34.後悔仕掛けの強制脱出
◇
それから、数日が経った。
あの少年は、助けるみたいなことを言っていたけど。
……とりあえず、何も起こらなかった。
蝶谷も、なぜか姿を見せない。
静かすぎるくらい静かで、俺一人だけがこの塔に置き去りにされてる感じがして。
誰も来ない。何も変わらない。
さすがに、ちょっと……挫けそうだ。
逃げられないこの部屋が、今の俺の“全部”だった。
せまくて、冷たくて、時間だけが擦れていく。
――カチャ。
小さな金属音に、反射的に顔を上げた。
……また、あの少年か?
けど、足音がいつもより重い。妙に、引きずってるみたいな――
ギィィ……と、鉄の扉が重たく軋んで開いた。
「……この鍵、マジで開くんだな……」
扉の隙間から入ってきたのは――雨柳だった。
目が合った瞬間、息が詰まった。
気まずい。……なんとなく、視線を逸らしてしまう。
でも、それ以上に気になったのは――
彼の顔。頬の傷。手の甲のすり傷。ひっかいたような痕、殴られたみたいな腫れ。
痛みを与える場所を、ちゃんと選ばれてる。
目立たないところばかり、わざと狙ってやられてる。そういう“やり方”だ。
「……どうした、その傷」
思わず、声が出た。
怒りでも同情でもなくて――ただ、聞かずにはいられなかった。
「ん? あー……」
雨柳が頭を掻きながら、へらっと笑う。
「メシアの取り巻きに、“教育的指導”受けたって感じ?」
軽く言ってるけど――近くで見たら、全然“軽く”なんかない。
ボロボロだった。顔の横、手の甲、肩口。
殴られたんじゃなくて、“調整された暴力”の痕。わざと、だ。
「……この学苑って、花札で勝負つけるんじゃなかったのかよ」
俺が呆れ気味に言うと、雨柳は肩をすくめた。
「上はそうだな!
でも下は……“花札覚える前に拳覚えろ”ってノリのやつ、結構多いんだわ」
笑ってるけど、その目はちょっと――濁ってた。
言い慣れてるんだろうな、こういうの。
「……暴れたら、勝てたんだろ。なんで黙ってた」
「暴れたら、ナトリに迷惑かかるからな」
ぽつりと、静かに返ってくる。
そして、少しだけ言い直す。
「……って、ああ、なんか今の、ナトリのせいみたいな言い方だったな」
そうじゃないのは分かってる。でも――
“俺のせいで”って言われるより、正直キツかった。
「……ごめん」
「謝んなって。オレが勝手にやったことだろ?
……けど、まあ。この状態、ずっとはダメだなって思ってさ」
そう言って、雨柳はポケットを探って、何かを取り出す。
「ほら、これ」
小さな金属の束――塔の鍵だった。
「……なんで雨柳がそんなもん持ってんだよ」
「通りすがりのタヌキに渡された。“名取くんのこと、よろしくね”って言ってな」
「タヌキ……?」
「うん。なんか最後に頭ぽんぽんされて、“じゃ、任せた”って」
「誰だよそれ……聞き覚えあるような、ないような……」
「え? タヌキはタヌキだろ?
撫でてきたし、たぶん悪いヤツじゃない!」
「……お前、それで信用すんの? チョロすぎるって……」
「でもな?」
雨柳が少し声をひそめて言う。
「今ここにオレが来れてるのも、タヌキが“逆らったら仇討ち相手にするよ”って一言言っただけで、全員黙ったからだぞ」
「……」
「マジで、全員。サァーッて散った。あいつ、ヤバいくらい強ぇ……」
俺はしばらく黙って、それからもう一度言った。
「……だから、誰だよタヌキって」
◇
雨柳は、笑いもせずに言った。
ちょっとだけ黙って、それから――ぽつんと、続ける。
「一応な。
ナトリに嘘吹き込むやつとか、怖がらせるやつとかいたらウザいから……先に言っとくわ。
時間ある?」
「……蝶谷が帰ってくるまでは、大丈夫」
「んじゃ、よかった」
雨柳は、ポケットに手を突っ込んだまま、ぼそっと言った。
「ナトリの遺体を見せられてさ、"処分しとけ"って言われたんだよな」
「……処分? いやいや、ちょっと待って。何の話だ?」
俺が眉をひそめると、鬼雷は続ける。
「だからまあ、名取を殺し損ねたってのはホント。
死んだ名取を、蝶谷に頼んで復活させてもらったんだ」
「……復活? え、復活って……ほんとに“生き返った”ってことか?」
うまく飲み込めなくて、思わず確認する。
「そうそう。だってさ、死んだナトリ、何週間かサダクローと一緒に暮らしてたんだよ」
「は? いやいやいや、ますます意味がわからないんだけど……」
混乱しきってる俺を気にも留めず、鬼雷はふっと目を細めた。
「いや、オレにとってはさ、"どこにも行かない友達"ってだけで、もう満点だったんだよ。
死体って、わりと都合良かった」
「お前……サラッと言ってるけど、なかなかヤバいこと言ってるぞ……」
「ははっ、だろー? でもさ、ナトリの空気、落ち着くんだよ。不思議と」
ふざけた調子のままなのに、ちょっとだけ寂しそうで。
「……それで腐らなかった?」
「そうそう! まっっったく腐らねぇの。これ、なんかあるなって思って。
でさ、蝶谷っているだろ? 変人で、科学者で、ちょっと芸術家でさ」
「……ああ、あいつなら確かに、“動くかもしれない死体”とか、面白がりそうだな」
「そうなんだよ! だから持ってった。
そしたら蝶谷、めっちゃノってきてさ。」
「あー、だから、あのとき、二人いたのか」
俺がぽつりと呟くと、鬼雷は小さく笑った。
「でもさ、復活させたいと言ったはずなのに、名取を蝶谷に持ってかれた。
だから、“おかえり”って言ったのも、あれ、そういう意味だったんだよ」
「……そっか」
「でもさ、ナトリがさ、普通に“ただいま”って返してくれたじゃん?
