33.座れば牡丹、全て姿で"君の味方"。
◇
閉じられた部屋の中で、時間だけがぬるりと流れていく。
起きても、寝ても、同じ天井。
鎖の長さじゃドアにも届かない。窓なんて最初からない。
花札も、もう、ない。
蝶谷は、それ以来、来てない。
そこへ、ギィ、と扉が軋む音。
「こんにちは」
編み笠をかぶった、小柄な影が入ってくる。
手にはトレー。見慣れた動きで、俺の前にしゃがんだ。
「今日は、さばの味噌煮。あと、みかんゼリーつけといた」
「……地味にうれしいやつ」
ベッドから体を起こすと、少年はトレーを差し出してくれた。
鎖のギリギリまで腕を伸ばして受け取る。
「今日も、変わらず?」
「うん。何も起きてない。……平和だよ」
「そっか」
少年はぺたんと座る。その距離感に、少しだけ気が抜ける。
「名取くん、話したいことがあれば、なんでも聞くよ」
「……いきなり何?」
「なんか、顔が“言いたい”って言ってた」
「顔に出るタイプじゃないんだけどな、俺」
「ううん、出てる。めっちゃ出てる。『俺、後悔してます』って」
「はは、名推理」
ほんの少し、言葉が浮かぶ。でも、すぐ喉の奥に引っかかる。
「……なんか、うまく言えないけど」
「まとまってなくていいよ。思ったことから話してみて」
その言葉に、背中を押される。
「雨柳と山田って、変な奴だよな」
「うん?」
「なんかさ。見た目は違うのに、どっちも……弱そうに見えるのに、ちゃんと強いっていうか」
「分かる。卯月くんとか、倒した方が楽そうなタイプだし」
「それ俺の前で言うのやめてくれないか?」
「ごめんごめん。
でも、名取くんが一緒にいるってことは、放っとけなかったんでしょ?」
「……顔、見られて言われたんだ。“放っとけない”って」
「それ、名取くんが言う側だと思ってたけど、逆だったんだ」
「俺、そんな顔してたのかなって。ちょっと救われた」
少年は何も言わない。ただ、ちゃんと頷いてくれた。
「蝶谷は……教えてくれたよ、ルールとか。
勝てば願いが叶って、負ければ精神が壊れるって。
だけどさ、あの人、俺のこと――」
言いかけて、口をつぐむ。
「……あの人、最初から全部わかってて動いてる感じする。
俺はただ、動かされてただけ」
「蝶谷だからね」
「そう。で、俺、雨柳の手も取れなかった。
……怖かったんだと思う」
「うん」
「そんで、こうなった。誰も助けられなかった」
鎖が揺れる音だけが、小さく響く。
「……自分に、すごく厳しいよね」
少年が、ぽつりと漏らした。
「え?」
「“助けられなかった”って、それって自分にしか向いてない言葉だよ」
「でも、事実だし」
「でもね、そばにいたこと、それって助けになってるんだよ。ちゃんと」
「そんな、簡単に――」
「簡単じゃないから、価値があるんだよ。名取くんのやってきたこと、誰かの心に残ってる。それは、間違いないよ」
しばらく、視線がぶつかる。
「だから……ちょっとずつ、“自分を許す練習”、してみたら?」
「……許す、ね」
「うん。君が思ってるより、君はもう、十分戦ってるよ」
その言葉が、静かに、胸に落ちた。
◇
「今日のお昼だよ。お味噌汁と、焼き魚と、ごはん。あと、プリン」
「……いつもありがとう」
俺は体を起こして、鎖の限界まで身体を引っ張る。
少年は手の届くギリギリのところまでトレーを差し出してくれる。
「お箸もちゃんと入ってるよ」
「ありがとな」
この部屋で唯一、普通に接してくれる相手だった。
「なあ、お前さ。名前、なんて言うんだ?」
「ふふ……それは、まだ内緒」
「まだ?」
「うん。名乗っちゃいけない立場なんだって。蝶谷が言ってた」
……あいつ、どこまで俺を囲い込む気なんだよ。
「君は偉いね。ちゃんと怒らずに食べてる」
「怒ってるよ。ていうか、毎日怒ってる」
「……でも、叫ばないんだね?」
「叫んでも意味ないだろ。蝶谷が許さなきゃ、誰も来ないんだから」
「うん……それは、そう」
少年の声が、少し沈んだ。
俺は、そっと尋ねた。
「……なあ、ここから出る方法、知らないか?」
「……」
少年は少し口ごもったあと、ぽつりとつぶやいた。
「……本当はぼくも、このままじゃいけないって思ってる」
「……え?」
「蝶谷が、ごめんね。
たぶん――君になら、なんでも許してくれるって、甘えてるんだと思う。
優しさじゃなくて、そういう種類の“甘え”」
編み笠の奥からのぞいた少年の目は、驚くほど静かで真剣だった。
信じきれるわけじゃない。
でも、そう言われるだけで、ほんの少し――呼吸ができる気がした。
「……ありがとな。お前、いいやつだな」
「そうかな?」
「そうだよ。名前、いつか聞かせてくれよな」
「え――死んでも嫌だよ。
名前も、顔も。ぼくは墓場まで、誰にも伝えさせないつもりだから」
「そ、そうなのか……」
「でも、安心して。ぼくは、ぼくの味方だよ」
少年はふっと笑った。声のトーンは変わらないのに、どこか――怖いほど真剣だった。
「ぼくは八方美人でいたいんだ。みんなに良い顔がしたいし、
君にも、ちゃんと“優しい誰か”でいたいと思ってる」
「……」
「――君が望むことは、理解したよ」
その言葉が、妙に引っかかった。
けれど問い返す前に、少年はすっと立ち上がる。
「じゃあね。今日のプリン、カラメル多めにしておいたよ」
「望みって、そういうのじゃ――」
「分かっているよ、名取先生」
「っ……」
“先生”――
その響きに、妙に胸がざわついた。
少年は小さく笑って、部屋を後にした。
扉が静かに閉まり、再び鎖の音が静寂に溶けていく。
俺は、プリンのフタを開けた。
……甘い。
◇




