表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/68

1.ようこそ、願いの前借りが出来る学苑へ


光が揺れていた。

やけに白い。どこから射しているのか分からない。

視界はあるのに、頭の奥は靄に沈んでいる。


――俺は、誰だ。


問いが胸の奥で転がり、空洞を鳴らした。


答えは、かろうじて残っている。

――教師だった。

その記憶だけは、濁らない。


黒板。

チョークが擦れる音。

陽の光に舞う粉塵。

笑い声と、真剣な瞳。

――守りたかった。

そのはずなのに。


掴もうとするたび、映像は裂けて崩れ落ちる。

どうしてここにいるのかも分からない。

ただ、ひとつだけ確かなこと。

俺は――この青秋学苑に、教師として赴任するはずだった。


……だったはず、なのに。


(どうして――)


気づけば、重厚な扉の前に立っていた。

無意識にノックしていた。

コン、コン……。

やけに乾いた音が響く。

返事を待つ間、指先が震えていた。

その震えが不安なのか、別の感情なのか、自分でも分からない。


――静かに、扉が開いた。



青秋学苑――理事長室。


足を踏み入れた瞬間、世界が音を失った。

深紅の絨毯が靴音を呑み込む。

広すぎる空間。

窓からの光でさえ、氷の刃のように研ぎ澄まされている。

重厚な木の香りに、鉄の匂いが微かに混じっていた。


机の奥に、男が座っていた。

彫刻のように整った輪郭。

滑らかな銀糸の髪が肩に流れ、影の中で微かに光を帯びる。

その瞳は、凍りついた湖のように澄んでいて、深さを測れない。


白い指先が、札を弄んでいた。

艶やかな赤と白――“菊に盃”。

くるり、と札が回る。

酒のように甘い色。その奥に潜むのは、冷えた毒だ。


「来てくれて、ありがとう。深見 名取くん」

声は静かで、なめらかだった。

温度を持たない音。

柔らかいのに、どこかで金属が擦れるような冷たさを孕んでいた。


名を呼ばれた瞬間、胸の奥で鈍い音がした。

(……俺は、深見 名取)

その名前だけが、今の自分を繋ぎ止めている。


「……俺は、ここに……赴任するはずだったんですよね」

声が硬い。

教師であること――それが最後の足場だった。


理事長は、ゆるやかに首を傾けた。

その仕草は、絵画の人物のように優雅で――けれど、どこまでも冷ややかだ。

「赴任……そう、予定ではね。でも今回は“入学”だ」


――入学?

胸の奥で、音もなく何かが軋む。


「ここに来た理由を、知っているかい?」

札を弄ぶ指が止まらない。

その動きに目が釘付けになる。


「……知りません」

答える声が、震えていた。


「だろうね」

ふっと笑んだ。

けれど、その笑みは氷の面に映る陽光のようで、温度を持たない。


理事長は懐に手を差し入れる。

そして、ゆっくりと取り出した。


黒い細縁の眼鏡だった。

瓶底のように厚いレンズ。

白く曇り、世界を拒む光沢。

――場違いなほど古びているのに、なぜか威圧感を帯びている。


「これが、誰のものか分かるかい?」

カチリ。

眼鏡を弄ぶ音が、静かな部屋にやけに響く。


「……いいえ」


「君のために、命懸けで戦った“彼”のものだよ」


札が、静かに回る。

「何人もの願いを踏み台にして、積み上げて。ここに君を呼ぶために、すべてを賭けた。

壊れた笑顔も、泣き声も、その上に重ねてね」


胸が跳ねた。

はらりと脳裏に映る。

揺れる長い前髪。

でも、顔は霞んでいる。


理事長は、眼鏡をそっと置きながら言った。

「これはただの証だよ。

本当の褒美はーー君だ」


指先が冷えた。

息が詰まる。

意味を理解する前に、理事長の声が再び落ちてくる。


「この学苑ではね――願いは、現実になる」

声は、あまりにも穏やかだった。


札がくるりと回る。

「そのために、“仇討ち制度”がある」

理事長の言葉は、淡々としていて逆に耳に刺さる。

「命懸けの花札――簡単に言えば、こいこいだよ」


(命懸け――?)

喉がひきつる。

「願いを喰らい、願いを賭ける。勝てば叶う。負ければ――少しずつ壊れていく」


――壊れる。

その響きが、胸の奥で鈍く響いた。


――カチリ。

札が、机で止まる音。

赤い縁が、静かに光る。


「とはいえ、形式上……君自身の“願い”も必要でね」

その笑みは、皮膚の裏側を撫でるように気味が悪い。


「……願い、ですか」

反射的に返した声は、驚くほど硬かった。


「“花”に込められた願いはね――君が思っているより、ずっと正直なんだよ」

視線を絡め取られた瞬間、全身が粟立つ。

――見透かされている。


「特に願いは……ありません」

その言葉は、床に落ちるみたいに虚しかった。


「君は、教師だったんだ」

その一言で、息が止まる。


「“生徒を守れなかったことを、なかったことにしたい”――そんな願いは?」


……刺さった。

鋭い針で心を突かれたみたいだった。


「……俺は、教師のくせに、教室の“中”にいたかったんです。

黒板の前じゃなくて、一緒に笑って、悩んで……」

記憶がないはずなのに、自然と言葉が口から出る。

乾いた笑いが漏れる。

それが、間違いだったとしても。


「でも、俺みたいな大人が、踏み込んじゃいけない場所だったんですよ」


沈黙。

札の音だけが、間を埋める。


「……俺がいなければ、あの子たちはもっと笑えたかもしれない。

そう思ったら、もう……戻れなくて」


――カチリ。

札が、机で止まった。

“牡丹のかす”が視界に入る。

理事長がそれを、ゆっくりと滑らせる。


「名取くん」

呼ばれた名が、胸に深く刺さる。


「“誰かのため”って言葉で、自分の壊れを誤魔化すのは、少しずるいよ」

声は柔らかい。

なのに、冷たい刃を思わせる。

「君が本当に求めていたのは――何だろうね?」


否定、できなかった。

夕焼け。

ざわめき。

チョークの匂い。

幻のように、胸の奥で蘇る。


「……もう一度……あの景色に、立ちたかったんだと思います」

言った瞬間、自分の声が遠くに聞こえた。

それは願いとも、懺悔ともつかない響きだった。


空気が変わった。

理事長はひとつ頷き、札を伏せる。


ぴたり、と音がした。

その音で、世界が裏返る。


「ようこそ――青秋学苑へ」


光が爆ぜる。

視界が、真っ白になった。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。


もしよければ、下にある「☆☆☆☆☆」から作品の評価をしていただけると嬉しいです。

面白かったら★5つ、合わなかったら★1つでも大丈夫です。正直な感想をお聞かせください。


それからブックマークしてもらえたら、ものすごく嬉しいです。

「続きが気になる」と思ってもらえたことが、何よりの励みになります。


どうぞ、よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