13. 霧島菜乃羽:蜘蛛の糸を諦めようと思ったら強引に引き上げられた
私は馬鹿だ。
大馬鹿だ。
中学二年生、霧島菜乃羽は何度後悔したか分からない。
きっかけはクラスのカーストトップの女子が家庭教師のイケメン大学生と付き合ったと吹聴したことだった。それが本当かどうかは不明だけれど、クラスの中で年上の男性と付き合うのがブームになり、友達が付き合い出したと次々と報告し始めた。
冷静に考えればその大半が嘘だと分かったはずだ。
高校生ならまだしも、大学生以上の男性が中学生の女の子と付き合うというのは、普通では無いと思われる傾向にあるからだ。
だがまだ中学生であり世の中を知らないこと、親世代から注意されても素直に受け入れられない年頃であること、大学生くらいの大人の男性に憧れを抱きやすい年頃であること、そして大人の男性と付き合っていることにより同級生から賞賛の眼で見られて承認欲求が満たされること。
様々な要因が重なって彼女達は嘘を重ね、中には本当に付き合うために行動してしまう人も出てしまう。
菜乃羽こそが、その行動してしまった人だった。
『菜乃羽はまだ付き合ってないの?』
クラスのカースト上位の女子にそう言われ、このままではクラスで浮いてしまうと焦った菜乃羽は最悪の手段を選んでしまった。
『中二女子、大学生の彼氏募集』
SNSを使って彼氏募集をしてしまったのだ。
その結果集まったのは気持ち悪いDMだらけ。メッセージの送り主が本当に大学生なのかも分からない。結果として彼女は失敗するはずだった。
だが残念ながら彼女は狡猾な蛇に狙われてしまった。
『こんにちは。僕は慶応大学の高見沢と言います』
それは動画だった。大学生かどうかは分からないが、若い男性が彼女に優しく語り掛ける。
SNSで彼氏を募集するのは危険だよ。
僕は本物の慶応学生だから安心して、ほら学生証だよ。
いきなり付き合うのではなくて、お互いを知るところから始めたい。
菜乃羽のことを心配して注意し、自分は本物の学生だと偽の学生証で証明し、がっつくのではなくゆっくりと進めようと大人の余裕を見せつける。
「きゃああああ!こんな素敵な人が付き合ってくれるなんて!」
あまりの幸運に菜乃羽は大興奮だった。これでクラスの中で浮くことが無い。そんな考えが吹き飛ぶくらいに、その男に一目惚れしてしまった。
高見沢との恋愛はゆっくりだった。
いきなり会うのは怖いだろうからとチャットでのやりとりがメインで、しかし文字だけのやりとりであっても菜乃羽のことを大切に想っている様子がひしひしと伝わってくる。
「ん~、素敵!」
大人の男性の包容力に、菜乃羽は毎晩のように高見沢のメッセージを見ながらベッドの上で悶えていた。
そのやりとりが半年くらい続くと、流石に菜乃羽も慣れて来て次のステップに進みたくなってきた。高見沢はそんな彼女の気持ちを察したのか、彼女にあることを要求して来た。
『そろそろ菜乃羽さんの顔が見たいな』
そのメッセージを見て菜乃羽は顔を青褪めた。半年以上もメッセージのやりとりをして、相手は顔出しをしてたっぷりと優しくしてくれたのに自分は顔すら見せていなかったことに気付いていなかったのだ。
慌てて菜乃羽は一時間かけて自撮り写真を用意し、高見沢に送付した。
『想像してた通り、とっても可愛いね』
そう言われるだけで天にも昇る気分だった。
大人の男性と付き合うというのはこんなにも幸せなことなんだ。
その幸福感が菜乃羽の感覚を麻痺させた。
それに写真を送付して己のことを曝け出してしまったことによりスイッチが入ってしまった。
高見沢から求められることが嬉しく、次々と写真を送るようになった。
可愛いポーズだけでなく時折少し恥ずかしいポーズの要請があるけれど、それもまた子供ではなく異性として求められている感じがして嬉しかった。
