婚約者に捨てられた夜、八歳年下の幼馴染にプロポーズされました。
二月の末。
私は幼馴染みの健人との婚姻届を提出した。
佐藤美緒あらため、高瀬美緒。
「ミオのことは僕が幸せにするからね」
健人は無邪気な笑みで私の手の甲にキスをする。
婚約者の氷堂一馬と結婚するはずだったのに、一緒にここにいる旦那様は、八つ下の幼馴染みだった。
昨日まで婚約していた一馬は、職場の同期だった。
昨年の春、一馬が新入社員横戸リンの教育係になり、急に連絡が減った。
と思ったら昨日の朝、会社裏の寂れた喫茶店に呼び出された。
なぜか話し合いの場に同席している横戸は、一馬の腕に自分の胸を押し当てながら微笑んでいる。
私が席に着くより早く、一馬が百万円の札束の入った封筒を投げつけてきた。
「俺、リンちゃんと結婚する。リンちゃんには俺が必要で、俺にもリンちゃんが必要なんだ。俺達のために、別れてくれるよな」
「ごめんなさい、佐藤先パーイ。あたし、一馬先輩のこと好きになっちゃって……優しくて、誠実に仕事を教えてくれるところに惹かれて」
私の目の前で甘々な雰囲気を出して見つめ合う二人。
誠実な人間は、入籍直前に婚約破棄しないから。
なんで私はこんな男と結婚するつもりだったんだ。
頭の中が一瞬で冷めきったからわからん。
捨てないでとか、考え直してなんて、ドラマみたいなセリフがでてこない。
なんで気づかなかったんだろうと、そんな気持ちでいっぱいだ。
なんとかしぼりだした言葉は我ながら馬鹿みたい。
「ああそう。私は私で幸せになるから、あんたたちもお幸せにね」
会社には数日体調不良で休むと連絡して、実家に帰った。
すると、隣の家の幼馴染み、高瀬健人が家から出てくるところだった。
健人のご両親は仕事が忙しい人だから、私はご両親に頼まれて、毎日のように健人のごはんを作っていた。
うちの親も仕事でいないことが多くて、二人で過ごす時間は癒やしの時間だった。
私を慕ってくれていて、たぶん健人からは姉みたいに思われている。
「どうしたの、ミオ姉。顔が真っ青。大丈夫? 具合悪いの?」
「あー……うん、そう、かも」
ほんわかした健人の顔を見たら、張り詰めていた糸が切れて、急に泣けてきた。
「え、ちょ、本当に具合悪いの? 救急車呼ぶ?」
「精神的なもんだから、医者はいらないよ」
「外だとなんだから、うちに入りなよ」
健人に手を引かれて、久しぶりに高瀬家のリビングにおじゃました。
温かなお茶を用意してくれて、ありがたくいただく。
ロングソファの隣に健人が座って、私を促す。
「なにかあったの」
「……婚約破棄された」
去年の今頃、結婚式は来年春頃にしようか、なんて言っていたのに。横戸が入社してきてから全部崩れてしまった。
積もった怒りや、さっきあったことを全部吐き出した。
たぶん混乱しているから時系列がめちゃくちゃで、言っていることを理解しづらかったと思う。
こんなの、多感な時期の高三男子に話すことじゃないのはわかっているのに、どうしても止まらなかった。
「もう、消えちゃいたい」
浮気しといて百万円で婚約をなかったことにしろなんて、ひどすぎる。
涙が止まらなくてしゃくりあげて、そんな私を健人が抱きしめた。
骨がきしんでしまうんじゃないかと思うくらいに強く。
初めて出会ったときはまだ小二で、私よりもずいぶんと背が低かった。お隣りに引っ越してきた可愛い男の子という感じだったのに。
その健人が私より背が高くなり、胸板も厚くなっていて、私を抱きしめている。
いつの間にこんなに大きくなっていたんだろう。
あたたかい。力強い。
安心する。
「どうすれば、ミオ姉は消えずにいられる?」
「え……」
「消えないでよ。大人になったらミオ姉にしてもらったこと、たくさん返したいって思っていたのに」
低い声で囁かれて、体が震えた。
たぶん私は捨てられてヤケクソになっていた。
