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2.注射器の幽霊と泣き面の鬼と少年になった俺



ゆっくりと、意識が浮かび上がる。


視界が低い気がする。

最初に目に入ったのは、2人の男子生徒。


一人は、長い黒髪を引きずる中性的な男子生徒だ。

伏し目がちで、じっと濡れた目を向けてくる。

その視線に、ふと――蝶が舞うような幻を見た。

綺麗で、静かで、少しだけ怖い。


そして、その奥。

壁にもたれた大柄な少年がいる。

鋭い顔立ちに、子犬のような不安を宿した三白眼。

じっと俺を見ていた。

……どうして、そんな目で?


そして――ふたりの声が、重なるように響いた。


「君さ、採血していい?」

先に聞こえたのは、長い髪の眠そうな声。

軽いのに、どこか本気で――冗談じゃ済まなさそうな圧があった。

まるで、「これが当然だろ?」とでも言いたげに。


「……おかえり」

そのあと届いたのは、弱々しいけどまっすぐな少年の声。

小さくて、少し震えてて、でもちゃんと俺を呼んでいた。


ふたりとも、俺の目覚めを――待ってた。

声だけで、それがなんとなく分かった。


この世界が、ちゃんと俺の“帰り”を待ってくれてたんだ。


「……とりあえず、ただいま」



壁にもたれていた彼がそっと目を伏せ、ぽつりと独り言のように笑った。


「……やっぱ、生きてるほうが、いいな」


その言葉の意味は、まだよく分からない。

でも――俺はたぶん、どこかで一度、死にかけていたのかもしれない。


まずは、自分の名前を黒板に書かないと。

……黒板が、ない。


ここは――まるで塔の中のようだった。


「そっか。名前は?」


「……雨柳(うりゅう) 鬼雷(きらい)


「雨柳って言うのか。

俺は――」


「はーい、採血しまーす」


「っあ゛っ、いってえ……!」


急に腕をつかまれて、チクッとした痛み。


長髪はご機嫌な顔で器具をいじりながら、にっこり笑ってる。

その様子を、雨柳が本気で長髪を睨んでいる。


「サダクローは、まだ起きたばっかだぞ!何すんだよ!」


サダクロー?俺のことか?