高見沢は言葉巧みに菜乃羽の心に入りこみ、彼女の理性に侵食する。
そしてついに致命的な写真を彼女は送ってしまうことになる。
下着姿の写真。
上半身だけではあるが、絶対に他人には見せられない秘密の写真を高見沢に送ってしまった。
それが地獄の始まりだった。
『あ~あ、送っちゃった』
「え?」
顔を真っ赤にして高見沢の反応を待っていたら、いつもの彼とは全く違う雰囲気の返事が来てベッドの上で戸惑ってしまう。
『菜乃羽ちゃん、これを送ったってことがどういうことか分かってるの?』
「え?え?」
高見沢が何を言っているのか分からない。
まるで別人に入れ替わったかのような違和感。
それと同時に感じる猛烈な危機感。
自分は何かとてつもない失敗をしてしまったのではないかと背筋が凍る。
『こればら撒いたら菜乃羽ちゃんの人生終わりだね』
「!?」
その瞬間、菜乃羽は夢から覚めた。
あの優しかった高見沢さんがどうして。
こんなの嘘だ、夢に違いない。
そう思いたいのに、スマホの画面からは高見沢の悪意が漏れている。それが現実だと突き付けるかのように、送ったばかりの菜乃羽の下着姿の写真が何度も送り返されてくる。
「いや……いやぁ!」
思わずスマホを放り投げてしまうが、通知音は消えてくれない。
学校での道徳の授業を思い出す。
SNSの使い方には注意しなければならない。
ネットにはあなたを騙そうとしている人がいる。
手の込んだビデオまで見せられた。
自分はそんな被害に会うことは無いだなんて軽く見ていた。
だが現実はどうだ。
こうも簡単に騙され、致命的な写真を送ってしまった。
『菜乃羽ちゃ~ん、見てる~?』
『そろそろ返事しないと、この写真バラまいちゃうかもよ~?』
『準備しちゃってま~す』
菜乃羽が震える手でスマホを拾うと、高見沢が写真をネットに公開しようとしていた。慌てて菜乃羽はそれを止めるようにメッセージを打とうとするが、踏みとどまった。
「ダメ……ここで言うことを聞いたらあのビデオと同じになっちゃう!」
学校で見せられたビデオはドラマ仕立てで、脅された女性が闇バイトの手伝いをさせられる羽目になっていた。恥ずかしい写真をばら撒かれる以上に人生が終わってしまう。そう思った菜乃羽は勇気を出した。
『高見沢さんがそんな人だったなんて幻滅です。好きにしてください。さようなら』
これで色々な意味で終わりだ。
高見沢との関係も、自分の人生も、何もかも。
おそらくはこの先、名前付きで自分の写真がネット上にバラまかれてしまうだろう。つい先ほどまでは天国に居たのに、いきなり地獄の底に突き落とされたかのような感覚だった。
だが悪意はそう簡単には彼女を逃がしてはくれない。
通知音がまだ消えてくれない。
高見沢をブロックしようと彼女はまたスマホを手に取ると、見てはいけないメッセージが飛び込んで来た。
『菜乃羽ちゃんの家族が傷つくかもしれないけど良いの?』
「な、なんで!?」
やらかしてしまったのは自分であり、苦しむのは自分だけのはず。
どうして家族が関係しているのか。
『自分の娘の恥ずかしい写真が拡散されただなんてショックだろうなぁ』
『悲しむのかな。それとも怒るのかな』
『あなたがちゃんと菜乃羽のことを見てないから!そういうのはお前の役目だろ!』
『離婚になっちゃって』
『お前が引き取れよ!あなたが引き取りなさいよ!』
『会社の人にも見つかって、辞めさせられるなんてことにもなったり』
「止めて!」
自分のせいで家族が崩壊してしまう。両親が苦しんでしまう。
それが本当に起こり得ることなのかどうか、若い彼女には分からない。
だが大人に言われてしまうと、そうではないかと思えてしまう。
ならどうする?
親に相談する?