「なら、私と結婚して。それで返して。できないでしょう。入籍直前で捨てられるような女だもん」
普通なら振られてヤケクソになった馬鹿の戯言なんて聞き流すし、人生損風に棒に振るなと叱るんだろう。
でも健人は私の目を見て笑う。
「うん。僕、もう十八才だから、結婚できるよ。結婚しよう、ミオ姉」
何を言われたのか理解するのに、だいぶ時間がかかった。
さっき自分が吐いたセリフも思い返して、自分の愚かさに絶望する。
いくらショックだったからって、いたいけな高校生相手に、私は何を言っているんだ。
「……け、健人。だめだよ、私、いまの撤回するか……」
言い終える前に、健人の唇が私の口を塞いだ。
ソファに倒れ込んで、背中を縫い止められる。
触れるだけみたいなかわいいものでなく、息ができない、熱いもの。
なにも考えられなくて、全部健人に持っていかれてしまう。
「僕は、十年前からずっと、こうしたかった。なのに、今更なしなんて、言わないで」
「健、人」
健人が八歳のとき、花で指輪を作ってくれたことがあった。
大人になったら結婚して、なんて。
こどものいうことだし、それを見ていた双方の両親も「小さい頃の初恋はかわいいもんだなあ」なんて笑っていた。
私達が気づいてないだけで、健人はあの頃から本気だったんだ。
「ミオ姉が去年ゴールデンウィークに帰ってきたとき、婚約者を連れてきたよね。父さんたちは祝福していたけど、僕はずっと、別れてしまえばいいって思っていたよ。あんなやつにミオ姉を幸せにできるわけないって思った。だってアイツ、ちゃんとミオ姉のこと見てないんだもん。でも、みんな祝福ムードの中でそんなこと言えなくて」
笑顔の中に、暗い光が混じっている。
健人にこんなにも熱い、強い気持ちを向けられて、胸の奥が疼いた。
振られてすぐ他の男に走るなんて、ただ傷を埋めたいだけにしか見えない、健人の好意を利用しているだけの不義理だと思う。
私を捨てたバカに、「あんたなんかいなくても幸せ、こんなに想ってくれる人がいる」って言ってやりたい復讐心もどこかにあった。
手を伸ばして、健人の口づけに答えた。
健人はもう、幼い子ではない。
自分の足で歩く立派な男性だ。繋がれた手は大きくて、私の手を簡単に覆ってしまう。
「ミオ姉と結婚できるなんて、最高のプレゼントだ」
「私にそんなこと言うの、健人くらいよ」
健人が心から幸せそうに笑う。
夜になり、私の両親と健人のご両親を交え、婚約破棄されたことを話した。
昼間に健人がきいてくれたおかげで、落ち着いて話すことができた。
話の内容が内容だから、我が家のリビングはお通夜のような暗いムードだ。
みんな、ヤツが他の女に手を出した上で婚約破棄したことに憤った。
とくに父さんは、今すぐにでも金属バットを担いで殴り込みに行きそうだ。
「おじさん。僕がミオ姉……美緒さんと結婚する。絶対悲しませたりしない。あんなやつのこと頭の片隅にすら残らないくらい幸せにするから」
健人に頭を下げられて、うちの両親はすごく驚いた。
「僕の気持ちは、初めて告白した十年前から変わっていないよ。あいつが「やっぱ浮気相手よりミオがいい」なんて馬鹿なこと言って戻ってきたら嫌だ。そんな隙与えたくない」
言われている当人だけど、隣で聞いていて恥ずかしい。
若いってすごいなあ。
父さんは私の意志も確認してくる。
「美緒はどうなんだ。健人くんはこう言ってくれているが、まだ彼に未練はあるかい」
「え、あ、ええと」
健人がこれだけはっきり好意を伝えてくれているのに、曖昧な言葉で返すわけにはいかない。
ちらりと隣に座る健人を見上げると、期待に満ち満ちた目で私を見ている。
何この可愛い生き物。
視線の熱さでとけてしまいそう。
出会ってから今日まで、思い返せば健人はまっすぐ私に向かってぶつかってきていた。
さっきの熱い口づけを思い出し、抱きしめられたときの安心感を思い出す。
