ずっと前に書いた あれやこれや
信じるとはなんぞや?
「信じていたのに裏切られた!」などというセリフをよく耳にしますが、私からすればそれは「相手が自分の期待通りに動く」と思っていたの間違いである。
信じるというのは、不確定な要素だからこそ信じるのであり、確定してる事を人は信じない。ただ知っているだけである。
天秤は重い方へ傾く事も、物が地面に吸い寄せられるのも、人がいつか死ぬことも知ってはいるが、信じてはいない。
ネトゲの世界というのはとにかく、見えないものが多すぎてただ信じるしかない事が多すぎるような気もする。それに裏切られて疲れないようにするには、「期待した通りにならなくてもまあいいや~」と妥協する気持ちが大事であると、
「嘘でもまあいいや」と思える気持ちがこそがストレスを減らす最大の武器ではないだろうか…と、私は常々思っております。
個性とはなんぞや? と考える時があります
このネット世界に来てからどれぐらいでしょうか、それなりに長いですが色々と悩む事も多いです。特に悩むのは個性についてでしょうか。
昨今の社会に求められるのはいつも既存の考えを打ち破る独自性のあるアイディアにあると言えます。しかし…
昔の哲学書曰く、人は沢山の人と接すれば接するほどに独自性を失うと言います。つまりは、数十人から変と言われても突っぱねるけど、ネットで数万単位で否定されてまで独自性を維持するのは困難であると。
最後は孤立するか、それとも同化するかの2択な訳だが…孤立した人間はまず表で発言しないだろうから、表面的には同化した人間だけが発言し、世の中の全てであるように見えるというのは、世の常なのでしょうかね…
国民の思考の一致化は一枚岩になりやすい特徴がありますが、少数派の淘汰、独自性のある突飛な発想の喪失。これがネットの力なのですかね?
人に迷惑をかけない限りは、様々な考えがあっても良いと思いますね~
怒りと恨みとは何ぞや?
この「なんぞや?」シリーズもついに? 連続で三回目
どこまで続くかは気分次第ですが、やっていきましょう~
本文はネトゲのしすぎでノイローゼになったしまった方にも見ていただきたい文である。
怒りとはつまり、たまってしまった鬱憤の爆発する感情である。
恨みとはつまり、その溜まった鬱憤をさす言葉でもある。
故に人は怒りを適度に出して、アホな形で恨みが爆発しないように発散する。そのテクニックが上手な人を人は大人と呼ぶ。
スポーツでもイイ、料理でもイイ、相手に適度に抗議するでもいい。下手な感情爆発をしないように心がければ、人は人を恨まないで済む。
現代の人は相手に怒ったり、意見したりする事にすごく臆病になってる気がします。
波風を立てない為にはそれが良いのですが、恨みをため込まないように、安全な形で発散する方法を知らないなら、さっさと怒った方が良いでしょう。
そして怒ったらちゃんと「相手の言い分」を聞いて、互いに気持ちをスッキリさせる事が大事です。
昔はオヤジといえば恐怖の対象で怖い存在ではありましたが、怒られても誰も恨んではいませんでしたね? それは相手からちゃんと愛情を感じていたからだと思います。意見するにはまず、相手への愛情を示すと波風が立たなくなります。
幸せとは何ぞや?
何ぞやシリーズもめでたく?四回目になります。今回は今までと少し趣旨を変えて書いてみようかと思います。
人にとって幸せの形とは様々でありますが、長くなると駄文になるので一言で申せばそれは、自分らしく生きれる事に尽きる。
少なくとも、お金を払ってまでやってるゲーム世界は、付き合いでしたくもないコンテンツに付き合ったりする為でも、ロマン装備や職業で挑んで周りからバカにされる為でもない。周りよりも上達が遅いからとへこむ為にある訳でもない。
現実の仕事や学校がキツイ分、ネットゲーム世界ぐらい己の好きにプレイしてみたい。(もちろん、他人が迷惑にならない範囲ではあるが)
仕事でもネットゲーム世界でもキツイと言う人が多いからこそ、そういった自由な事の範囲を模索し実行する事が、幸せであると思う。