言える訳が無い。
自分の恥ずかしい写真を男に送ってしまったけどどうすれば良いかなど、思春期真っただ中の女子が口に出来ることではない。
ゆえに彼女が取れる選択肢は一つしか無かった。
自分だけならまだしも、大切な家族までも苦しむと言われたら、地獄の更に奥底へと進むことしか出来なかった。
『どうすれば良いの?』
男の傀儡の誕生だった。
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菜乃羽にとって幸いだったのは、男が彼女の身体を求めなかったことだろう。
下着より過激な裸の写真を送らせることはあったが、それは脅迫を確固たるものにするためだけであり、決して手は出さなかった。
男がロリコンで無かったとしても、ロリコン相手に体を売れなんて命令をして稼がせようとしても不思議では無かった。それに一番心配していた闇バイトの命令も無かった。
では何故高見沢は菜乃羽を時間をかけてまで脅そうとしたのか。
実は本当は高見沢は菜乃羽を性的消費するつもりだった。
だがその前に一つ試したいことがあった。
FMOだ。
ネットの世界では様々なところで高見沢のような悪意が渦巻いている。サイバー警察はそれらを探し、下手したら見つかってしまうかもしれない。一方でFMOは安全なゲームであると有名である。全ての発言はAIで管理され、犯罪につながるようなキャラクターはすぐにBANされてしまうからだ。
それなら逆にFMOの中で隠れて悪事をしてみよう。まさかFMOの中で犯罪が行われているだなんて誰もが思わないだろう。未成熟な菜乃羽が男好みに成長するまで、まずはその実験の協力者になってもらおうと男は考えたのだった。
ある日、菜乃羽の家にFMOの端末が送られてきた。
『ラスレイという名前でキャラを作れ。職業はデュアルキャスターだ』
『ラスレイ?』
『裸の奴隷だ。お似合いだろ?』
あまりにも酷いキャラ名を強制されたが、反抗など出来るはずがない。
言われた通りにキャラを作り、言われた通りにゲームを進める。
『日課も忘れるなよ』
「っ!」
日課とは毎日必ず裸の写真を高見沢に送るというものだ。脅すだけならば一枚の写真だけで問題無いのだが、彼女の心を徹底的に折るために命じている。そしてその効果は絶大で、菜乃羽はそれをするたびに絶望に心が染まり、高見沢に心が縛られてしまっていた。
そして菜乃羽のキャラがそこそこ育ち、いざFMOを活用して誰かを陥れようかと高見沢が考えた時、その人物が登場した。
「へぇ、美少女JDの南城発喜ちゃんか」
菜乃羽とは違い女子大生。
しかも自称通りで美少女で、リアルと同じ姿のアバターであるらしい。
胡散臭い話だが、ゲーム内のアイテムを持ち帰れるという信じられない話を国が保証したということは、姿についても本当の可能性が高い。
つまり発喜を手に入れれば、その体を思うように堪能し、しかもゲーム内アイテムを持ち帰らせて大金に変えることも可能になるのだ。
菜乃羽を使って発喜を手に入れる。
『南城発喜に近づき、恥ずかしい写真を送らせろ。くれぐれもゲーム内でBANされるような発言をするなよ』
断れない菜乃羽は、言われた通りに発喜に近づいた。
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「(誰か助けて)」
何を命じられても断れない。
自分だけならまだしも、家庭が崩壊すると脅されたら従うしかない。
絶望のままに毎日を過ごしていた菜乃羽に、ついに致命的な指令が下った。
指令の内容は、自分と同じようにある女性を陥れろというもの。
「(そんなことやりたくない!)」
見ず知らずの相手だから気が楽だ、なんて考えられたらどれだけ楽だっただろうか。自分は我慢出来ても家族のことを想うとダメ。自分よりも他人の事を優先してしまう彼女だからこそ、他人を巻き込むことはあまりにも心苦しかった。
「(あ、あの人が発喜様)」
FMOの街中で発喜が配信をしている。その姿は菜乃羽の目から見ても確かに美少女で、しかもエリクサーをリアルに持ち帰り多くの人を助けた英雄だ。そんな人物をこれから自分が絶望に叩き落とそうとしていると考えると、それだけで気絶してしまいそうな気分だ。