ここでことわれば、普通に挨拶を交わすだけのご近所さんになってしまう。
そんなのは無理だ。
もう、ただの幼馴染みに戻れそうもない。
「…………うん。未練なんてない。健人の手を取るよ」
「ミオ姉。もっとこう、愛してる! 好き! って言葉ないかな」
ちょっと残念そうに口をとがらせる。
こちとら今日振られたばかりだよ。そんないきなり新カレ大好きなんてできるわけないじゃない。
健人のご両親、じつはとっくに健人の気持ちに気づいていたらしい。
私の婚約が決まったときの健人の落ち込みぷりは一週間寝込むレベルだったとか。
そんな長年の想いに気づかなくてごめん。
双方の親から幸せになれと言ってもらえて、私たちは婚姻届を出すことなった。
話し合いが終わり、私の部屋で二人で話をする。
昔はこのテーブルにノートを広げて健人の勉強を見てあげていたのに、今となりに座っている健人は明日から旦那様だ。
なんだか変な気持ち。
「健人、高三だよね。今日は家にいたけれど、学校行かなくて大丈夫なの?」
「あとは来週、卒業式に出れば終わりだよ。就職先は決まっているし」
「就職組なんだ。これから夫婦になろうというのに、それすらも知らなかった」
「これから知っていけばいいじゃない」
そっと手を握られる。
「キスしていい?」
「なんでそういうこと聞くの」
「もう子どもじゃないって、わからせたい。結婚だってできるし、その先も」
長い指が私の顎をとらえて、唇を奪う。
元婚約者とも口づけくらいしたことはあるのに、あんなお遊びとは比べ物にならない。
「僕、もう十八になるからわかるよ。隣に住んでいる赤の他人の面倒をみるなんて、そんなの嫌がる人ばかりだ。世の中の人って思うより冷たい。なのにミオ姉はいつだって笑顔で僕のご飯を作って一緒に食べて、勉強を見てくれて…………本当に大好きなんだ。一番最初に触れたのがあいつだっての、なんかヤダな」
「健人」
なんども口づけの雨が降ってくる。
「僕、仕事頑張って、初任給で指輪買うから。それまでは、これで」
健人は私の左手を取って、薬指に口づける。
「昼間みたいにあやふやにされたくないから、ちゃんと言うよ。ミオ姉……ミオ。僕の妻になって」
「……うん。ありがとう、健人。私の夫になって」
そして翌朝、役所が開くと同時に婚姻届を提出した。
昨日健人と会えなかったら、私は絶望して会社をやめて引きこもりになっていたかもしれない。
どうしてすぐ隣にこんないい男がいるのに、わからなかったんだろう。馬鹿だな、私。
役所を出て、相思相愛の恋人同士みたいに手を繋いで歩く。
昨日までただの幼馴染みだったのに。いや、婚姻届を出したからもう夫婦だけど、だけどまだ頭はそうかんたんについてこない。
健人は、まるで宝探しでもしているかのような顔で不動産屋の窓に張り出された新着物件リストを眺める。
「卒業式が終わったら、四年くらい二人で生活したいな」
「…………四年?」
何が言いたいのか、察した。
「いつかは親になりたいけど、数年はミオと二人きりでいちゃいちゃしたい」
「健人、いつからこんな破廉恥なこという子になっちゃったの。私の知るあなたは控えめな子だったんだけど」
「あえて言わないだけで、ずっと思ってたよ? ミオにキスしたいなあとか、触りたいなあとか」
高校では女の子がバレンタインチョコを持ってくることもあったのに、全部断っていたらしい。好きな人以外のは受け取らないと言って。高瀬のおばさんから聞いた。あ、今日からはお義母さんか。
嬉しいと恥ずかしいが同居している。
顔が熱くて、握られた手が汗ばむ。
「ミオ。明日から仕事復帰だったね。大丈夫? あいつと同じ職場……」
「同じ部署だけど、大丈夫。健人のおかげで私、あいつに会っても落ち込まずにいられる」
こんなにも私を想ってくれる旦那様がいるのだから、私を捨てた男のことなんて、どうでもいい。
