迷宮入り事件の結末
無造作に垂れ下がった前髪の隙間からジャックの緑の瞳がバースを見つめる。
ジャックはニヤリと笑うとバースに向かって飛んだ。
それは人間とは思えないほどの跳躍で、助走を付けずに高さは4mを超え、10mほど離れていたバースに覆いかぶされるであろう程だった。
ジャックのナイフがバースを捕らえそうになった瞬間、デリックがジャックの胴体を横から掴み阻止する。
そのまま、ハンマー投げの様に2回ほど回した後、建物の壁に叩きつけた。
レンガと石膏で補強された壁は崩れ、ジャックは壁の向こう側へ吹き飛ばされた。
デリックはジャックを追い、壊れた壁から建物へと入って行った。
路地に取り残されたアーノルドとバースは二人の争いに圧倒され固まり、目を合わせる。
2秒ほど目を合わせた後、二人は同時に動き出した。
バースは腰から銃を取り出すとアーノルドに向け発砲する。アーノルドは間一髪、近くにあった木箱の物陰に隠れ銃弾をかわす。
アーノルドも持っていた銃を取り出す。ウェブリーリボルバーは6発。おそらくバースも同じであろう。
アーノルドはバースの発砲回数を数えた。最初に2発、物陰に隠れてから1発打っている。アーノルドは威嚇も兼ねてバースに向け1発、発砲する。発砲の振動が折れたあばら骨に響く。アーノルドはすぐに物陰に身を戻した。
バースも近くにあった壁の溝へ隠れる。
「こうなるなら、さっさと貴様を私の手で始末しておくべきだったな」
バースは言った。
アーノルドから弾が1発飛んでくる。
あばらを痛め、狙いが定まらないのかバースのいる壁のはるか上に当る。バースは顔を壁から出し、アーノルドの様子を窺う。すぐに、アーノルドが2発、発砲した。
しかし、2発とも狙いから大きくズレる。
バースはアーノルドが身体を痛め、まともに狙える状態ではないと確信した。挑発するため1発アーノルドに向けて発砲する。
すぐに、2発返ってくる。
「弾切れだろう?頭が良くても射撃に関してはお粗末だな」
バースは隠れるのやめ、アーノルドに向かって近づいて行く。
アーノルドは隠れている木箱の裏から出てくる様子はない。銃を向けたままバースはそのまま近づく。
バースは木箱の裏側に勢いよく周り込み、アーノルドを確認する。
アーノルドは地面に銃を置き、息は荒く、木箱にもたれかかる様にしていた。
「最後に言い残す事はあるかな?」
バースは言った。
「あなたは切り裂きジャックの獲物です」
アーノルドは笑って言った。
建物に入ったデリックはジャックを探した。そこは物置だったようで20畳ほどの広さがあった。
人はおらず、建設に使われる木の資材や鋸、鉄製の見たこともない道具などが散乱している。机がバラバラに壊れ、ひっくり返っているのを見ると、おそらくジャックが飛んできて崩れたようだ。壁際の棚などはまだ無傷のまま残っている。
ジャックの姿が見当たらず、デリックは辺りを見渡す。次の瞬間、上からジャックが飛びついてきて、デリックの肩を両手に持った2本のナイフで突き刺した。
ジャックはナイフを天井に突き立て張り付いていたのだ。
デリックは痛みに声を上げ、ジャックを殴り飛ばした。殴り飛ばされたジャックは壁際まで飛んでいき棚に衝突する。すぐに立ち上がったジャックだったが、片手にしかナイフを持っていない。もう1本はデリックの肩に刺さったままだ。デリックは自分の肩に刺さったナイフを抜くとジャックに向けて投げた。
回転しながら高速で飛んでくる刃長30㎝ほどのナイフをジャックは止まって見えているかのように鮮やかに避けハンドルを掴んだ。
デリックは近くにあった机を片手で持ち上げ、ジャックに投げる。飛んできた机をジャックはナイフで真っ二つにする。
デリックはジャックに突進していく。ジャックはすかさずデリックの心臓部分を狙ってナイフを突き立てようとする。デリックはそれを手で弾き、ジャックの首を掴むと軽々と持ち上げ、大きく振りかぶり床へ叩きつけた。
木製の床はジャックの後頭部の形にへこむ。そのまま、何度も何度もジャックを同じ場所に叩きつる。
ジャックは叩きつけられながら、自分の首を掴んでいる腕にナイフを突き刺す。痛みでデリックの動きが一瞬止まる。ジャックはナイフを持ち直すとそのままデリックの腕を切断した。デリックは太い叫び声を上げ、激痛に暴れる。