「(う、うう……でもやらなきゃ……でも……)」
やりたくない。でもやらなければ大切な人達が破滅する。
絶望に塗りつぶされた心は彼女の身体を動かした。
「そ、それならオススメがあります!」
「え?」
FMOについて勉強するようにと指示があったため、菜乃羽はフォーチュンファイターについても詳しい。それに加えて信頼を得るための情報を男達から貰っている。それらを駆使して菜乃羽は必死に発喜を口説き、共に行動することを認められた。
「(や、やった……って喜んじゃダメ)」
成功したということは発喜を陥れるための一歩を踏み出してしまったということ。それは決して喜んで良いことではない。
喜びかけた自分を罰するかのように、菜乃羽は突撃鳥の攻撃を敢えて体で受け止めて発喜のフォローをしたのだった。
そこからの菜乃羽は驚きの連続だった。
「(え、あれ、私の情報が間違ってる?)」
何しろ発喜が魔物を倒すとほぼ必ずレアドロップを落とすのだ。発喜が言うようにレアドロップとノーマルドロップを間違えて覚えていたのではと混乱していた。
「(ネ、ネームド武器が出て来るとか意味分からないよ!)」
しかも見たことすらないネームド武器を入手したでは無いか。あまりにもありえない豪運に自分の使命を忘れて茫然とするしか無かった。
それらは確かに菜乃羽を動揺させた。
だが同時に楽しかった。
予期せぬことを起こして驚かせてくれる発喜が、これから何をしでかすのかをもっともっと見たくなった。彼女がゲームを楽しむ姿を永遠に堪能したい。
たった短時間で、菜乃羽は発喜のことを気に入ってしまった。
それゆえ肝心の話を更に切り出しにくくなってしまった。
だが悪魔は菜乃羽の躊躇を許してはくれない。
『いつまで遊んでるんだ。仕事しろ』
彼女には不定期に個チャが送られ、現実逃避を許さない。
「あ、あの、発喜様……」
菜乃羽が考えたのは、自分の身体がおかしいから発喜の身体と比べさせて欲しい。こんなことを相談できるのは発喜だけだ、というやり方だった。女性同士の相談ならBANされないだろうという予想の元のアイデアである。
「だ、だから発喜様。わ、私の乳首の写真を送るので変かどうか確認して貰えませんか!」
とんでもない相談をしてしまった。
あまりにも恥ずかしくて顔から火が吹き出そうだ。
「そ、それと……!」
だがそれよりも、この先を告げることが出来ない。
「(うう……言えない……言えないよぅ……これを言ったら発喜様は……)」
発喜は自分の相談を断らない。
なんとなくそういう予感があった。
つまり告げてしまえば彼女を地獄に引きずり込んでしまうことになる。
醜悪な男に良いように弄ばれてしまうことになる。
全ては自分のせい。
自分が年上の彼氏を求め、不用意にSNSで募集をかけ、優しそうというだけで疑いもせずに信じてしまったこと。
あまりにも愚かな選択が、目の前の発喜の人生をもぶち壊しにしようとしている。
そしてこれは悪女としての始まりでしかない。
「(ごめんなさい……ごめんなさい……)」
だが家族を人質にとられている以上、菜乃羽には引き返すという選択肢は選べない。ただ躊躇して時間をかけるだけ。その間にも男から何度も個チャが送られてくる。そしてついに彼女はその言葉を口にする。
「ひ、発喜様の乳首の写真も送ってくださいませんか。た、正しい色や形が知りたくて……」
言ってしまった。
自分の手で処刑ボタンを押してしまった。
「いいよ」
やはり発喜は予想通りに断らなかった。
このまま彼女は地獄の底へと連れていかれるのだろう。
彼女を陥れろと指示があった時から、菜乃羽はこの最悪の未来が見えていた。そしてその未来は変わらなかった。
いや、全てはそれよりも前、菜乃羽がSNSで彼氏を募集したあの時から、この未来が決まっていたのだろう。
どれほどの後悔も、どれほどの反省も、無に帰すほどの絶望。
それは唐突に終わりを迎えることになる。
「でも写真よりもっと良い方法があるよ」
「も、もっと良い方法?」
「うん、直で見せてあげる」
「!?」
発喜が想定外のことを言い出した。
写真ではなく直接会おう。
そして自分の身体を見せてあげる。