部署に入って、まずみんなに休んだことを謝罪して回る。
みんなから向けられる眼差しは……心配? 体調不良への心配ではないような。
「お休みを頂いてすみませんでした」
「佐藤さん、大丈夫なの? あいつらの顔見るの辛いんじゃ」
まるで婚約破棄された一部始終を知っているかのような言い方だ。
「……ええと、状況説明をお願いできますか」
飯名先輩いわく。
私が休んだのをいいことに、一馬と横戸は部署に入るなり「佐藤と婚約破棄して本当に愛する人と結婚しまーす(はあと)、リンちゃんは寿退社しますぅ」宣言をかましたらしい。
二人の頭には、花畑の中で結婚式でも上げるハッピーエンドな光景が展開されていたのかしら。
みんなから祝福してもらえると本気で思っていたんだとしたらおめでたすぎる。
私と結婚する準備を進めていたのは部署のみんなが知っている。
だから当然、部署の人間は「こいつら何言ってんだ?」という反応。
一馬と横戸は社会人であるまえに人としてありえん! と部長に説教を食らったらしい。
結婚式場の予約をまだしていなかったのが救いよ。
キャンセル料って高いから。
一馬は自分の席で青い顔で小さくなっている。ちらちらこっちを見るな元婚約者。
一馬の隣の席……リンがいないのは、寿退社ではなさそうだ。
「佐藤さん、辛いならもう少し休んでいていいのよ」
「大丈夫です。遅れを取り戻さないといけませんから」
自分の席についてパソコンを立ち上げると、一馬がやってきた。
あんなこと言っといて、よく話しかけてこられるなぁ……。
「な、なあ、美緒。リンちゃんとは別れるから……その、やりなおしてくれないか」
「業務以外で話しかけないでいただけますか、氷堂さん。それに、名前で呼ばれるような関係ではないので呼び捨てはやめていただけませんか」
「頼むよ美緒。ちょっと飲み会のあとホテルに誘われて……わかるだろ。男なら酔った勢いでやっちまうことくらいあるって。な? 美緒に許してもらえないと……このままじゃ左遷されちまうんだ」
「知らんわ。どこへでも飛んでいけボケナス」
酔った勢いでいたしただけだから許せって、一昨日とだいぶ違うことを言っているな。
俺にはリンちゃんしかいないしリンちゃんにも俺しかいない! だろ。
仮に酔った勢いが本当だとして、酔うたびに他の女とホテルに入る男と結婚できる女が、この世にいるだろうか。
パソコンから目を離さず一馬……いや、氷堂に返答すると、そこかしこから忍び笑いが聞こえてきた。
氷堂は顔をひきつらせたまま自分の席に戻っていった。
それからすぐに私のスマホにピコピコ通知が入る。消音しているけど画面に通知は出る。
メッセージアプリの通知が10件、20件。
悪かった。許せ。やり直してやる。またお前の作るナポリタンを食べたい。etc。
一馬にナポリタンを作ってやったことは一度もない。
たぶんそれ、リンちゃんでしょ。
そっとブロックボタンを押して仕事を続ける。
昼休みを静かに過ごせるわけもなく、また席に来た。
「なんで既読にならないんだよ。機嫌直せって、な。いまどきツンデレは流行らないぞ」
「なんで仕事中にメッセージアプリで遊んでいるんですか」
私の隣にいる飯名先輩も白い目だ。
「なんで堂々と浮気して、佐藤さんとよりを戻せると思っているの。わたし、旦那にそんなことされたら秒で離婚するわ」
「うぐ」
自分の席に戻っていったけど、昼休憩中ずっと恨めしそうな目でこっちを見ているから、食べにくいことこの上なかった。外に食べに出たら出たで店についてきそうだし、嫌だな。
みんなに婚約破棄のことで同情されたけれど、健人のおかげで氷堂と対峙した割にダメージがない。
帰ったら笑顔で迎えてくれるとわかるから、しんどくても大丈夫。
仕事が終わって片付けをしていると、健人からメッセージが入った。
『迎えに行っていい? ひどいめにあってないか心配』
なんて心配性な。だめと言っても来てしまいそうだ。
