新事実
どれくらい眠っていたのだろう。アーノルドが目覚めたのは見慣れない部屋のベットの上だった。
アーノルドはベットから上半身を起こす。一瞬、頭に激痛が走りアーノルドは反射的に頭を押さえた。
額から後頭部にかけて2~3周布のようなものが巻かれている。
アーノルドは周りを見渡した。部屋は20畳くらいはある。自分が寝ていたベットは木で出来た土台にマットレスが置かれただけの簡易的な物だった。ベットの横にはテーブルがあり、そこに水の入ったコップと、自分が着ていたであろう背広がきれいに畳まれて置かれている。
アーノルドはそのコップを手に取ると鼻を近づけた。毒物や、腐った様な臭いはしない。
喉が渇いていたアーノルドは、そのまま一気に水を飲み干した。
アーノルドはもう一度、周りを見渡す。天井は傷み、所々雨漏れの跡と思われる黒いシミが出来ている。壁紙は剥がれている所が多く、木の板がむき出しになっていて、窓のカーテンには破けたような穴が開き、そこから日差しが差し込んでいた。
部屋には自分が寝ていたベットとその横にあるテーブル以外何もない。
(ここは何処だ?)
アーノルドはそう思いながら床に足を付きベットから立ち上がった。アーノルドの体重に反応し床がミシミシと音を立てる。
床もだいぶ傷みがひどいようだ。それにビーカーや、割れたフラスコなども落ちている。部屋の扉は開いていて、その奥に廊下の手摺が見える。背広を手にするとアーノルドは廊下へと向かった。
部屋を出たアーノルドは少し驚いた。天井は高く、コの字になった廊下から下を見るとロビーがある。
廊下には絨毯が敷かれていて、手摺もよく見ると綺麗な彫刻が刻まれていた。
しかし、絨毯はボロボロで、手摺には埃が溜まっている。
中流階級、もしくは上流階級の屋敷であることは間違いないであろう。しかし、それと不釣り合いな屋敷の朽ち果て具合にアーノルドは何とも言えない不気味さを感じた。
アーノルドは音を立てないよう慎重に廊下を進み、壁に飾られた鏡を見た。頭に巻かれた布の様なものは包帯であった。
階段を下りロビーに着いたアーノルドは1階を見渡した。
部屋がいくつもありそれぞれの扉には彫刻が施されている。ここの主は相当裕福だったようだ。
すると、階段横にある扉が開いた。
部屋から出てきたのは推定70歳くらいであろう黒のスーツを着た老人だった。腰は曲がり、杖を突いている。
「お目覚めですか?」
老人はアーノルドに話しかけた。
アーノルドは何も言わず注意深くその老人を見る。
「チャーリーと申します。帽子が破れていましたので直しておきました」
そう言うと、チャーリーは帽子をアーノルドに差し出した。
アーノルドは、帽子を慎重に受け取った。
「トーマス・アーノルドです。手当てしていただきましてありがとうございました」
アーノルドがそういう言うとチャーリーは何も言わず優しい笑顔を見せた。
「ここは何処ですか?」
アーノルドは聞いた。
「郊外の山の中にある屋敷です。今は誰も住んでいないんですがね」
チャーリーは言った。
「あなたはどうしてここに?」
アーノルドは言った。
「ここの主人が亡くなってからは私が管理してましてね。昨日あなたが道で倒れていたので馬車に乗せてここに運んだのです」
チャーリーは言った。
アーノルドは少し考えこむ。
「そうですか。では手当てをしていただいた女性の方にお礼を言いたいのですが、今いらっしゃいますか?」
アーノルドは明るく言った。
「は?手当ては私がしましたが・・・」
チャーリーが不思議そうな顔で言った。
「手摺に埃が溜まっていました。しかし、数か所だけ埃が途切れている部分があった。おそらく私を部屋に運ぶ時に手を付いたのでしょう。あなたの手は帽子を渡された時に確認しました。小柄のあなたの手より小さかったのでおそらく女性の手でしょう。それと腰が曲がり杖を突いているあなたが私を2階の部屋まだ運べるとは思えない」
チャーリーの顔から笑みが消えた。
「それにあなたは嘘もついた。あなたは必死に隠そうとしていたが手が震えている。異常に汗も掻いているし、片側の瞼も吊り上がり気味になっている。これはバセドウ病の症状です。そんなあなたが手当てを出来ると思えませんし、縫い物が出来るとも思えない。帽子の直された部分を見ました。とてもキレイに縫ってあった。あなたが縫ったのではなくもう一人の誰かが縫った。これも女性でしょう。」
チャーリーは黙ったままだ。
