二人の少年(前編)
ジェイコブは朝5時半に起きた。外はまだ薄暗い。
5月の中旬ではあるが早朝のロンドンはまだ肌寒く、ジェイコブは黒色の上着を一枚羽織り、お気に入りのハンチング帽を被ると外へ出た。
ジェイコブの家はドーセット・ストリートの端にあり、外は治安のいい場所ではない。
昼間でも薄暗く、不衛生なこの路地では一週間に1度は事件が起きている。13歳のジェイコブが暮らすにはお世辞にもいい場所とは言えないが仕方がない。ジェイコブの父親はジェイコブがまだ2歳の時にロシアからイギリスへ亡命してきて、たどり着いたのがこのロンドンだった。父親は船の修理の仕事に就いているが収入は少ない。
母親は妹のアセルを生んですぐに感染症にかかり死んでしまった。もう5年前になる。
コヴェント・ガーデン市場に到着する頃には少し空が明るくなってきている。
友達のリンキーはすでに仕事をしていた。リンキーの年齢はジェイコブの一つ下だがこの仕事で知り合い仲良くなった。
ストランドに近いこの市場は、早朝から朝10時まで荷物や人が従来している。ジェイコブは幼児が入れるくらいの大きな麦袋が10段ほど積まれている側に立っているリンキーに近付く。
「おはようリンキー。今日は僕より早いな」
ジェイコブは決して遅刻したわけではないが、普段から遅れて来るリンキーが自分より早く仕事をしていたのは珍しかった。
「早く目が覚めちゃってさ。寝れなくなったから早めに来たんだ」
汚れた手で触ったのだろう。リンキーの頬にはすでに茶黒い汚れが付いている。
きっと1時間もすれば自分も同じ顔になる。
ジェイコブは気にせず雇い主のハドルフの元へ向かった。
ハドルフは麦商人だ。朝一番に荷台で大量の麦を持ってくるとそれを市場の一角に並べ、客に売り出す。客は中流階級からレストランの買い出し人、一般市民など様々だ。ジェイコブとリンキーは麦を荷台から下ろす作業を手伝っている。
「ハドルフさん、おはようございます」
ジェイコブは木で出来た折り畳みの簡易カウンターで客引きをしているハドルフに挨拶した。
「今日も沢山あるからさっさと運べ!」
ハドルフはジェイコブにキツく言った。ハドルフは決して悪い人間ではなかったが常にリンキーやジェイコブに厳しかった。
ジェイコブもいい気持ちはしていなかったが仕事のため文句は言えない。この日もすぐ仕事に入る。
「アセルは元気か?」
麦袋を運びながらリンキーがジェイコブに話しかけた。
「あぁ。体調は少しずつ良くなって来てるけど、まだ病院には行けてないんだ」
ジェイコブは言った。
アセルはロシアでは[蜂蜜]や[夕暮れ]という意味の名前だ。アセルは体が弱く、よく体調を崩していた。
4日前にも熱が出てずっと寝込んでいる。医者に診てもらいたいが診察代が高く、今の収入では診てもらえずにいた。
「そうか。ちょっといい話があるんだが聞く気はないか?」
リンキーは持っていた麦袋を置くとジェイコブに言った。
「何だい?唐突に」
ジェイコブはそう言うと、次の麦袋に手をかけたところで一度動きを止めた。
リンキーは、ジェイコブとの間合いを詰めると耳元で囁く。
「ちょっと危険な仕事だけど今の何倍も稼げるぞ?」
リンキーは言い終わるとニヤリと笑みを浮かべた。
「危険って死ぬかもって事か?」
ジェイコブはリンキーを見た。
「場合によってはね。でも心配ないよ」
リンキーは揚々と言った。
「どんな仕事?」
ジェイコブは聞いた。
「人の家に忍び込んで物を盗む。簡単な仕事さ」
リンキーは平然とした態度で言った。
ジェイコブが驚き叫びそうになると、リンキーが素早く口を手で押さえた。
「静かに!ハドルフさんに怒られるぞ!」
リンキーは静かに力強く言った。
それを聞いたジェイコブは頷き、冷静さを取り戻した。
リンキーは、そっと押さえていた手を離した。
「僕は妹がいるからそんなリスクは負えないよ」
ジェイコブは言った。
「最近また話が来てさ。相方が必要なんだよ。一回の仕事で妹の診察代が稼げるぞ?」
リンキーの誘惑でジェイコブの心が揺れる。
診察代は一回で1シリングは必要だ。場合によってはもっと必要になる。ジェイコブと父親の収入を足しても貯まるのに3週間以上はかかる金額だ。ジェイコブは黙ったまま考えた。
「何サボってんだ!仕事しろ!ガキども!」
ハドルフの怒鳴り声が動きの止まっている二人に飛ぶ。
二人は焦って麦袋運びを再開した。
麦袋運びが終わったのは9時半を回った頃だった。リンキーとジェイコブはハドルフから駄賃を貰うとマッドラークへ向かった。
マッドラークはテムズ川の汚泥に入り、物品を回収し専門業者に売る仕事だ。正直、仕事と呼べるかはわからないがジェイコブやリンキーの様な貧困層の少年にとっては立派な収入源のひとつだ。
テムズ川に着くと既に多くの子供達がテムズ川に入っている。二人は早速ズボンの裾を膝上まで間繰り上げ、靴を脱ぎ、浅瀬に入った。足首までテムズ川の泥に埋まる。この感触は何度やっても気持ちのいいものではない。
