31.強者の饗宴に、転がされるのは
◇
そのときだった。
「……やめて、ください!!」
遠くで――何かが弾けた。
張り詰めた声が、膜越しに響いてくる。
音はもうぼやけているのに、その“必死さ”だけは、やけに鮮明だった。
視界の端、歪んだ景色の向こう――
山田がいた。
戻ってきた。自分の意思で。
一歩、踏み出して。
声を振り絞っていた。
「彼……このまま連れていかれたら……!」
震えていた。
肩も、声も、ぐらぐらと揺れていたのに――それでも、歩みは止まらない。
「……感情とか、そういうの……全部押し殺して……
ただ、勝つためだけの“道具”にされてしまう……!」
ぐしゃぐしゃの顔のまま、山田は叫ぶ。
涙で何も見えてないはずなのに、なぜか――その目だけが、妙に真っ直ぐだった。
「……そんなの、人間の心で、耐えられるわけない……!
壊れるんですよ……っ! 誰だって!」
なんでだよ。
こんなときだけ、ちゃんと見えるなんて――。
でも、その姿も。
すぐにぼやけ始める。
「おや、坊ちゃま。ずいぶんとお早いお帰りで」
振り向きもせずに、子規は笑った。
口調はいつも通り柔らかくて、どこか色気すら漂っている。
「よそのことに口を出すのは、お坊ちゃまの嗜みじゃないでしょう。
……ね?逃げるなら、今ですよ」
その声が空気を裂いた。
優しいのに――なぜか、終わりの合図のように聞こえた。
思わず、背中に冷たいものが走る。
「けど……!」
言いかけたそのとき――
「いやあ、驚きましたよ。
私なんかより、会って間もない相手に、そんなに熱くなるとはね」
子規は笑いながら、ゆるりと振り向く。
その目だけが、笑っていなかった。
「……そこまで分からないとなると、
――肋の一本でも折って差し上げないと、学習できないんですねえ」
ぐらり、と景色が傾いた。
息が詰まる。
立っていられない。
動かない身体の中で、心だけが叫んでいた。
動け。立て。声を出せ。
あんなに叫んでるのに、どうして――。
――ドンッ。
何かが崩れる音がした。
音の正体も分からないまま、視界が揺れた。
にじんだ光。歪んだ景色。
だけど、その中に――ひとつ、はっきり分かることがあった。
……山田が、倒れた。
それだけが、なぜか確かだった。
脳の奥に直接流れ込んでくるみたいに、
ぼんやりした世界の中で、そこだけが異様にくっきりしていた。
「……どうして……
みんな……人を、駒みたいに……使うんだ……」
掠れた声が、耳に刺さった。
やけに近くて、やけに遠くて。
ふわふわと浮いた意識を引き戻すように――その声だけが、真っ直ぐに響いた。
“駒”。
……そうか。
きっと俺も、その一つだ。
使い捨ての。
壊れかけの。
……ああ、情けない。
誰かの腕に抱えられて。
ただ沈んでいくことしか、できないなんて――
……なんで、だよ……。
そのとき。
「……名取、」
遠くで、誰かが俺の名を呼んだ。
霞む視界の先で、一歩、踏み出そうとする影――雨柳だった。
拳を握っていた。
きっと、蝶谷に向かって行こうとしている。
だが――
「その拳――もう、下ろしておきましょうか。鬼雷くん」
静かで、柔らかい声だった。
なのにその声が届いた瞬間、空気が凍る。
青年――メシアが、静かに笑んでいた。
微笑みの中に、底の見えない“正しさ”を湛えて。
「君は――“従う”ために、生まれてきたのでは?」
優しい。けれど、それは“導き”の声ではない。
“呪い”だった。
「違いましたか?