愚かな自分ですら高見沢とは距離を測りながら接していた。それなのに発喜は初対面の菜乃羽への距離をぐっと縮め、中身が女性かどうかも分からないのに会って体を見せるだなんて言ってくるでは無いか。
中学生でやらかしてしまった自分よりもネットリテラシーが低い。
あまりの衝撃で何がどうなっているのかと頭がぐわんぐわん揺さぶられているが、このままでは目的が達成できないことだけはすぐに理解した。男から命じられているのは恥ずかしい写真を撮らせること。直に会って確認しろとは言われていないからだ。この様子を男が見ていたら、むしろそっちの方が良いと言ったに違いない。改めて呼び出す手間が無く、隠れて写真を撮影して直後に嬲れるのだから。
「そ、そこまでしていただくわけには!」
「気にしないでよ。そっちの方がラスレイちゃんも安心出来るでしょ」
「た、確かにそうですが……ええと……その……」
どうにかして写真を撮らせようと説得したいが、言葉が出て来ない。会う勇気はまだ出ないとでも言えば良いのだが、その程度の案すら思いつかない。
そうこうしている間に、発喜は更に驚くべきことを口にする。
「それとも写真じゃないとダメな理由があるの?」
あまりの衝撃に、混乱していた頭が一気にクリアになった。
「(ま、まさか、ぜ、全部バレてたの?)」
これまで申し訳なくて発喜の顔を全く見れていなかった。驚いて反射的に見ると、彼女は『全部分かってるよ』と言いたげな慈愛に満ちた表情を浮かべているように見えた。
なお、それは菜乃羽の思い込みであり、他の人が見ていたらドヤ顔に見えただろう。
「おかしいと思ってたんだよね」
発喜は最初から菜乃羽のことを疑っていた。
自分の浅はかで幼稚な演技などとうにバレていた。
「も、申し訳ありませんでした!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
こうなったら謝る以外のことは出来ない。
男からの指示を達成できなくなるが、どちらにしろ発喜に通報されて破滅だ。
だがそんな破滅の未来など夢物語でしかない。
「顔を上げてラスレイちゃん」
「え?」
「やりたくてやった訳じゃないのでしょう?」
「…………」
発喜は菜乃羽を糾弾したい訳では無かった。
「ラスレイちゃんの申し出を私が受けると、いつもラスレイちゃんは辛そうな顔をしてたもの。それにここでの話だって、私にお願いする時に一番葛藤していた。本当は成功しないで欲しいって思ってたんでしょ?」
菜乃羽の苦悩と葛藤を察し、手を差し伸べるつもりだった。
「誰に脅されたの?」
「ラスレイちゃん。その人のところに案内して」
「ラスレイちゃんをこんなに困らせるだなんて許せない。私がガツンと言ってやるから!」
菜乃羽ではなく、菜乃羽を脅す男に対し憤慨し、彼女を救おうとしてくれるではないか。
「(そ、そんな、私なんかのためにどうしてそこまで……)」
嘘まみれの自分を、最低で価値など無い自分を、愚かとしか言いようがない自分を、何故彼女は会ったばかりだというのにそこまで肩入れしてくれるのだろうか。
「それにこのままだとラスレイちゃんが失敗したからって酷い目に遭うかもしれない。そんなの私は耐えられないもん」
「ひ……発喜様……」
これまで菜乃羽は発喜に救われた人であると演じていたため意識的に様付していた。
だが今回は自然と発喜様と呼んでしまった。
それほどまでに発喜の優しさが身と心に沁みてしまった。
すぐに相手を信じてしまうところ全く成長していないと言えばそれまでなのだが、今の彼女の状況でこれほどに優しい言葉をかけられたらコロっと靡いてしまうのは仕方ないことだろう。
発喜は男に会わせろという。そのことを男に個チャで伝えると、それならすぐに連れて来いと爆速で返事が来た。
「(こ、この状況も予想していたのかも。や、やっぱりあの人は危険すぎる。ひ、発喜様を連れて行くなんて出来ない)」
これまで抑圧されて消え去っていた勇気が蘇る。
歯向かえば自分の全裸の写真が社会に出てしまう。
しかもその中には過激な写真もいくつかある。
男が言うように家族が破滅してしまうかもしれない。
