『幹部』
今年の夏は夜になっても30℃を下回らない。きっと冷房器具が故障した、美咲や彼女の家族たちは今頃苦しんでいるだろう。いくら今日購入した冷却シートや氷枕があっても眠れるかどうか……その証拠に、いつもなら頻繁に送ってこられる小説メールが一切来なくなった。そりゃ小説など書いている場合ではないからな。美咲たちが熱中症にならないことを祈っている。さてと、俺は何をするかな。コンビニバイトは明日だし、いつものように動画でも観るか。
お。美咲専用のメール受信音だ。とにかく無事を確認。俺はすぐさまメールを開いた。
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件名:『幹部』
「お前はクビだ!」
ある企業の幹部が指示を出した。突然のことで動転していたが、良い就職先を見つけた。そう! そこは最も重要な役割を担っている機関であった。そこで幹部になった。だが、なかなか事業が上手くいかない。
「頭にきたぞ!」
一人の平社員が怒っている。そうだ!
「今こそクールジャパンのときだ!」
今までのブラック企業の体制から足を洗って、心頭を滅却すれば火もまた涼し。しかし、それからしばらくして企業は倒産した。ぱたり。
――完――
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……美咲の小説が妙に凝りすぎて感想に困る……というより、最後の「ぱたり」は彼女が倒れたという表現なのか。なら大変だ。俺は急いで彼女に電話をかけた。発信音が5回以上鳴ってから出る美咲。スマホ越しに聴こえる声は小さく、何を言っているのかわからなかった。
「大丈夫ですか! 聴こえます? 美咲さん!」
「……患部に氷枕と冷却シートが行き渡る……」
「美咲さん、しっかりしてください。患部の意味間違ってます」
「……え」
患部は傷口や病気のある部分のことだ。決して頚動脈のある部位のことではない。あぁそのようなことを間違えてしまうほど彼女が疲弊している。何とかしてやりたいが、どうすることもできない。
「平社員は怒りながらも頑張っている……」
「え?」
確か彼女の小説には「頭にきたぞ!」と書いてあった。ということは平社員とは平らな冷却シートのことか。いつも以上にわかりにくい例えだ。俺は美咲の意識が飛ばないように長い時間通話し続けた。同じ携帯会社のスマホなので通話料はかからない。段々彼女が元気になっていくのと比例してバッテリーが擦り減っていく。不謹慎だが俺は美咲と長く話せて嬉しかった。充電器を挿しての通話。小説メールもいいが、たまにはこういう普通のコミュニケーションも取りたい。
通話は俺の両親が帰って来る時間まで続いた。美咲は温くなった氷枕を取り替えると言って通話を切った。俺は冷房の効いた部屋から出て、帰ってきた両親に日頃の感謝を述べた。
「遅くなったわね。はい、これ夜ご飯」
母さんがコンビニの袋を俺に差し出す。中には、いくらと鮭のふっくらおにぎりと電子レンジで温める麻婆豆腐が入っていた。
「仁司。ちゃんと勉強しているか」
父さんがネクタイを解きながら俺に尋ねる。俺は冷蔵庫から麦茶を出してコンビニ飯を食べながら大学での生活についていろいろ話した。まだ美咲のことは内緒だ。しかし、母さんはどこか感ずいているようで俺に彼女が居ないのかと執拗に尋ねてきた。
「……もう寝てくる! 父さんも母さんも熱中症に気を付けろよ!」
俺は逃げるように自室へと向かった。クスクスと両親の笑い声が聴こえる。バレたか。でもいつかは正式に紹介する事になるだろう……そうであって欲しい。とりあえず今日はもう寝よう。明日はコンビニバイトが入っている。あぁ嫌だな。近藤という男とはどうも馬が合わない。また嫌味を言われに行くのか。憂鬱だ……