あれだけで、なんかもう、報われたっていうかさ」
「……それ、重くないか?」
「うっせぇ! オレには初めての友達だったんだよ! 許せよ!」
そう叫んだ鬼雷の顔は、どこか必死で――なんか、俺はそれ以上何も言えなかった。
「……それでさ、ナトリ。今の生活って、楽しいか?」
不意に聞かれて、返答に詰まる。
「……楽しいかは、わからないけど。
処世術は、教わってる。生き残るためのやつを」
「そっか。……無理すんなよ、マジで」
その声が、やけに優しくて――
俺は、ちょっとだけ目を伏せた。
「よし、外出るか!」
「……外出るって、どういう意味だよ」
「抜け出すに決まってるだろ? 鍵、持ってるからな」
「お前、それやったら本当に終わるぞ。バレたら……」
「オレが終わっても、お前は終わらないだろ?」
「――ふざけんなよ」
思わず、声を荒げた。
「俺は……俺は、お前も、卯月も、守りたいんだ」
雨柳が足を止める。そして、あきれたように笑った。
「は? 名取、お前さ……この学苑の“名簿”にすら載ってねえんだろ? どうやって守るんだよ」
「っ……」
「人権もねぇ、存在すら認められてねぇ奴が、何言ってんだよ」
その言い方が――どうしようもなく、腹が立った。
「じゃあ、お前は守れんのかよ!」
俺は叫んだ。
「お前だって……花札、できねぇだろ」
「……!」
「花札知らねぇ奴が、人なんか守れるかよ。 ここはそういう場所だ」
わかってる。
子どもみたいな言い方だった。
でも、悔しかった。言わなきゃ、どうしようもなかった。
「それでも……オレは!」
怒鳴り返そうとした雨柳に、俺は一歩詰め寄る。
「花札どころか、存在すら認められてねぇ! メシアのペットみてぇに扱われて!」
「うるせぇな……!
分かってんだよ、そんなの!」
「だったら――」
「分かってんだよ!!!」
声が裏返った。
「臣ちゃんにすら花札やめろって止められてるよ、オレは。
役立たずの無能だよ……!」
言った瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「……」
沈黙が落ちる。
怒鳴り合ったあとに残るのは、後悔と、呼吸の音だけだった。
しばらくして、雨柳がぽつりとこぼした。
「……じゃあ、せめて一回くらい、外の空気吸わせろよ」
「……は?」
「首輪の鍵、開けるから」
そう言って、鍵を取り出すと俺の首元に手を伸ばしてきた。
「ちょ、待て……! 本気か!?」
「うるせぇ、黙ってろ」
カチリ。
首輪が外れた。ずっと首に馴染んでいた重さが、ふっと消えた。
「おい、ちょっと……おい! ここ、美術塔の最上階だぞ!? 馬鹿かよ!」
「知ってる。馬鹿は高いところ好きなんだよ。
めっちゃ高ぇな。良い眺めだろ?」
「いや死ぬだろ!? やめろよ!」
「オレ、丈夫だから。骨折るくらいで済むって」
言いながら、雨柳は俺の身体をぐっと抱え上げる。
「やめろってば! ふざけんなよ! おい、マジで……!」
暴れようとしたその瞬間、雨柳が叫んだ。
「……また、オレの手、取ってくれねぇのかよ!!」
動きが、止まった。
その言葉が――胸の奥に、深く突き刺さった。
あのとき。
差し出された手を、俺は……見なかったふりをした。
自分を守るために。
後悔してる。今でも、ずっと。
忘れられないでいる。
「……っ」
苦しくて、力が抜けた。
もう、暴れることもできなかった。
俺が静かになったのを感じて、雨柳は、小さく――ふっと笑った。
安堵。
それと一緒ににじんだ、罪悪感と、どうしようもない寂しさの混ざった、
……痛いほど優しい笑みだった。
「……オレだってさ、名取と卯月、守りてぇって思ってんだよ」
「……」
「でもさ、自分がどんだけ弱ぇか……ちゃんと分かってんだ。
ほんと、悔しいくらいにな」
そっと、俺を抱き直す。
その腕が、少しだけ震えていた。
「でも、オレには力だけはある。
暴力っていう、最低で、嫌われて……それしかないけどさ」
「……」
「それでも――」
言葉に詰まりそうになりながら、それでも、まっすぐに言ってくる。
「お前ら二人だけが、オレのそばにいてくれるんだ。
だから……オレの世界を、守らせろよ」
そのまま俺を抱えて、
雨柳は――
迷いも、ためらいもなく、
美術塔の高みから、風に向かって跳んだ。
◇
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