目の前に
2日後。
アーノルドはロンドン市警察署の自分のデスクで事件の資料を見ていた。
机の上には資料が山積みになっている。
アーノルドの顔は険しかった。この2日間まったく捜査に進展が無いのだ。
目撃者はおらず、ロンドン中の医者、精肉業者関係者にアリバイがあった。
アーノルドは椅子の背もたれに寄りかかり考える。
(ジャックの犯行と思われる事件が5件、類似した事件が51件。ジャックの事件が起きている間、被害者の数人が警戒心もなく犯人を迎え入れている。何故だ・・・?犯人は女!?いや、力のない女性に喉をあんなに深く切る事は難しい。犯人は左利き。リッキーの調べでは左利きの容疑者は全員アリバイがあった。
何か見落としてしるのか・・・?)
アーノルドはオフィスの壁にかかった時計を見る。
すでにデスクに座って12時間が過ぎていた。
「捜査官を何十人も使って成果はゼロ。」
気が付くと机を挟んだ目の前にはバース警部が立っていた。
「操作は行き詰まりかな?アーノルド警視殿。」
バースは満足そうな笑みを浮かべながらアーノルドに言った。
「またあなたですか・・・」
ここ何日もアーノルドはバースの嫌味を聞き流している。
「成果ならありましたよ。例えば犯人は医者や精肉業者ではない・・とかね。」
アーノルドはそういうと椅子から立ち上がった。
「どちらへ?」
バースは言った。
「夜の現場も見ておかないとね。」
アーノルドは言った。
アーノルドは夜の現場を見直しておいた方がいいと思っていた。
しかし正直なところ、ここ数日不眠不休で捜査に当っていたアーノルドに、バースの嫌味に付き合っていられるほどの精神力はもう残っていなかった。アーノルドにとってはこの場から離れる口実にもなっていた。
「まだ意味のない捜査を続けるつもりなのか?」
すれ違いざまにバースから嫌味が飛んでくる。
バースの顔はニヤけた表情というよりもどこか怒りがこもっているかのようだった。
「意味があるか無いかは結果論です。捜査の過程に意味を求めてはいけない。」
アーノルドはバースの方を見ずに答え、そのままオフィスを出て行った。
夜の11時を回った頃、アーノルドは事件現場に向かう為ホワイトチャペルを歩いていた。
この時間ともなると大通りでも人通りはなく、たまに飲みすぎた者が路地の隅で寝ているだけだった。
道を照らす物は心もとない外灯と月の灯りくらいである。
アーノルドは歩きながらも犯人の事を考えていた。
(臓器の摘出方法からいって解剖知識があるのはあきらか。医者でも肉屋でもないとしたら・・・)
その時突然、アーノルドの後頭部に衝撃が走った。
アーノルドはそのまま自分の意思とは関係なく地面に倒れ込む。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、後から襲ってきた後頭部の激痛でアーノルドは理解した。
アーノルドの周りには5人の男が立っていて全員が木材や鉄パイプなどの武器を持っている。
アーノルドを殴ったであろう男の木材には血が付着していた。
意識が朦朧とする中、男達の会話が聞こえてくる。
「へへ、隙だらけな警視さんだぜ。」
「俺にもやらせろよ。俺も警察には恨みがあんだよ。」
「安心しろ。そう簡単には殺さねぇよ。」
起き上がろうにも体に力が入らず視界もぼやけている。
額に後頭部からの血が流れてきている事がわかる。アーノルドは必死に体を動かす。
徐々に腕に力が入る。アーノルドはそのまま腕だけで動こうとした。
「キャッハァァアァアアァァ!!」
その時、鼓膜が張り裂けそうなほどの奇声が響いた!
男達は辺りを見渡す。
次の瞬間、男達の間に残像が通りすぎた。
その残像を追おうとするが速すぎてすぐに見失ってしまう。
すると急に男二人が地面に倒れ込んだ。二人の男の首元は切り裂かれ、血が噴出している。声がうまく出ずうめき声を上げ、首元を押さえながら悶え苦しんでいる。
それを見た残りの男達は一斉に叫ぶ!
「切り裂きジャックだ!!」
その叫びにアーノルドは反応した。
(切り裂きジャック!?)
そう思ったアーノルドは必死に顔を上げジャックの姿を探す。
ひとりの男の後ろに黒い影が降りてきた。
暗闇の中でもはっきりと見える30㎝はある長いナイフ。
「後ろだ!!」
ひとりの男がジャックの方を指差し叫んだ。
しかし、すぐにジャックは男との間合いを詰め、鋭いナイフで斬りかかった。
それと同時にもう一人の男にコートの内側から出した小型のナイフを投げつける。
ナイフは額に刺さる。
二人は同時に膝から崩れ落ちた。
あっという間に4人がジャックによって殺された。
最後の一人をアーノルドは首だけを動かし探した。
アーノルドを最初に殴った男だ。
しかし、その男の姿はなかった。
アーノルドは視線をジャックに戻した。
目の前にジャックの足がある。
意識が朦朧とする中、最後の力を振り絞りアーノルドはジャックの足を掴んだ。
「切り裂きジャック!貴様を逮捕する!」
アーノルドはジャックを見上げながら言った。
正直、今の状態でジャックを逮捕出来るとはアーノルド自身も思っていなかった。ジャックに対して体と声が勝手に反応した感じだった。
そして、今捕まえなければもう二度とジャックを見つける事が出来ない様な気もした。
アーノルドは殺される覚悟は出来ていた。
しかし、ジャックはアーノルドを見下げながら何も言わず立っている。
急にまぶたが重くなる。
ジャックを目の前にしてアーノルドは意識を失ってしまった。