「……俺、サダクローじゃなくて。深見(ふかみ) 名取(なとり)なんだけど……」


そう言うと、雨柳は一瞬だけきょとんとして――急にパッと笑った。


「お前、ナトリって言うのか!」


まるで名前を呼ばれた子犬みたいな笑顔だ。

思わず笑いそうになる。


「そんなに大袈裟にしなくても分かるだろ。

もうすぐ、俺は教師として赴任するし」


何気なく言ったつもりだったけど、その一言で空気が変わった。


「質問、してもいい?」


先に口を開いたのは、青年じゃなくて――雨柳だった。


「なぁ、好きな食べもんとか、ある?」


いきなりすぎて、少し黙った。

でも、その“なんでもない質問”が、すごく優しくて。呼吸がちょっとだけ楽になった。


「……白いご飯、かな」


「ご飯? 白いだけの?」


「うん。おかずなくても平気なタイプ。

炊きたての湯気とか香りとか……“ちゃんと炊けてる”って感じが、いいんだよな」


雨柳は「へぇ……」って言ってから、小さく頷いた。


「なんかいいな、それ……シンプルだけど、わかる気するわ!」


ちょっと黙ってから、肩をすくめて続ける。


「……趣味とかあんの?」

覗き込む様に雨柳が聞く。


「簡単なクロスワード。解けるやつ限定」


「え、パズルに簡単なのあんの?」


「あるよ。寝る前に、ちょっと頭使うくらいのやつ」


「へぇ……」


少しだけ間があって、雨柳がポツリと呟いた。


「……じゃあ、オレもやってみっかな。ナトリがやってんなら」


「……影響されやすいな」


「ちげーし。ただ……お前がやってるの、気になるだけ」


照れ隠しなのか、急に口調が荒くなる。


「友達がハマってんなら、オレもやってみたいって思うだろ、普通」


「……素直だな」


「うるせ」


目をそらして、耳まで赤くしてる。おかしくて、つい笑いそうになる。


なんでもない会話。


だけど、それがとても懐かしくて――

胸の奥の、冷たくなってた部分が、少しずつ溶けていくのを感じる。



気だるげなジト目の奥に、かすかに光がゆれていた。


「ねえ、君の“過去”って、どんなの?」


その言葉に、喉の奥がぎゅっとつまる。


「……教師だった。たぶん、今も、教師だったんだと思う」


口にしながら、何を話してるのか分からなくなっていく。

言葉だけが、体の表面をすべっていくような感覚。ぜんぜん実感がない。


「教室があって、生徒がいて……黒板に字を書いた、ような。

……誰かが笑ってた気がする。誰、だっけ?」


頭の奥が、ずきっと重たく痛んだ。


「他に、覚えてる名前ってあるー?」


"覚えている名前"

たったそれだけの言葉なのに、心が、ガラガラと崩れていく。


音なんてしてないのに、"崩れる音”が頭の中で響いた。


名前。誰かの名前。思い出そうとする。

いや――思い出さなきゃ、いけない気がする。


──非通知。


何度も何度も、かかってきた。

嬉しかった。


そのときの声が、浮かぶ。


《……倒れるなら、目の前で倒れてほしかった》


ぶっきらぼうで、不器用で。でも……まっすぐな声だった。


“やれやれ”って、笑ってた。


……あの日の教室。笑ってた顔。

え、“あの日”? いつのこと?


《……先生。……来た、から。》


ちゃんと覚えてるはずなのに、つながらない。


誰?

俺は、誰を――忘れてる?


何かを手の中に持ってた。たしかに、大事にしてた。

でも気づいたら、ぐしゃぐしゃになってて、壊れてて。


柔らかくて、あったかくて、でも……もう、ない。


ああ、寒い。

こんなに冷たかったんだ、俺の体って。


なんで……?

これ、生きてる感じじゃない。


……俺、


死んでるみたいだ。


喉がきしむ。目が熱い。

涙が、勝手にこぼれた。


「……なんで、思い出せないんだよ……」


こわい。こわい。こわい。

“分からない”って、こんなにも怖いものなのか――?


顔が思い出せない。

声だけが、耳に残ってる。


「分からない……っ!」


叫んだ。


助けてって、言えなかった。

でも――叫びながら、誰かにすがろうとしてた。


その瞬間。


誰かの手が、背中にそっとふれた。


雨柳だった。

震えてる。でも、ちゃんと優しい。


「ナトリ……?」


「……だいじょうぶ、だ。

ごめんな……」


あれ?


この声――高くないか?


俺、こんな声だったっけ?


「……え、俺の、姿……?」


戸惑ってると、長髪の青年が静かに口を開く。


「落ち着かなくていい。でも、聞いて」


ひと呼吸おいて、はっきり言う。


「――君は、“少年の姿”になってるよ」


理解が追いつかない。

でも――体の奥では、もう分かってた。


その瞬間、心が決壊した。


世界がぐらっと傾く。

内臓がねじれるみたいに、胸の奥がえぐられた。


そして、声がよみがえる。


《ここ、青秋学苑ではね。入学のとき、誰にでも“一つ目の”願いが与えられる。

……君も、その権利があるよ》


聞いたんだ、あの日。


誰かに。


ちゃんと、あのとき――


俺は、願ったんだ。


何かを手に入れるために。

何かを……切り捨てて。


大切な約束を破った。

大事な誰かを、置いてきた。


……じゃなきゃ、

こんなに苦しくなるわけがない。


「っ、……ぅ、……っ」


嗚咽がこぼれる。

涙が止まらない。


喉が焼けるように痛くて、

胃の奥がぐるぐるに絡まってる。


吐きそう。


でも、何も出ない。


あるのは――


後悔だけだった。

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