1.ようこそ、願いの前借りが出来る学苑へ
◇
光が揺れていた。
やけに白い。どこから射しているのか分からない。
視界はあるのに、頭の奥は靄に沈んでいる。
――俺は、誰だ。
問いが胸の奥で転がり、空洞を鳴らした。
答えは、かろうじて残っている。
――教師だった。
その記憶だけは、濁らない。
黒板。
チョークが擦れる音。
陽の光に舞う粉塵。
笑い声と、真剣な瞳。
――守りたかった。
そのはずなのに。
掴もうとするたび、映像は裂けて崩れ落ちる。
どうしてここにいるのかも分からない。
ただ、ひとつだけ確かなこと。
俺は――この青秋学苑に、教師として赴任するはずだった。
……だったはず、なのに。
(どうして――)
気づけば、重厚な扉の前に立っていた。
無意識にノックしていた。
コン、コン……。
やけに乾いた音が響く。
返事を待つ間、指先が震えていた。
その震えが不安なのか、別の感情なのか、自分でも分からない。
――静かに、扉が開いた。
◇
青秋学苑――理事長室。
足を踏み入れた瞬間、世界が音を失った。
深紅の絨毯が靴音を呑み込む。
広すぎる空間。
窓からの光でさえ、氷の刃のように研ぎ澄まされている。
重厚な木の香りに、鉄の匂いが微かに混じっていた。
机の奥に、男が座っていた。
彫刻のように整った輪郭。
滑らかな銀糸の髪が肩に流れ、影の中で微かに光を帯びる。
その瞳は、凍りついた湖のように澄んでいて、深さを測れない。
白い指先が、札を弄んでいた。
艶やかな赤と白――“菊に盃”。
くるり、と札が回る。
酒のように甘い色。その奥に潜むのは、冷えた毒だ。
「来てくれて、ありがとう。深見 名取くん」
声は静かで、なめらかだった。
温度を持たない音。
柔らかいのに、どこかで金属が擦れるような冷たさを孕んでいた。
名を呼ばれた瞬間、胸の奥で鈍い音がした。
(……俺は、深見 名取)
その名前だけが、今の自分を繋ぎ止めている。
「……俺は、ここに……赴任するはずだったんですよね」
声が硬い。
教師であること――それが最後の足場だった。
理事長は、ゆるやかに首を傾けた。
その仕草は、絵画の人物のように優雅で――けれど、どこまでも冷ややかだ。
「赴任……そう、予定ではね。でも今回は“入学”だ」
――入学?
胸の奥で、音もなく何かが軋む。
「ここに来た理由を、知っているかい?」
札を弄ぶ指が止まらない。
その動きに目が釘付けになる。
「……知りません」
答える声が、震えていた。
「だろうね」
ふっと笑んだ。
けれど、その笑みは氷の面に映る陽光のようで、温度を持たない。
理事長は懐に手を差し入れる。
そして、ゆっくりと取り出した。
黒い細縁の眼鏡だった。
瓶底のように厚いレンズ。
白く曇り、世界を拒む光沢。
――場違いなほど古びているのに、なぜか威圧感を帯びている。
「これが、誰のものか分かるかい?」
カチリ。
眼鏡を弄ぶ音が、静かな部屋にやけに響く。
「……いいえ」
「君のために、命懸けで戦った“彼”のものだよ」
札が、静かに回る。
「何人もの願いを踏み台にして、積み上げて。ここに君を呼ぶために、すべてを賭けた。
壊れた笑顔も、泣き声も、その上に重ねてね」
胸が跳ねた。
はらりと脳裏に映る。
揺れる長い前髪。
でも、顔は霞んでいる。
理事長は、眼鏡をそっと置きながら言った。
「これはただの証だよ。
本当の褒美はーー君だ」
指先が冷えた。
息が詰まる。
意味を理解する前に、理事長の声が再び落ちてくる。
「この学苑ではね――願いは、現実になる」
声は、あまりにも穏やかだった。
札がくるりと回る。
「そのために、“仇討ち制度”がある」
理事長の言葉は、淡々としていて逆に耳に刺さる。
「命懸けの花札――簡単に言えば、こいこいだよ」
(命懸け――?)
喉がひきつる。
「願いを喰らい、願いを賭ける。勝てば叶う。負ければ――少しずつ壊れていく」
――壊れる。
その響きが、胸の奥で鈍く響いた。
――カチリ。
札が、机で止まる音。
赤い縁が、静かに光る。
「とはいえ、形式上……君自身の“願い”も必要でね」
その笑みは、皮膚の裏側を撫でるように気味が悪い。
「……願い、ですか」
反射的に返した声は、驚くほど硬かった。
「“花”に込められた願いはね――君が思っているより、ずっと正直なんだよ」
視線を絡め取られた瞬間、全身が粟立つ。
――見透かされている。
「特に願いは……ありません」
その言葉は、床に落ちるみたいに虚しかった。
「君は、教師だったんだ」
その一言で、息が止まる。
「“生徒を守れなかったことを、なかったことにしたい”――そんな願いは?」
……刺さった。
鋭い針で心を突かれたみたいだった。
「……俺は、教師のくせに、教室の“中”にいたかったんです。
黒板の前じゃなくて、一緒に笑って、悩んで……」
記憶がないはずなのに、自然と言葉が口から出る。
乾いた笑いが漏れる。
それが、間違いだったとしても。
「でも、俺みたいな大人が、踏み込んじゃいけない場所だったんですよ」
沈黙。
札の音だけが、間を埋める。
「……俺がいなければ、あの子たちはもっと笑えたかもしれない。
そう思ったら、もう……戻れなくて」
――カチリ。
札が、机で止まった。
“牡丹のかす”が視界に入る。
理事長がそれを、ゆっくりと滑らせる。
「名取くん」
呼ばれた名が、胸に深く刺さる。
「“誰かのため”って言葉で、自分の壊れを誤魔化すのは、少しずるいよ」
声は柔らかい。
なのに、冷たい刃を思わせる。
「君が本当に求めていたのは――何だろうね?」
否定、できなかった。
夕焼け。
ざわめき。
チョークの匂い。
幻のように、胸の奥で蘇る。
「……もう一度……あの景色に、立ちたかったんだと思います」
言った瞬間、自分の声が遠くに聞こえた。
それは願いとも、懺悔ともつかない響きだった。
空気が変わった。
理事長はひとつ頷き、札を伏せる。
ぴたり、と音がした。
その音で、世界が裏返る。
「ようこそ――青秋学苑へ」
光が爆ぜる。
視界が、真っ白になった。
◇
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