そういえば子どもの頃から、健人はけっこうな心配症だった。
私が風邪を引いて熱を出したときは、伝染ったら困るから会いにこないよう言っておいたのに、お見舞いのお菓子を持って何度も会いに来た。
結局伝染っていたから世話が焼ける。
『大丈夫。家で待ってて』
メッセージを返して会社を出ると、氷堂が待ち構えていた。
「遅かったな美緒。部署では気まずくて「本当はまだ一馬を愛してるわ!」って言えなかっただけだろう。俺はわかってるよ。二年付き合っていたんだから、お前のことなんでも知ってる。ほら、婚姻届持ってきてやったから、今から出しに行こうぜ」
氷堂が見せつけてきた婚姻届は、私の署名以外は埋め終わっていた。
こいつの浮気を知る前で、手切れ金を渡される前の私だったら、もしかしたら喜んでサインしていたのかもしれない。
そう思うと薄ら寒い。
恋は盲目っていうけれど、私はこの男のこういう、身勝手なところが見えていなかったんだ。
迷っているとき引っ張っていってくれて男らしいとか思っていたのかな。
恋情が冷めた今となっては謎だ。
「そこはリンちゃんの名前を書くところでしょう」
「もう別れたんだって。美緒と仲直りして結婚したってわかれば、部長も左遷を考え直してくれる」
やっぱり、求婚の本当の目的は保身か。
「今はあんたのことゴキブリより嫌いなの。もう話しかけないで」
「そんな嘘いいから。俺の気を引きたいだけだろ。いやよいやよも好きのうちっていうもんな」
「話しかけるなって言ってるのよ!」
意味がわからない。
日本語で会話しているはずなのに、話が成立しない。
手首を掴まれて、叫びそうになった。
「ミオ!」
耳慣れた声が聞こえてきて、氷堂の手を叩き落とした。
健人が私の肩を抱き寄せる。
「健人」
「迎えに来たよ。早く帰ろ。母さんがごちそう作って待ってるから」
「……うん、ありがとう」
優しい笑顔を見て、安心した。
最初から健人に迎えに来てもらえばよかった。
「待て、美緒は俺と話していたんだぞ」
「元婚約者さん。僕の奥さんに変な絡み方しないでください。日本で重婚は禁止って知らないの?」
「は!? 奥さん? 重婚? ばかいうな。子どもが大人と結婚できるわけないだろ」
氷堂は生まれて初めて聞く単語を聞いたように声を上ずらせた。
「昨日籍を入れたから、僕とミオは法の上でも夫婦。だから諦めてね、元婚約者さん」
「そんな、うそだ、俺と結婚する予定だったのに。もう他の男がいるなんて」
自分から婚約破棄したことを棚に上げて、まだすがってくる。
「婚約中に後輩と恋仲になっていたあんたがそれをいうなんて、おかしな話ね。さよなら、氷堂さん。私は健人と幸せになるから、あなたもリンちゃんとお幸せにね」
今度こそ振り払って、健人と手を取り合って歩き出す。
「ありがとう、健人。私、最初から健人と婚約していたらこんな遠回りしなくて済んだのにね」
「そうだよ。僕は十年前からミオひとすじなんだから。結婚できる年齢になってよかった。だって堂々と、ミオは僕のだって言えるんだもの」
健人が小さかった頃のように、手を繋いで帰る。
でもあの頃とは違う。
今の私達は夫婦。
繋いだ手が温かくてこそばゆい。
氷堂はプライドが傷ついたのか、翌月に自主退職した。
横戸は「あたしと結婚するって言ったじゃない!」と怒り、氷堂を追いかけて辞めていった。
その後のことは知らない。
あれから三年。
私と健人は実家からほど近い場所にマンションを借りて、二人で暮らしている。
社会人三年目で二十を過ぎたというのに、帰ってくると子どもみたいなことをいう。
「ただいま、ミオー! おかえりのチューをちょうだい」
「おかえり、健人。お仕事お疲れ様」
「おかえりなさいのハグも!」
いってらっしゃいとおかえりなさいのキスをねだる可愛い旦那様と、私は今日も幸せに暮らしている。
END