その間にジャックは首を掴んでいる切断された腕を外す。ジャックは脳震盪でうまく立ち上がれない。デリックはまだ悶えている。
何とか立ち上がったジャックは奇声を上げながらデリックに向かって走っていき、心臓にナイフを突き刺した。ナイフは心臓を貫通し背中から刃先が突き出した。
デリックの動きが止まり、口から血が溢れる。
ナイフを体から抜くと同時にデリックは痙攣しながら倒れた。
「あなたは切り裂きジャックの獲物です」
アーノルドは笑って言った。
バースの引き金を押さえている人差し指に力が入る。
アーノルドは覚悟を決め目を閉じた。
暗闇の中、アーノルドは思う。
(自分が死んでもジャックが必ずバースを裁く。法に縛られず、誰にでも制裁を加える。この腐りきったロンドンには奴のような悪も必要だ)
アーノルドは風が吹いたのを感じた。そのあと、生暖かい雨のようなものが顔に当る。アーノルドはゆっくり瞼を開いた。
目の前にバースの銃口が見える。しかし、打つ気配がない。それどころか首から血が噴き出し、その血が自分にかかっていた。
バースの首がゆっくりとズレ始め、首だけが地面に落ちる。そして、体も崩れ落ちた。
崩れ落ちたバースの後ろにはジャックが立っていた。
ジャックも苦戦したのだろう。口と鼻から血が垂れていた。
「助かったよ。でも、君は毎回少し遅いな」
アーノルドは笑いながら言った。
ジャックは何も言わずバースを見つめている。
アーノルドが起き上がらせてくれと手を出した。
しかし、ジャックは手を取らずに奇声を上げながらロンドンの暗闇へと消えて行った。
「冷たいね」
アーノルドは呟くと脇腹を押さえ、立ち上がった。
1週間後
アーノルドは郊外の古ぼけた屋敷に来ていた。
ホール横のリビングでノーラと談笑しながら紅茶を飲んでいる。
テーブルにはこの古い屋敷には合わない赤チェックのお洒落なクロスが掛けられているが、テーブルの足が歪んでいるため、紅茶を置くたびに揺れる。
目の前に座っているノーラに午後の日差しが当たり、より美しく見える。
「何故、私がここにいると思ったの?」
ノーラは突然言った。
「どういう事?」
アーノルドは聞き返した。
「1週間前にここへ尋ねてきたでしょ?切り裂きジャックに連絡を取りたいって」
ノーラは紅茶を飲みながら言った。
「ああ、キッチンだよ。前に世話になっただろ?その時、チャーリーがキッチンから出てきたんだ。ロビーから奥がチラッと見えてね。階段の手摺や他の部分には埃が溜まるほどほったらかしだったのに、キッチンとロビーは綺麗だった。住んではいないが定期的に来ている。キッチンに洗われた食器があったからチャーリーか君が少なくとも1日おきには来ていると思った」
アーノルドは言った。
「もし、いなかったらどうしてたの?」
前かがみになり、テーブルに肘をついてノーラは聞いた。
「さぁね。犯人に殺されていたかも」
アーノルドはそう言って笑った。
「どうして私がジャックと連絡が取れると?」
ノーラの質問責めは止まらない。
「それに関しては確証はなかったよ。ただ、兄を庇う妹が定期的に来ているとしたらジャックも定期的にここを使っているんじゃないのかなと思って。それにホワイトチャペルで倒れている僕をわざわざこんな遠くまで運ぶのもおかしいと思ったからね」
アーノルドはノーラの瞳を見つめながら言った。
ノーラは少しの間、アーノルドを見つめ姿勢を元に戻した。
「それで犯人は捕まった?」
ノーラは聞いた。
「捕まえてはいないがもう娼婦連続殺人は起こらないだろう」
そう言うと、アーノルドは紅茶を飲み終え立ち上がった。まだ脇腹が痛む為、動きがぎこちない。
最後に挨拶をすると、アーノルドはロビーに向かって歩き出す。
「月、水、金、土」
アーノルドはノーラの方を見た。
「私がここにいる曜日」
ノーラはアーノルドを見つめて言った。
アーノルドは笑顔で答えると屋敷を出た。
アーノルドは事件後すぐ娼婦連続殺人の詳細を上層部へ報告した。しかし、警察関係者が犯人という事は都合が悪く、取り合ってもらえなかった。アーノルド自身も一切口外する事を禁止され、報告書は一部を除き廃却。こうして娼婦連続殺人は迷宮入りで幕を閉じた。