「つまり、あなたが私をここに運んだ時、もう一人女性が一緒にいたはずです。それをあなたは隠そうとしている。何故です?」
アーノルドは言った。
チャーリーは黙っている。
「私よ」
急に後ろから声が聞こえアーノルドは振り向いた。
そこに立っていたのは綺麗な女性だった。身長は170㎝くらいであろうか。細身で、ブロンドの髪を後ろにまとめ綺麗な首筋と少し尖った耳が見える。鼻筋は通っていて、少し緑がかった大きな瞳をしている。整った顔立ちは化粧などいらないほどだ。
「ノーラよ。あなたを手当てして帽子を直したのは私」
そう言った彼女の態度はとても凛としていた。
「アーノルドです。あなたのような美しい女性に手当てされて僕は幸せ者だ」
アーノルドは笑顔でそう言い、握手する為に手を差し出した。
それを見たノーラだったが握手せずアーノルドに背を向け、出口の扉へ向かった。
アーノルドは気まずそうに出した手を戻した。
「町まで送るわ。来て」
ノーラはそう言うと出口の扉を開いた。
馬車はひたすら森の中の細い1本道を走る。ノーラが馬の綱を握り、アーノルドはその隣に座っていた。
屋敷を出てから約10分くらい走っている。木々の隙間から少し街が見えてきた。もうそろそろ着くのかもしれない。ここまで二人に会話はなかった。
「切り裂きジャックは元気か?」
急な言葉にノーラはアーノルドを見た。アーノルドは馬車の揺れに身を任せながらノーラを見ている。
「切り裂きジャック?」
ノーラは聞き返す。
「君の独特な耳の形、緑がかった瞳は切り裂きジャックと同じだ。これは直径的な遺伝のものだ。年齢的に君のお兄さんだろ?」
アーノルドは言った。
ノーラは少しの間アーノルドを見つめ、視線を前に戻した。
「よくあの状況でジャックの耳の形や目の色がわかったわね」
ノーラは前を見たまま言った。
「観察が職業病でしてね」
アーノルドは冗談混じりに言った。
「確かにジャックは私の兄よ。警部さん」
ノーラは言った。
「僕は警部じゃなくて警視。そして、君のお兄さんは犯罪者だ。居場所を教えてくれ」
アーノルドは言った。
しかし、ノーラから返ってきた答えは意味深なものだった。
「あなたが探しているのはどっちのジャック?今ロンドンを騒がしてる切り裂きジャック?それとも私の兄の切り裂きジャック?」
アーノルドは意味がわからなかった。
「どういう意味だ?」
アーノルドはノーラに聞いた。
「そのままの意味よ。私の兄は昔から切り裂きジャックと呼ばれてる。でも、今注目を浴びてる切り裂きジャックは別人よ」
ノーラは答える。
「何故別人だとわかる?」
アーノルドは言った。
「簡単よ。兄は犯罪者しか襲わないから」
ノーラは凛とした態度で答える。
「犯罪者しか襲わない?!」
アーノルドが驚いて聞き返したがノーラは何も答えず前を向いたままだ。アーノルドは少し考え込んだ。
「誰かが君のお兄さんに成り済まして犯罪を犯していると?」
アーノルドはもう一度聞いた。
「そうよ。兄が娼婦を襲うわけない。もし兄が犯人なら殺された娼婦は何か悪い事をしていたはず。それに、兄は字が書けないしね」
ノーラは言った。
「何故、犯罪者しか襲わないんだ?」
アーノルドは言った。
「それは教えられない。」
ノーラは無表情のまま、アーノルドの目を真っ直ぐ見て言った。
「犯罪者しか襲わないにしても殺人犯には変わりはない」
アーノルドは言った。
それを聞いたらノーラは初めて怒りのような表情を見せた。
「確かにそうね。ただ殺人犯の定義にもよる。あなたがどう思おうが勝手だけど、市民の中には救世主と呼ぶ人もいるわ。少なくとも犯人を捕まえられない警察よりはいい仕事してると思うけど?」
ノーラは言った。
アーノルドは何も言えなかった。確かに毎日のように犯罪が起こっているが、検挙率が悪いのは確かだった。犯人を捕まえても裏で金が動き無罪になる事も多い。
その後、二人に会話はなかった。
アーノルドはハムステッド・ヒースで降ろされた。ここはロンドン郊外にあり自然豊かな丘陸地で、中心部から近いこともあり行楽客が多い場所だ。
「ここからなら歩いて帰れるわよね?」
ノーラは言った。
「最後に質問。なぜ僕が警察だと思った?」
アーノルドは言った。
「別に。手当てする時にバッチが見えたから」
ノーラは愛想悪く言った。
「そっか。送ってくれてありがとう。また会えるといいな」
笑顔でアーノルドは言った。
「あなたが偽物のジャックを捕まえてくれたら会ってあげてもいいわ」
ノーラはそう言うと、来た道を帰って行った。