だがそれでも自分を守ろうとしてくれる発喜を危険には晒せない。
「(は、恥ずかしいけど、お父さんとお母さんに相談しよう)」
これまで出なかった勇気が、発喜を守るために生み出された。
菜乃羽はやはり他人の為に勇気を出せる人間だった。
それを利用して脅されたが、その脅しを乗り越えるのもまた同じ想いだった。
「さ、最悪私が我慢すれば良いだけですから」
「そんなのダメ!ラスレイちゃんは私が守る!」
「ど、どうしてそんなに私の事を……?」
だが勇気を出しても発喜は諦めてくれない。逃げてくれない。
男の危険さをもっと説明するべきだろうか。
だがそれをすると更に同情して頑なになってしまうかもしれない。
菜乃羽が悩んでいると、発喜は更に彼女を追撃して来た。
「なんでって、脅されてるなんて可哀想でしょ?」
「え?」
発喜は自分がどうなるかなどまったく考えていなかった。
菜乃羽の境遇に素直に同情し、彼女の為に怒り、行動しているだけ。
自分は悲劇を恐れてしまい恐怖に屈してしまった。
だが彼女は己の危険を顧みずに正しいと思うことを堂々とやろうとしている。
その在り方が美しく、尊く、そしてその想いの対象が自分であることが申し訳なくなると同時にとても嬉しかった。
「(ぜ、絶対にこの人を守らないと!)」
こんなに純粋に他人を想える人を汚してはならない。
穢れはすでに真っ黒な自分が引き受けるべきだ。
菜乃羽は最大限発喜の意向を汲みつつ、何かあったら絶対に彼女を守ると決意した。
「わ、分かりました。お、お連れします。で、でも危なかったら絶対に逃げてくださいね」
「は~い」
そして男が待ち受けている場所へ向かうと、なんと五人も男がいた。キャラ名からすると自分に指示を出していたのは中央の岩の上に座っている男だが、仲間が他にもいることを菜乃羽はこの時初めて知った。そして自分の裸がそれだけの男に見られているのだと思うと、あまりの恥ずかしさに顔が紅潮してしまう。
もしかしたら男は菜乃羽の反抗を予想していたのかもしれない。それゆえ仲間を呼んでプレッシャーをかけた。そしてその狙い通りに菜乃羽は男達に怯えて何も言い出すことが出来ない。
「ラスレイちゃんを解放しなさい!」
「あぁ?何言ってんだ?」
「貴方達がラスレイちゃんを脅して言うことを聞かせてるんでしょ!」
その代わりに威勢良く切り出したのは発喜だった。
「(ひ、発喜様、すごい!)」
男達に囲まれても動じることの無い発喜の姿に菜乃羽は勇気をもらった。再び折れそうになっていた心が蘇る。
「お前ら、この女が言ってること分かるか?」
「意味分からないッスね」
「ラスレイちゃんは自分から協力してくれてるんだぜ」
「ねぇ~ラ・ス・レ・イ・ちゃ~ん」
「ぎゃははは!」
ゆえに醜悪なプレッシャーをかけられようとも、勇気を振り絞って震える体を抑え込む。
「(こ、ここでビビってちゃダメ!が、頑張るって決めたでしょ!)」
歯を食いしばり、拳を握り、恐怖を振り払うかのように腹に力を入れて叫ぶ。
「ち、違います!」
だが男達は少し面食らっただけで、より激しいプレッシャーをかけようとしてくる。
「自分が何を言っているのか分かってるのかな?」
「そうそう、まさかアレのこと忘れてるわけじゃないよな」
「もしかしたら俺達、操作ミスって世界中にばらまいちゃうかもしれないぜ」
「そしたらラスレイちゃんの家族は終わりだね!」
中にはそれだけでBANされそうな際どい台詞を口にする人すらいる。
彼女をこれまで縛っていた家族の話題を使い、彼女を締め付ける鎖をより強固にしようとする。
しかし勇気を振り絞った菜乃羽には、その力任せの脅しは効果は無い。
己の破滅を覚悟しての行動なのだから、破滅を示唆しても意味が無くなったのだ。
「も、もうそんな脅しには屈しません!」
「だ~か~ら~、人聞きが悪いこと言わないでよ。君が自分から協力してくれてるんだよね?」
しかしリーダーの男は狡猾だった。
菜乃羽に言うことを聞かせたいのであれば、大切な人を脅しに使えば良いと知っている。
大切な人を危険に晒すと脅すのではなく、大切な人諸共解放してやるから従えという脅し。
「お前が俺達に協力したくないってんならそれで良い。俺達はもうお前にちょっかいを出さねーよ」
