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31.強者の饗宴に、転がされるのは



そのときだった。


「……やめて、ください!!」


遠くで――何かが弾けた。


張り詰めた声が、膜越しに響いてくる。

音はもうぼやけているのに、その“必死さ”だけは、やけに鮮明だった。


視界の端、歪んだ景色の向こう――

山田がいた。

戻ってきた。自分の意思で。


一歩、踏み出して。

声を振り絞っていた。

「彼……このまま連れていかれたら……!」


震えていた。

肩も、声も、ぐらぐらと揺れていたのに――それでも、歩みは止まらない。


「……感情とか、そういうの……全部押し殺して……

ただ、勝つためだけの“道具”にされてしまう……!」


ぐしゃぐしゃの顔のまま、山田は叫ぶ。

涙で何も見えてないはずなのに、なぜか――その目だけが、妙に真っ直ぐだった。


「……そんなの、人間の心で、耐えられるわけない……!

壊れるんですよ……っ! 誰だって!」


なんでだよ。

こんなときだけ、ちゃんと見えるなんて――。


でも、その姿も。

すぐにぼやけ始める。

「おや、坊ちゃま。ずいぶんとお早いお帰りで」


振り向きもせずに、子規は笑った。

口調はいつも通り柔らかくて、どこか色気すら漂っている。


「よそのことに口を出すのは、お坊ちゃまの嗜みじゃないでしょう。

……ね?逃げるなら、今ですよ」


その声が空気を裂いた。

優しいのに――なぜか、終わりの合図のように聞こえた。


思わず、背中に冷たいものが走る。


「けど……!」


言いかけたそのとき――


「いやあ、驚きましたよ。

私なんかより、会って間もない相手に、そんなに熱くなるとはね」


子規は笑いながら、ゆるりと振り向く。

その目だけが、笑っていなかった。


「……そこまで分からないとなると、

――肋の一本でも折って差し上げないと、学習できないんですねえ」


ぐらり、と景色が傾いた。

息が詰まる。

立っていられない。

動かない身体の中で、心だけが叫んでいた。


動け。立て。声を出せ。

あんなに叫んでるのに、どうして――。

――ドンッ。


何かが崩れる音がした。


音の正体も分からないまま、視界が揺れた。

にじんだ光。歪んだ景色。

だけど、その中に――ひとつ、はっきり分かることがあった。


……山田が、倒れた。


それだけが、なぜか確かだった。

脳の奥に直接流れ込んでくるみたいに、

ぼんやりした世界の中で、そこだけが異様にくっきりしていた。




「……どうして……

みんな……人を、駒みたいに……使うんだ……」


掠れた声が、耳に刺さった。


やけに近くて、やけに遠くて。

ふわふわと浮いた意識を引き戻すように――その声だけが、真っ直ぐに響いた。


“駒”。


……そうか。

きっと俺も、その一つだ。


使い捨ての。

壊れかけの。


……ああ、情けない。


誰かの腕に抱えられて。

ただ沈んでいくことしか、できないなんて――

……なんで、だよ……。


そのとき。


「……名取、」


遠くで、誰かが俺の名を呼んだ。

霞む視界の先で、一歩、踏み出そうとする影――雨柳だった。


拳を握っていた。

きっと、蝶谷に向かって行こうとしている。

だが――


「その拳――もう、下ろしておきましょうか。鬼雷くん」


静かで、柔らかい声だった。

なのにその声が届いた瞬間、空気が凍る。


青年――メシアが、静かに笑んでいた。

微笑みの中に、底の見えない“正しさ”を湛えて。


「君は――“従う”ために、生まれてきたのでは?」


優しい。けれど、それは“導き”の声ではない。

“呪い”だった。


「違いましたか?

