11.花札を打つのは、息が詰まる
◇
「さて、と。じゃあ、数週間。
本気でやってみよっか、花札」
蝶谷がそう言って、黒い札を静かに広げた。
その動きは、無駄がなくて――でも、どこか演出じみていた。
「ここは戦場。
……いい札を一枚取られるたびに、指が一本折れると思ってね」
「……大げさすぎ」
「そ?じゃあ、“仇花”になった子の顔、見る?」
俺が返す前に、蝶谷はスマホをひょいっと持ち上げて、画面を向けた。
そこに映ってたのは――
目の焦点が合ってない男子生徒だった。
泣いてるわけじゃない。
怒ってるわけでもない。
ただ、もう“何も感じてない”顔。
その瞬間、背中がぞわっとした。
「……“次はお前だよ”って顔してるでしょ?」
蝶谷の声はやさしかった。
まるで天気でも話すみたいに、さらっとしてて。
でも――たぶん、それが一番怖かった。
喉が詰まる。
胸の奥に、冷たい水がじわじわ流れ込んでくる。
指先がひやっとする。息がしにくい。
あの時と同じだった。
自分が“主役”のつもりだったのに、
いきなり舞台の真ん中で転んで、
誰にも気づかれずに落ちていった、あの感じ。
誰かが、強くて綺麗で、まぶしい場所に立ってる。
――俺は、その光の外で、ただ沈んでいく。
そして、蝶谷はそんな俺を、
ちょっと面白そうに観察してる。
◇
「名取くん、それ、違うよ」
「……え?札、取っただけだろ」
「うん。でも“取れる札を取った”だけ。
――“相手の手を崩す”って視点、どこ行った?」
蝶谷の指が、俺の札をぐっと押してくる。
その圧だけで、こっちの手がじんわり汗ばむのが分かった。
ただ正解をなぞってるだけじゃ、通用しない。
それを、体に叩き込まれてる感じだった。
◇
「……なんで、勝てねぇんだよ、俺は」
「花札って、見た目より“読み合いゲー”なんだよね」
蝶谷はさらっと言うけど、その目は笑ってなかった。
なんか……俺の心の中だけ、ズームで見られてる感じ。
「名取くん、全部読まれてるよ。――びっくりするくらい」
笑いながら刺してくるの、性格悪くない?って思うけど――
悔しいくらいに、正しい。
◇
「……なんで、そんなに俺を強くしたがるんだよ」
「えっ、そんな必死に見える?いやいや、まだ序の口」
言いながら、蝶谷は札をくるくる回して笑った。
その笑い声が、いちばん怖かった。
「でもさ、強くならないと……ほんとに、死ぬから」
その言い方が、あまりに軽くて、逆にゾッとした。
“欲しい札”は、取りにいかなきゃいけない。
でも、"取ったら負け”って状況もある。
選ぶ札一枚で、生きるか沈むかが決まる。
蝶谷は、それを“ゲーム”じゃなくて
“訓練”みたいに俺に叩き込んでくる。
戦術。読み。誘導。
冷静に。合理的に。相手の呼吸を読め。
……花札って、こんなに息詰まるもんなのか?
ほんの一瞬、「今ここで息止めたら楽かも」って思った。
それくらい、張りつめてた。
◇
「……名取くん、最近ずっと手がこわばってるね」
蝶谷が、ぽつりと呟いた。
「っ、ああ……まあ。
癖、になったみたいだ」
札に触れてないときでも、手のひらが勝手にざらつきを探してしまう。
一週間。
気づけば、それくらいずっと、花札を打ち続けていた。
「ルールも、動きも、覚えたでしょ?」
「まあ、一応な。
見た目だけなら――もう“それっぽい”プレイヤーには、なれただろ?」
「でも、見た目だけじゃ勝てないよー?」
にこっと笑いながら、蝶谷は札をくるくる回して見せた。
「そりゃあ……分かってる」
分かってるんだ。ちゃんと。
“取られないように”しなきゃ。
札を取られたら、何か――自分の大事なものまで、奪われそうな気がして。
「名取くん、今日も顔が沈んでるよー?」
「そっちが沈めてきてんだろ……」
肩の力が抜けるような会話のはずなのに、どうしても笑えなかった。
手のひらが、じっと冷えている。
……怖い。
札を取られるのが、怖い。
間違えるのが、怖い。
――何より、自分が無力だって、また知らされるのが、いちばん怖かった。
そのとき。
頭の奥で、ふいに声が響いた。
――「先生」
「……え?」
口に出た自分の声に、自分で驚く。
誰かの声が聞こえた。確かに。
茶髪で、前髪が長くて、不器用そうな……そんなイメージが浮かぶ。
でも、名前は出てこない。
顔も思い出せない。
記憶喪失――そうだった。
なのに、その声だけが、やけに鮮明で。
胸の奥を、ズキッと刺してきた。
「名取くん?どしたの、急に黙って」
「……いや、なんでもない。ちょっと……妄想、だな」
蝶谷は首をかしげて、俺の顔を覗き込む。
――やめろよ。そんな顔で見るな。
記憶なんて戻ってなくても、分かるんだ。
また誰かを失うのかもしれないって。
舞台の真ん中で転んで、誰にも気づかれずに、ただ落ちていく。
……そんなの、もう嫌だ。
絶対に。
「強くならなきゃ」
思わず、口に出ていた。
「ん?なに?」
「……なんでもない」
札を打つ手が、また震えた。
◇
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