悲しみに暮れて 中編
小学3年生の姉と幼稚園児の弟が一緒にお風呂に入る。
何もおかしなところはない。
おかしなところはないが、何となく胸が騒つくのは、こうして一緒に入浴するのがかれこれ1年振りだからだろうか。
それとも姉さんの体が少しずつ"女"になってきているからだろうか。
「両方…だな。」
「ん?」
「あぁいや、何でもないよ。」
俺の目の前に座っている姉さんが独り言に反応して振り返るが、俺が首を振ると素直に向き直った。
俺はいま、姉さんの髪をシャンプーで洗っている。
「姉さん、痒いところない?」
「ん。」
「気持ち良い?」
「ん。」
全く同じ言葉だが、声音で大体何が言いたいのかわかる。
凛で鍛えた俺の洗髪スキルはなかなかのものであるようだ。
鏡に映る姉さんは泡が目に入らないよう瞑っているが、気持ち良さそうに頬を緩めていた。
「………よし、流すよ姉さん。」
「ん。」
「ふぅ……」
「あ"ぁ"……気持ち良いね、姉さん。」
2人で浴槽に浸かる。
さっきも凛と入ったが、風呂は何度入っても良いものだ。
「………ユウ、ジジ臭い。」
「うっ!?」
グサッときた。
数日前に凛と一緒に入った時も笑われたのを忘れていた。
精神的には大人なのに、学習しない奴だ。
「………ん。」
内心で落ち込んでいると、後ろから姉さんが俺の首に手を回してきた。
俗に言うあすなろ抱きというやつだが、それするなら立場逆じゃない?
……いや、色んな意味で幼稚園児じゃ駄目か。
「…どうしたの、姉さん?」
「……ユウは…大丈夫…?」
「………僕は、大丈夫だよ。」
"何が?"とは聞かなかった。
「姉さんは?」
「大丈夫。」
「嘘だね。」
「…………うん。」
姉さんが俺の首裏に顔を埋める。
熱い吐息が、震えているような気がした。
「…僕がいるよ。」
姉さんの腕に力が入る。
ぎゅっと抱き締められた。
「でも……私、お姉ちゃんだから……」
今にも泣きそうな声を絞り出す。
回された手から、姉さんの苦しみが伝わってきているようであった。
「関係ないよ。僕が姉さんを守る。母さんも、凛も、これからは僕が必ず守ってみせる。」
「っ……なん…でっ…?」
「男の子だから。」
「………?」
「僕は男の子だから、守りたいものができたら守らなきゃいけないんだ。父さんが、そう言ってた。」
本当はそんなの言われた事ないが、家族を安心させる為だ。
父さんもきっと許してくれるはず。
「僕は姉さん達を守りたい。父さんがいなくなったから、その代わりとかじゃなくて……僕自身が、皆を守りたいと感じているんだ。」
「何で…そんなに……強い、の?」
「……強くなんてないよ。」
俺は、涙を堪えて笑みを浮かべた。
「強くなんてない。でも、それでも前を向かなくちゃ。じゃないと、きっと父さんは天国に行けないから。」
「っ!」
姉さんが息を飲んだ。
「父さんは死んじゃった。それはもう変えられない事。だから僕にできる事は、父さんが安心して天国に行けるよう、頼り甲斐のある姿を見せる事だよ。」
「………やっぱり、ユウは強いよ。」
「そうかな。」
「私は…そんな風に、思えない。」
俺の首を、温かな滴が伝った。
「お父さんと話したい。おかえりって言いたい。ありがとうって言いたい。宿題とかテストとか褒めてほしい。ピアノも褒めてほしい。遊園地に行きたい。動物園にも行きたい。お父さんに……お父さんに、会いたい………会いたいの……」
「うん……うん…」
「学校も楽しくない…!ピアノも楽しくない…!私……もう、頑張れない……」
「そっか……」
姉さんの手をぎゅっと掴む。
そして優しく腕を離させた。
姉さんが悲しげに息を飲む。
「姉さん……姉さんも、強いよ。」
「え……?」
「こうして自分をさらけ出して、ちゃんと父さんの死を悲しむ事ができて、それでもお姉ちゃんとして強くあろうと頑張って……そんな姉さんが、強くないはずがないよ。」
「ユウ……」
「大丈夫…姉さんの強さは、誰よりも僕が知ってるよ。でも、それでも自信を持てないなら………」
浴槽の中で膝立ちになり、姉さんに向き直る。
姉さんは目を赤くして唇をきゅっと絞めていた。
俺は姉さんの頭に手を置き、いつものように笑った。
「僕が支えるよ。」
「っ!!」
「守るだけじゃなくて、支える。僕が姉さんを褒める。僕が一緒に遊ぶ。姉さんが自分の強さを知るその時まで、僕が姉さんと一緒にいる。」
「ユウ…でも……」
「姉さんが姉さんを信じられないなら、僕が姉さんを信じる。だから姉さんは僕を信じて。必ず、姉さんを支えてみせるから。」
「ユウ………」
「ずっと我慢してたよね。もう、大丈夫だよ。これからは僕がいるから。」
「っ!!……ユウ……ユウ!!」
姉さんが抱きついてきた。
強く、強く、その体を抱きしめ返す。
「お父さんが死んじゃって…!お母さんも苦しそうで…!私、お姉ちゃんなのに…!ユウとリンのために頑張らないといけないのにっ……!!」
「姉さんは頑張ったよ。いっぱいいっぱい、頑張った。」
「う、うぅ……うぇぇぇぇぇぇん…!!」
泣き叫ぶ姉さんを抱きしめ、溜まった悲しみを全て吐き出すまで、俺は彼女の頭を撫で続けていた。
俺まで泣いてしまっては姉さんが心配してしまう。
だから俺は、血が出そうなくらい唇を噛み締めて、涙を堪えていた。