ジェイコブは泥の中に手を突っ込み手探りで物品を探し始める。3メートル離れた所ではリンキーが同じ姿勢で探している。15分した頃にジェイコブの手に硬い物が当たった。ジェイコブはそれを掴み、泥から手を抜いた。掴んだ物を見てみるが泥だらけでまだ何かわからない。泥の上を流れる水で付着している泥を丁寧に洗い流す。ジェイコブが見つけた物はドアに使う蝶番だった。価値がある物ではなく、ジェイコブはガックリした。
「何が見つかった?」
リンキーが興味ありげにジェイコブに聞く。
ジェイコブはリンキーにわかるように蝶番を持った手を上げた。リンキーはそれを見て何を持っているかすぐに理解したようだ。
「良くて※ファーシングだな」※ペニーの1/4の貨幣。
リンキーは笑いながら言った。
ジェイコブはそれをポッケに入れるとまた探し始めた。
結局4時間探し続けたが見つけた物は蝶番の他に、ネジ2本、小さなナット3個。全て合わせても1ペニーにもならなかった。
リンキーの顔も冴えない。きっと同じ様な結果だったのだろう。
「俺の将来の夢は金持ちになる事なんだ」
帰り道でリンキーはジェイコブに話し始めた。
「こんな泥だらけになりながら稼いだ金は1ペニーにもならない。今の生活を抜け出すには今のままじゃダメなんだよ。お前もそう思わないか?」
リンキーはそう言うとジェイコブを見た。
「確かにそう思うけど・・・」
ジェイコブは下を向きボソッと言った。
「朝の話し覚えてるだろ?今の生活を抜け出すには多少のリスクは必要なんだ!妹だってちゃんと医者に診てもらえれば元気になるんだぞ?」
リンキーの口調は強くなる。
ジェイコブは下を向いたまま何も言わず考え込む。
「なっ?一緒に仕事しよう!」
リンキーは言った。
ジェイコブの気持ちは確実に向きつつあった。しかし、もしも自分に何かあったら妹のアセルはどうなるのか?と、脳裏を過ぎる。父親だけの収入では生活は出来ない。ましてや、体が弱い妹に仕事は難しい。
「悪いけど・・・その仕事は出来ない」
ジェイコブは申し訳なさそうにリンキーに言った。
「そっか。残念だけど他の奴を探すよ」
リンキーは少し落胆した様だったが笑顔でジェイコブに言った。
リンキーと別れたジェイコブは家へと向かった。帰りの道中はリンキーの言っていた仕事の事をずっと考えていた。リンキーの言っていたように医者に診てもらえれば妹も良くなると思えた。しかし、最後にはやはり不安が頭を過ぎる。
気が付くとジェイコブは家の前まで来ていた。ジェイコブは自分の住む家を見た。屋根や壁は朽ち果て、強い風が吹けばすぐに倒れてしまうんじゃないかと思える。しかし、外には家の無い子供たちがいっぱいいる。少なからず帰る家があるだけ幸せに思えた。
ジェイコブはドアを開ける。朝出る時と同じギギッというドアの音がジェイコブには「おかえり」と言っているように思えた。
中に入るとアセルのベットの近くで父親が慌てふためいている。
「父さん、どうしたの?」
ジェイコブは急いで父親に近寄り聞いた。
見るとアセルの息が荒く、大量の汗をかいている。
「今帰って来たんだがアセルの様子がおかしくてな。熱がひどいんだ」
父親はそう言って、濡れタオルでアセルの体の汗を拭く。最後にもう一度タオルを濡らしアセルの額に乗せた。
そして、棚から白い粉を持ってくるとコップに入った水にその粉を少し溶かしだした。
「それは何?」
ジェイコブは父親に聞いた。
「アヘンだよ。知り合いに娘の事を話したら少し分けてくれたんだ」
父親はそう言って、アセルにアヘンの混ざった水を飲ませる。
数時間ほど経つとアセルの汗は引き、呼吸も安定してきた。ジェイコブは一安心するがまたいつ様態が悪くなるかわからない。ジェイコブはどうしようもない焦りを感じていた。父親はずっとアセルの側で見守っている。
「ちょっと出てくるよ」
ジェイコブは父親にそう言うと家を出た。
リンキーは簡易宿場で体を休めていた。6畳ほどの部屋に1畳ほどのベットが4台。木製のベットには薄い毛布が敷かれているだけで横になれば木の硬さを体中に感じた。満室の部屋はリンキー以外全員大人の男で息苦しさもある。今日の収入は夕食のパンとこの宿代で消えてしまった。それでも、休む場所が見つかっただけよかった。今日も5件の宿屋を回りやっと見つけた場所だった。
目を閉じて眠りに入りかけたその時、部屋のドアを開けて宿屋の主人が入って来た。
「リンキーってやつはいるか?」
宿屋の店主は言った。
「なんだい?」
リンキーは上半身だけ起こし店主を見て言った。
「ジェイコブって友達が来てるぞ」
そう言って店主はそのまま部屋を出て行った。
ハッとしたリンキーは靴も履かずに駆け足で店主の後を追った。階段を下りカウンターに着くとジェイコブが汗をかき、肩を上下させながら息荒く待っていた。
「リンキー、僕も例の仕事をするよ」
ジェイコブは真っ直ぐリンキーを見て言った。