君は最初から、“主”の命に従う立場だった。
己の手で決める自由など、与えられていなかったはずです」
雨柳の肩がびくりと揺れた。
拳も、微かに震えている。
けれど、彼は動かない。
前には出られない。
「交渉もできない。
駆け引きもできない。
――花札の盤に上がる“手段”さえ、君には許されていないのです」
メシアは、まるで講話のように、言葉を重ねていく。
「君に与えられたのは、“汚れ役”という名の檻。
その中で吠えることすら許されず、ただ配置された存在――
それが、君の“救い”だったのですよ」
どこまでも優しい声だった。
どこにも怒気はなかった。
……なのに、酷く、冷たかった。
ひどく――残酷だった。
視界がぐらりと揺れる。
まぶたが重い。けれど、耳だけは冴えていて。
その声が、水の中に沈むみたいに、ゆっくりと沈んでくる。
「でも、鬼雷くん。
あなたがこのままその“役目”を果たし続ければ、
いつか、“まともな立場”を得ることができるかもしれませんよ」
ひと呼吸、間が空いた。
「――ただし。
もし今、この場で空気を乱すようなことをすれば」
声はなおも、やさしいままだった。
「その手も、足も、落とします。
……君のだけではありません。
君が“かばおうとしている者たち”ごと、まとめてね」
雨柳の拳が、小さく震えた。
だけど、彼は――動かなかった。
前にも出なかった。
俺と同じだ。ただ、立ち尽くすしかない。
……ほんとに、悔しい。
目を閉じれば、少しは楽になる気がした。
でも閉じたら――もう開けられない気がして。
その声だけが、なおも、耳にすうっと沈み続けていた。
「――ああ、そうでした。ついでに、もうひとつだけ」
ふと思い出したように、メシアが口を開く。
まるで、つまらない世間話でも始めるみたいに。
その軽さが――いちばん怖かった。
「“鬼雷くんが、美術塔に行きたい”と願ったときのことです」
ゆるやかに、まるで牧師が語りかけるように――メシアの声が響いた。
甘く、優しく、柔らかく。
なのに、確実に刺してくる。
「小野 道臣先輩は……止めなかったそうですね」
一拍、間を置いて――
「……蝶谷先輩は、“仇”の研究に没頭している危険人物ですよ。
まともな先輩なら、そんな場所に後輩を近づけるでしょうか?」
ざわっ、と。
空気が、さざ波のように揺れた。
「それどころか、道案内までしたと、聞いています。
……なぜでしょうね?」
その言葉に乗って、誰かが声を漏らす。
「止めなかったの?なんで……?」
「危ないって分かってたんじゃないの……?」
誰かが言えば、誰かが続ける。
声は、ささやきから糾弾に変わっていく。
「知ってて、黙ってたの?」
「……それって、共犯ってこと?」
「だから、臣ちゃんは関係ないって……!」
耐えかねたように、雨柳が声を上げる。
けれど――その言葉すら、拾われてしまう。
「“臣ちゃん”?随分と……親しいご様子ですね」
メシアは、薄く笑う。
その笑みは、燃え広がる火種に油を注ぐようだった。
「君が贔屓されているという噂、あちこちから聞きますよ。
――“特別扱いされていた”と」
「誰が言ってるんだよ……!」
「言えるわけないじゃないですか。
言ったら、その方が可哀想でしょう?」
また一歩、群衆の空気を動かす。
「犯人探しなんて、悪い人のすることです。
……そうですよね、皆様?」
その言葉に、何人かが小さく頷いた。
もう、それだけで――空気は決まる。
「それに、彼は――私の“お願い”を無視したこともありましたね」
淡々と、けれど確実に。
「“彼を柳シマに連れてきてほしい”という私の願いを拒んで、
しばらく、彼と暮らしていた、と聞いていますよ」
メシアの視線が、俺に向けられる。
意識がぼんやりしていて、うまく言葉が出てこない。
暮らしていた?……いや、そんなはずは――
「そうだよー」
代わりに、蝶谷が軽く返事をした。
ふざけているのか、それとも本気なのか。
分からない。分からないけど――空気は、また動く。
「……え、同居って……なにそれ」
「気持ち悪……」
「ていうか、そういうの、規定違反じゃないの?」
「キチガイ巣窟の牡丹シマと一緒に暮らしてたって、ヤバすぎじゃん……」
どんどん、飛び交う言葉が冷たくなっていく。
雨柳は、何も言わなかった。
言おうとしたのかもしれない。でも、言葉にならなかった。
拳だけが、震えていた。
そして――誰も、その手を取らなかった。
……俺が、何もできないまま。
「……ふふ、ごめんなさいね?困らせるつもりなんて、なかったんです」
メシアは微笑んだ。
心からの無邪気さを装って――人を突き落とす笑みで。
「ただちょっと、気になっただけですから。ね?」
そう言って、彼は一歩だけ下がる。
まるで――ただの通りすがりの“善意の観察者”みたいに。
――ほんとうに、最悪だった。
誰も、助けられなかった。
誰一人、救えなかった。
……なのに俺は、
指を動かすことさえ――できなかった。
耳鳴りの奥で、何かが話している。
でも、もう遠い。どんどん、遠くなる。
頭が、ゆっくり沈んでいく。
水の底に落ちるみたいに。
「……名取くん」
かすかに、蝶谷の声がした気がした。
――声は届いているのか。
それさえも、もう分からなかった。
まぶたが、重い。
視界が、音より先に消えていく。
「……おやすみなさい」
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