「え?」
「それに例のアレも消してやる」
「え?」
それはつまりこの地獄から解放されるということ。
蜘蛛の糸が垂らされ、それを掴めば元の世界へ戻してやるという甘い囁き。
「ただし条件がある」
「じょ、条件……」
「南城発喜。お前はラスレイから相談を受けたはずだ。それを受けろ。そしてラスレイは受け取ったブツを俺達に渡せ。そうしたら解放してやるよ」
だがその糸を掴んでしまえば、それと引き換えに発喜が地獄に落とされてしまう。
発喜を守るために勇気を出したのに、その発喜を犠牲に自分だけが助かるなど出来るはずが無い。
「そ、そんなこと出来るはずが!」
「そうか?会ったばかりの見ず知らずの女を差し出せばお前は楽になるんだぜ。こんな破格の条件は無いだろう」
男の言葉は正しい。
会って数時間しか経っていない他人を相手に、どうしてそこまで犠牲になろうとするのか。
せっかく助かるのだから、容赦なく切り捨てれば良い。
最初は後味が悪いかもしれないが、徐々に忘れて日常に戻ることが出来るに違いない。
地獄が終わる。
それはあまりにも甘くて甘くてあま~い言葉であり、菜乃羽の心を激しく揺さぶった。
「わ、わたしは……そ、そんなことは……」
悩むようなことではない。
そう思いたいのに、どうしても葛藤してしまう。
「(こ、こんなんだから私は騙されたのに。こ、こいつが約束を守るだなんて信じられないのに。ひ、発喜様を絶対に守りたいのに。ど、どうして抵抗できないの!)」
情けない。
悔しい。
恥ずかしい。
蜘蛛の糸を手放して発喜を守りたいのに、素直にそれを選べない。
こんなにも自分はダメでクズな人間だったのかと愕然とする。
だがその葛藤は決して責めるべきことではない。
確かに彼女はミスを犯した。だが、それを利用した男が一番の悪なのだ。
人の心を弄ぶ悪魔に誘われ、まだ成長途中の中学生が間違えたとしてもそれは当たり前のことである。
「ふざけないで!」
「ラスレイちゃんは貴方達の卑怯なやり方になんて屈しないもん!」
「(ひ、発喜様!)」
ゆえに大人達が彼女を守らなければならない。
今は発喜がその役目を果たしている。
大学生のお姉さんとして中学生の菜乃羽を守る。
すでに菜乃羽の心は発喜に救われていた。
「例の条件を呑め、南城発喜。そうすればラスレイを解放しよう」
「な!」
「お前は他人の不幸を見過ごせないタイプだろ。だからラスレイが何を考えようが関係ない。お前の判断次第でどうなるかが決まるだけだ」
「卑怯者!」
男はすでに菜乃羽ではなく発喜しか眼中にない。
それだけ価値がある女なのだから当然のことかもしれない。
そのこともまた菜乃羽に勇気を与えるものだった。
菜乃羽は蜘蛛の糸を手放す決断をした。
「ひ、発喜様。わ、私はどうなっても構いません!」
「そんなわけないでしょ!」
もちろんそんなことは発喜は許さない。
男は狡猾に発喜を陥れようとしてくる。
菜乃羽が家族を人質に取られたように、今度は菜乃羽を人質に取り脅そうとする。
優しい発喜はそれを切り捨てることが出来ない。
「そ、そんな……ど、どうすれば……こ、このままじゃ発喜様が……」
自分が我慢すれば全て解決すると思っていた。
それなのにそれが全く意味が無いと分からされてしまった。
菜乃羽が発喜に声をかけた時点で、男の狙いはほぼ達成していたことに気付き、自分はどこまでも駒でしか無かったのだと思い知らされた。
「くっくっくっ、さぁどうする南城発喜」
「くっ…………」
またしても菜乃羽の心が絶望で塗りつぶされそうになる。
「(ど、どうしたら……どうしたら良いの!)」
解決方法が思いつかず、まるで全身を男が生み出した蛇にぐるぐる巻きに絡まれているかのように動かせない。息が苦しく、少しでも気を抜いたら倒れてしまいそうな程の不安に襲われる。
「(か、神様お願いします。わ、私はどうなっても良いから発喜様だけは!)」
菜乃羽の願いは神に届かなかった。
何故ならこの状況はピンチでも何でも無かったのだから。
「もう良いわ。あんたたちみたいな悪人は私が成敗してやる!」
そこからの展開は全く意味が分からなかった。
「お、おい、俺を攻撃しても意味は無」