君は最初から、“主”の命に従う立場だった。

己の手で決める自由など、与えられていなかったはずです」


雨柳の肩がびくりと揺れた。

拳も、微かに震えている。


けれど、彼は動かない。

前には出られない。


「交渉もできない。

駆け引きもできない。

――花札の盤に上がる“手段”さえ、君には許されていないのです」


メシアは、まるで講話のように、言葉を重ねていく。


「君に与えられたのは、“汚れ役”という名の檻。

その中で吠えることすら許されず、ただ配置された存在――

それが、君の“救い”だったのですよ」


どこまでも優しい声だった。

どこにも怒気はなかった。


……なのに、酷く、冷たかった。

ひどく――残酷だった。


視界がぐらりと揺れる。

まぶたが重い。けれど、耳だけは冴えていて。


その声が、水の中に沈むみたいに、ゆっくりと沈んでくる。


「でも、鬼雷くん。

あなたがこのままその“役目”を果たし続ければ、

いつか、“まともな立場”を得ることができるかもしれませんよ」


ひと呼吸、間が空いた。


「――ただし。

もし今、この場で空気を乱すようなことをすれば」


声はなおも、やさしいままだった。


「その手も、足も、落とします。

……君のだけではありません。

君が“かばおうとしている者たち”ごと、まとめてね」


雨柳の拳が、小さく震えた。


だけど、彼は――動かなかった。

前にも出なかった。

俺と同じだ。ただ、立ち尽くすしかない。


……ほんとに、悔しい。


目を閉じれば、少しは楽になる気がした。

でも閉じたら――もう開けられない気がして。


その声だけが、なおも、耳にすうっと沈み続けていた。


「――ああ、そうでした。ついでに、もうひとつだけ」


ふと思い出したように、メシアが口を開く。

まるで、つまらない世間話でも始めるみたいに。

その軽さが――いちばん怖かった。


「“鬼雷くんが、美術塔に行きたい”と願ったときのことです」


ゆるやかに、まるで牧師が語りかけるように――メシアの声が響いた。

甘く、優しく、柔らかく。

なのに、確実に刺してくる。


「小野 道臣先輩は……止めなかったそうですね」


一拍、間を置いて――


「……蝶谷先輩は、“仇”の研究に没頭している危険人物ですよ。

まともな先輩なら、そんな場所に後輩を近づけるでしょうか?」


ざわっ、と。

空気が、さざ波のように揺れた。


「それどころか、道案内までしたと、聞いています。

……なぜでしょうね?」


その言葉に乗って、誰かが声を漏らす。


「止めなかったの?なんで……?」

「危ないって分かってたんじゃないの……?」


誰かが言えば、誰かが続ける。

声は、ささやきから糾弾に変わっていく。


「知ってて、黙ってたの?」

「……それって、共犯ってこと?」


「だから、臣ちゃんは関係ないって……!」


耐えかねたように、雨柳が声を上げる。

けれど――その言葉すら、拾われてしまう。


「“臣ちゃん”?随分と……親しいご様子ですね」

メシアは、薄く笑う。

その笑みは、燃え広がる火種に油を注ぐようだった。


「君が贔屓されているという噂、あちこちから聞きますよ。

――“特別扱いされていた”と」


「誰が言ってるんだよ……!」


「言えるわけないじゃないですか。

言ったら、その方が可哀想でしょう?」


また一歩、群衆の空気を動かす。


「犯人探しなんて、悪い人のすることです。

……そうですよね、皆様?」


その言葉に、何人かが小さく頷いた。

もう、それだけで――空気は決まる。


「それに、彼は――私の“お願い”を無視したこともありましたね」


淡々と、けれど確実に。


「“彼を柳シマに連れてきてほしい”という私の願いを拒んで、

しばらく、彼と暮らしていた、と聞いていますよ」


メシアの視線が、俺に向けられる。

意識がぼんやりしていて、うまく言葉が出てこない。

暮らしていた?……いや、そんなはずは――


「そうだよー」


代わりに、蝶谷が軽く返事をした。

ふざけているのか、それとも本気なのか。

分からない。分からないけど――空気は、また動く。


「……え、同居って……なにそれ」

「気持ち悪……」

「ていうか、そういうの、規定違反じゃないの?」

「キチガイ巣窟の牡丹シマと一緒に暮らしてたって、ヤバすぎじゃん……」


どんどん、飛び交う言葉が冷たくなっていく。


雨柳は、何も言わなかった。

言おうとしたのかもしれない。でも、言葉にならなかった。

拳だけが、震えていた。


そして――誰も、その手を取らなかった。


……俺が、何もできないまま。


「……ふふ、ごめんなさいね?困らせるつもりなんて、なかったんです」


メシアは微笑んだ。

心からの無邪気さを装って――人を突き落とす笑みで。


「ただちょっと、気になっただけですから。ね?」


そう言って、彼は一歩だけ下がる。

まるで――ただの通りすがりの“善意の観察者”みたいに。


――ほんとうに、最悪だった。


誰も、助けられなかった。

誰一人、救えなかった。


……なのに俺は、


指を動かすことさえ――できなかった。


耳鳴りの奥で、何かが話している。

でも、もう遠い。どんどん、遠くなる。


頭が、ゆっくり沈んでいく。

水の底に落ちるみたいに。


「……名取くん」


かすかに、蝶谷の声がした気がした。


――声は届いているのか。

それさえも、もう分からなかった。


まぶたが、重い。

視界が、音より先に消えていく。


「……おやすみなさい」

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