大事な友達だと思ってんだよ」
「……」
「だからこそ、言うけどさ――なんで、強くなろうと思わねぇの?」
紫藤が、ゆっくり顔を上げた。
「え……?」
「今は泣いてもいいよ。
でもな、その泣き方……たぶん、泣けば誰かが守ってくれるって環境にいたやつの泣き方だろ」
「鬼くん……?」
「そういうの、羨ましくてさ。……だから、腹立つんだよ。
悪いけど、早めに泣き止んでくれ」
「そんな言い方は――」
「……いいんです、名取くん」
紫藤が、ぐっと深く息を吐いた。
しゃくり上げながらも、ゆっくりと、呼吸を整えていく。
「……う、……んんっ……はー……はー……。落ち着きました……」
「思ったより、お前強いな。
助かるわ」
雨柳が、ぐしゃぐしゃのままの紫藤の頭をぽんと軽く叩いた。
「……おし、まずは応急処置だな。
名取、治療とか詳しい?」
「一般的な範囲なら……包帯あるか?」
「あー……多分、うまい棒の隣にある」
「うまい棒と並べんな」
そう言いながら、俺はキッチンの引き出しを開ける。
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