「うるさい。喰らえ!」
「ぎゃ!」
何故か発喜は男に攻撃をし、戦闘が始まってしまったのだ。
ゲーム内で男を倒したところで、状況は全く変わらない。それなのに発喜はまるでそれが正しいことかのようにはつらつと戦っているでは無いか。
「(ど、どうなってるの!?)」
分かるはずが無い。
発喜がこれをドッキリかクエストだと思っているだなど。
そしてそれに気づかないフリをして主人公ムーブの演技をしているだなど。
更には菜乃羽が脅されているなんてことは現実にはあり得ず、自分が危険に晒されているだなど思っても居なかっただなど。
「悪は滅びた!」
PKペナルティと謎のログアウトにより男達が消え、威勢の良い勝鬨を上げる発喜。だが菜乃羽はもちろん喜べない。
「ひ、発喜様……まだなにも終わってないです……」
落ち着いたところで今の状況を確認するために発喜に話しかけようとすると、更に不思議なことが起こった。
「発喜、無事か!?」
「これドッキリだったんだね!」
発喜の知り合いがやってきて、しかも発喜は今の状況をドッキリだと言うでは無いか。
「(ド、ドッキリ!?ど、どういうこと!?)」
むしろ自分の方がドッキリで騙されているような気分だった。
「あ、あの、発喜様、ドッキリじゃなくて私は本当に脅されて……」
「あはは、そんなことあるわけないでしょ」
「え?」
「ゲームの中で悪いことしている人がいるだなんて、そんなアニメみたいなこと現実では起きないんだよ」
「(お、起きてますよ!?)」
ここに来て菜乃羽はようやく発喜の考えを理解した。
女の子が男に脅されるだなどフィクションの中だけであり、自分はただイベントを楽しんでいるだけだったのだと。
まるで自分のこれまでの地獄を否定するかのような考え方。
これまでの苦しみなど存在しないと言われているようで、発喜に対する敬愛の心が反転し、怒りに変化してもおかしくない。
「(よ、良かった。ひ、発喜様が楽しそうで)」
だが菜乃羽は全くネガティブな気持ちを抱いていなかった。
「(ひ、発喜様はそれでも本気で私を心配してくれた。や、やっぱり素敵な人だ)」
ドッキリと思っていようがクエストかもしれないと思っていようが、菜乃羽にとっての発喜の言葉は本物だった。彼女が菜乃羽のことを本気で案じていることが伝わった。
恐らくは発喜が自分に危険は無いと思い込んでいたからこそ、菜乃羽を想うことだけに極振り出来たのだ。そして全力でイベントに乗ろうと考えていたからこそ、もしこれが本当に起きていることだったらと想定して本気の気持ちを沢山籠めた言葉を伝えることになったのだ。
それゆえ菜乃羽は発喜に感謝こそすれ、彼女の暴言を非難する気など起きなかった。
「マジかー、バレてたのかー!」
「え?え?」
そして菜乃羽にとって待ち望んでいた時がやってくる。
メイガスがこっそりと教えてくれたのだ。
『現実の奴らは全員捕まえた。お前の秘密も拡散させずに消去できるから安心しな』
最初は何を言われているのか分からなかった。
だが発喜が国から認められた凄い人だと言うことを思い出した時、メイガスの言葉の意味を理解する。
「わ……わたっ……私っ……!」
メイガスが優しく彼女の背中をポンポンと叩いて去って行く。その温かさが、自分が本当に地獄から解放されたのだと実感させてくれた。
発喜を守るために蜘蛛の糸を手放したつもりが、地獄に強引に手を突っ込み摘まんで引き上げられてしまった。
「うっ……ううっ……」
思いっきり号泣して感情のままに喜びたい。
だがそれは出来ない。
何故ならば背後には、これをドッキリだと思っている発喜がいるから。
彼女がこれをドッキリだと思い楽しい気持ちでいるのなら、号泣して不安にさせるなどあり得ない。
「ひ、発喜様……」
「ラスレイちゃん。大丈夫?」
もしかして本当はドッキリで無いと気付いて心配しているのではないか。
あるいはドッキリとはいえ悲しい役を担当して嫌な気分になっているのではと案じているのか。
正しいことは分からない。
でも彼女がやるべきことは分かっている。
「はい!」
菜乃羽は心からの屈託のない笑顔を浮かべ、快活に返事するのであった。
子供を騙して脅すなんてダメ、ゼッタイ!