2.注射器の幽霊と泣き面の鬼と少年になった俺
◇
ゆっくりと、意識が浮かび上がる。
視界が低い気がする。
最初に目に入ったのは、2人の男子生徒。
一人は、長い黒髪を引きずる中性的な男子生徒だ。
伏し目がちで、じっと濡れた目を向けてくる。
その視線に、ふと――蝶が舞うような幻を見た。
綺麗で、静かで、少しだけ怖い。
そして、その奥。
壁にもたれた大柄な少年がいる。
鋭い顔立ちに、子犬のような不安を宿した三白眼。
じっと俺を見ていた。
……どうして、そんな目で?
そして――ふたりの声が、重なるように響いた。
「君さ、採血していい?」
先に聞こえたのは、長い髪の眠そうな声。
軽いのに、どこか本気で――冗談じゃ済まなさそうな圧があった。
まるで、「これが当然だろ?」とでも言いたげに。
「……おかえり」
そのあと届いたのは、弱々しいけどまっすぐな少年の声。
小さくて、少し震えてて、でもちゃんと俺を呼んでいた。
ふたりとも、俺の目覚めを――待ってた。
声だけで、それがなんとなく分かった。
この世界が、ちゃんと俺の“帰り”を待ってくれてたんだ。
「……とりあえず、ただいま」
壁にもたれていた彼がそっと目を伏せ、ぽつりと独り言のように笑った。
「……やっぱ、生きてるほうが、いいな」
その言葉の意味は、まだよく分からない。
でも――俺はたぶん、どこかで一度、死にかけていたのかもしれない。
まずは、自分の名前を黒板に書かないと。
……黒板が、ない。
ここは――まるで塔の中のようだった。
「そっか。名前は?」
「……雨柳 鬼雷」
「雨柳って言うのか。
俺は――」
「はーい、採血しまーす」
「っあ゛っ、いってえ……!」
急に腕をつかまれて、チクッとした痛み。
長髪はご機嫌な顔で器具をいじりながら、にっこり笑ってる。
その様子を、雨柳が本気で長髪を睨んでいる。
「サダクローは、まだ起きたばっかだぞ!何すんだよ!」
サダクロー?俺のことか?
「……俺、サダクローじゃなくて。深見 名取なんだけど……」
そう言うと、雨柳は一瞬だけきょとんとして――急にパッと笑った。
「お前、ナトリって言うのか!」
まるで名前を呼ばれた子犬みたいな笑顔だ。
思わず笑いそうになる。
「そんなに大袈裟にしなくても分かるだろ。
もうすぐ、俺は教師として赴任するし」
何気なく言ったつもりだったけど、その一言で空気が変わった。
「質問、してもいい?」
先に口を開いたのは、青年じゃなくて――雨柳だった。
「なぁ、好きな食べもんとか、ある?」
いきなりすぎて、少し黙った。
でも、その“なんでもない質問”が、すごく優しくて。呼吸がちょっとだけ楽になった。
「……白いご飯、かな」
「ご飯? 白いだけの?」
「うん。おかずなくても平気なタイプ。
炊きたての湯気とか香りとか……“ちゃんと炊けてる”って感じが、いいんだよな」
雨柳は「へぇ……」って言ってから、小さく頷いた。
「なんかいいな、それ……シンプルだけど、わかる気するわ!」
ちょっと黙ってから、肩をすくめて続ける。
「……趣味とかあんの?」
覗き込む様に雨柳が聞く。
「簡単なクロスワード。解けるやつ限定」
「え、パズルに簡単なのあんの?」
「あるよ。寝る前に、ちょっと頭使うくらいのやつ」
「へぇ……」
少しだけ間があって、雨柳がポツリと呟いた。
「……じゃあ、オレもやってみっかな。ナトリがやってんなら」
「……影響されやすいな」
「ちげーし。ただ……お前がやってるの、気になるだけ」
照れ隠しなのか、急に口調が荒くなる。
「友達がハマってんなら、オレもやってみたいって思うだろ、普通」
「……素直だな」
「うるせ」
