Bの影
デリックは必死で走った。
ホワイトチャペルの路地を抜け、テムズ川に架かる橋を渡る。
皮靴屋の側の路地に入り、物陰に隠れる。目的地はもう少し先だ。
デリックは壁に寄り掛かりながら座り込んだ。
ここまで数百メートル全力で走ったデリックの息はあがりきっている。息を整えながらデリックは今日起きてからの事を思い出していた。
今日、デリックが目覚めたのは15時を回った頃だった。
昨日の夜は仲間と飲み過ぎた為、起きた時も二日酔いで頭が金槌で殴られているような感覚だった。
デリックはそのままウエストエンドのウエストミンスターに向かい、教会の裏路地でチャールズと合流した。
チャールズとデリックは人が通るのを待った。
しばらくして、教会を出てきた初老の紳士がデリック達のいる路地へ入って来た。
「爺さん、お恵みを」
チャールズがその紳士に話しかける。紳士がチャールズの方を向いた瞬間、今度はデリックが後ろから紳士を羽交い絞めにしナイフを紳士の首に突き付けた。
「大人しくしてな」
紳士の耳元でデリックは囁いた。
チャールズは怯えている紳士の服をまさぐり、ジャケットの内側から財布を見つけたのちデリックに合図した。
合図を見たデリックは紳士を投げ飛ばしそのまま二人は走ってその場を逃げていった。
その後、場所を変えて5回繰り返したデリック達は夜の7時を回った頃には2シリングほどの金を手にしていた。その足で二人はいつものイーストエンドの酒場へと向かった。
夜10時半を回った頃、デリックとチャールズは酒場でビールを飲んでいた。
イーストエンドの数あるパブの中からデリック達はここを好んでいた。なぜなら、ここは訳あり連中の溜まり場で一般人は怖がり訪れないからだ。そのため、飲んでいる顔ぶれは一緒でほとんど顔見知りだった。
「今日はジンじゃなくビールを飲んでるのか?」
デリックとチャールズの席にアドルフが座って来た。
アドルフも窃盗やゆすりを生業にしているゴロツキで、もちろんデリックとチャールズの顔見知りの一人だ。
「今日は儲けが多くてな」
デリックは笑いながら言った。
「なぜお前たちは二人で組んでるんだ?二人だったら一人分の儲けが減るだろう?」
アドルフがジンを飲みながら言った。
「小柄の俺が相手を油断させ、大柄のデリックが相手を押さえる。これでゆっくり相手を調べられるだろ?一人でやるよりリスクは低いし確実にこなして儲けを出せる」
チャールズが言うと、アドルフは意味深に笑いデリックを指差す。
「こんな額に傷がある奴が話かけたら怖がって逃げちまうもんな」
アドルフは笑いながら言った。
デリックの額には昔から中央から右目の眉毛にかけて大きな傷があった。
それを聞いたデリックはビールをテーブルに置くとアドルフを睨みつけた。
その時、店主がデリックを呼んだ。
「デリック、裏口に行け。Bが来てる」
それを聞いたデリックは一呼吸置くと裏口に向かった。
裏口を出るとそこにBが煙草を吸いながら立っていた。
「今日の成果は?」
Bはデリックに言った。
デリックは何も言わず今日の儲け、2シリングをBに見せた。Bはそれを黙って見つめ煙草を一吸いし、1シリングを取ると自分のポケットに仕舞った。
デリックが店に戻ろうとするとBは言った。
「今日はもう一仕事してもらう」
デリックは振り向きBを見た。
「金は出るんですか?」
デリックは言った。
Bはデリックとの距離を詰める。
「誰のおかげでお前が自由に犯罪が出来ていると思う?ん?自由でいられるのが何よりの儲けだろ?」
Bはデリックを睨みながら静かに言った。
デリックは従うしかなかった。彼に逆らえば間違いなく監獄行き、もしくは殺される。
「わかりました」
デリックは静かに答えた。
「では、今からホワイトチャペルの大通りへ行け。茶色のボーラーハットとスーツを着た30代の男がいるはずだ。身長は約180㎝、細身。口髭を生やしている。」
Bはさらに続ける。
「その男はロンドン市警察のトーマス・アーノルド警視。訳あって始末する事になった。奴を始末したのち、テムズ川沿いの廃工場へ来い。」
そう告げると男は暗闇へと消えていった。
デリックはすぐにチャールズの元へ戻り、残りのビールを飲み干すと言った。
「警察に恨みがある奴を集めろ!」
その後、集められた3人の男と共にデリックとチャールズは店を出た。
デリックは呼吸を整え終わるとまた走り出した。Bと落ち合う事になっていた川沿いにの廃工場が見えてきた。
昔は船の修理工場だったが、5年前に事故が起きてから使われなくなった場所だった。
工場に入ったデリックはBの姿を探した。
船が二隻は入れられる作業現場の中央に木箱がありその上にランタンが置かれ光っている。
近づくとその横にBが座っていた。
「奴は始末したのか?」
普段と同じ様に静かにBは言った。
「切り裂きジャックが現れまして、それで・・・」
「奴は始末したのか?」
デリックが言い終わる前にBはもう一度同じ質問をしてきた。
「いえ、木材で殴りましたが奴はまだ生きてると思います」
デリックは正直に答えた。
それを聞いたらBは立ち上がりデリックに近づいて来た。
デリックはBの恐怖にその場を動けずにいた。
Bはポケットからパイプを取り出すと煙草を吸い始める。
デリックは黙ってそれを見ていた。
少しの間沈黙が流れる。
「何故、仕事を終わらさずにここへ来た?」
Bは言った。
「切り裂きジャックが現れたんです!もう少しであの警視を殺せそうだったのを邪魔されました!」
デリックはBをなんとか納得させなければと力強く話した。
「という事は、切り裂きジャックに殺されるよりも私に殺されるのを選んだって事だな?」
やはり、Bは許してくれそうもない。デリックは必死に言う。
「もう一度チャンスを!今度は必ず始末します!」
デリックが言い終わったと同時に、Bは腰に付けていたガンホルダーから左手で拳銃を抜くとデリックの額に銃口を押し付けた。
「今度は額に傷ではなく穴を開けてやろうか?」
Bの口調が荒くなる。
デリックは言葉も出せず震えて立ち尽くす。
すると、Bは空いている右手でポケットから1㎝ほどの小さな物を取り出し、デリックに差し出した。
デリックがよく見ると小さな物はカプセル状になっていて、中には色はわからないが液体が入っている。
「・・・何ですか?・・これ?」
恐る恐るデリックはBに尋ねた。
「特別な薬だ。筋肉を増加させ、身体能力も上がる。これを飲めば切り裂きジャック諸ともアーノルドを始末出来る」
Bは続ける。
「もう一度チャンスをくれと言ったな。お前は運がいい、この薬が無かったら貴様を5秒前に撃ち殺していた。さぁ選べ、この薬を飲むか、今死ぬか。」
デリックに選択の余地は無かった。デリックはその薬を摘まむと一瞬躊躇したが一気に飲み込んだ。