目をそらして、耳まで赤くしてる。おかしくて、つい笑いそうになる。
なんでもない会話。
だけど、それがとても懐かしくて――
胸の奥の、冷たくなってた部分が、少しずつ溶けていくのを感じる。
気だるげなジト目の奥に、かすかに光がゆれていた。
「ねえ、君の“過去”って、どんなの?」
その言葉に、喉の奥がぎゅっとつまる。
「……教師だった。たぶん、今も、教師だったんだと思う」
口にしながら、何を話してるのか分からなくなっていく。
言葉だけが、体の表面をすべっていくような感覚。ぜんぜん実感がない。
「教室があって、生徒がいて……黒板に字を書いた、ような。
……誰かが笑ってた気がする。誰、だっけ?」
頭の奥が、ずきっと重たく痛んだ。
「他に、覚えてる名前ってあるー?」
"覚えている名前"
たったそれだけの言葉なのに、心が、ガラガラと崩れていく。
音なんてしてないのに、"崩れる音”が頭の中で響いた。
名前。誰かの名前。思い出そうとする。
いや――思い出さなきゃ、いけない気がする。
──非通知。
何度も何度も、かかってきた。
嬉しかった。
そのときの声が、浮かぶ。
《……倒れるなら、目の前で倒れてほしかった》
ぶっきらぼうで、不器用で。でも……まっすぐな声だった。
“やれやれ”って、笑ってた。
……あの日の教室。笑ってた顔。
え、“あの日”? いつのこと?
《……先生。……来た、から。》
ちゃんと覚えてるはずなのに、つながらない。
誰?
俺は、誰を――忘れてる?
何かを手の中に持ってた。たしかに、大事にしてた。
でも気づいたら、ぐしゃぐしゃになってて、壊れてて。
柔らかくて、あったかくて、でも……もう、ない。
ああ、寒い。
こんなに冷たかったんだ、俺の体って。
なんで……?
これ、生きてる感じじゃない。
……俺、
死んでるみたいだ。
喉がきしむ。目が熱い。
涙が、勝手にこぼれた。
「……なんで、思い出せないんだよ……」
こわい。こわい。こわい。
“分からない”って、こんなにも怖いものなのか――?
顔が思い出せない。
声だけが、耳に残ってる。
「分からない……っ!」
叫んだ。
助けてって、言えなかった。
でも――叫びながら、誰かにすがろうとしてた。
その瞬間。
誰かの手が、背中にそっとふれた。
雨柳だった。
震えてる。でも、ちゃんと優しい。
「ナトリ……?」
「……だいじょうぶ、だ。
ごめんな……」
あれ?
この声――高くないか?
俺、こんな声だったっけ?
「……え、俺の、姿……?」
戸惑ってると、長髪の青年が静かに口を開く。
「落ち着かなくていい。でも、聞いて」
ひと呼吸おいて、はっきり言う。
「――君は、“少年の姿”になってるよ」
理解が追いつかない。
でも――体の奥では、もう分かってた。
その瞬間、心が決壊した。
世界がぐらっと傾く。
内臓がねじれるみたいに、胸の奥がえぐられた。
そして、声がよみがえる。
《ここ、青秋学苑ではね。入学のとき、誰にでも“一つ目の”願いが与えられる。
……君も、その権利があるよ》
聞いたんだ、あの日。
誰かに。
ちゃんと、あのとき――
俺は、願ったんだ。
何かを手に入れるために。
何かを……切り捨てて。
大切な約束を破った。
大事な誰かを、置いてきた。
……じゃなきゃ、
こんなに苦しくなるわけがない。
「っ、……ぅ、……っ」
嗚咽がこぼれる。
涙が止まらない。
喉が焼けるように痛くて、
胃の奥がぐるぐるに絡まってる。
吐きそう。
でも、何も出ない。
あるのは――
後悔だけだった。
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