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鮮やかな夏は、球場での再会を彩る

 今朝、新聞で懐かしい名前を見つけた。



 夏の高校野球の県大会の組み合わせと登録メンバーが決まる時期になった。今朝の新聞は高校野球特集になっていて、トーナメントとメンバー表が掲載されている。私は紙面を眺めながら、いよいよ夏がやってくるのだなぁとしみじみと感じていた。


 自分が高校生になってから、今までは全く興味がなかった高校野球を見るようになった。きっかけは物凄く単純で、昨年1年生のときにクラスの友達に誘われて自分の高校の応援をするため、野球場に観戦しにいったことだった。

 そもそも野球のルールも曖昧な状態で付いていったのだけれども、球場に着いたらそんな事はどうでも良くなった。



 真っ青な空が広がる野球場。

 チアリーディングや吹奏楽部でカラフルかつ賑やかな客席。

 白いユニフォームに身を包み、あまりにも広すぎるグラウンドで真剣勝負を繰り広げる選手達。


 それら全てが強い夏のひざしに照されている、色あざやかで特別な場所。夏の暑さと、観客の熱い応援もそのあざやかな世界に色を加えていた。

 日常生活から切り離された夏の野球場は、初めて知った色彩豊かな別世界だった。


 気がついたときには、緑色の応援メガホンを野球部保護者会から借りて吹奏楽部の音楽に合わせて声を出していた。学校生活でほとんど関わったことのない野球部なのに。野球部でも吹奏楽部でもない私も、自然とその特別な空間に色を加える一員となっていた。


 昨年の大会の結果は、初戦敗退。延長までもつれこむ激闘だった。

 感動をありがとうなんて軽々しく口にしてはいけないのだと思う。だけれども、今まで何かに熱中したことのない私にとって、延長までもつれ最後まであきらめずに粘り強く戦う選手達の姿はあまりにも眩しすぎた。眩しすぎたからこそ、試合終了の瞬間選手達がグラウンドにうずくまる姿が切なすぎて。


 友人と一緒に涙を流しながら、選手にめいいっぱいの拍手を送った。鮮やかな世界に映る喜びや切なさは、私を魅了してやまなかった。


 あの試合終了の瞬間から、高校野球ファンとなったんだ。




 そして今年、新聞で見つけた懐かしい名前。うちの学校が1回戦を勝ち上がると対戦することになる第2シード校の強豪校に名前を連ねていた。


川嶋かわしま よう(2年)』


 思わず昔の友人の名前を人差し指でなぞる。――野球、続けてたんだ。



 *



 彼とは小学生の時に同じクラスだった。小学校5年生のクラス替えの時に転入生としてやってきた。人見知りと言う言葉を当時は知らなかったが、あの時の彼はまさにそれだった。


 あまり大きくない学校なので学年3クラスずつ。クラス替えと言ってもすでに皆知っている状態なので仲良しグループも早々に決まっていた。

 その中に転入生として入ってくるのだけでも大変だろうに、人見知りもあったのでなかなかクラスに溶け込めていなかった印象だった。



 私と彼が初めて話した時のことは良く覚えている。ある日の昼休みにみんなでドッジボールをやることになった。そしてせっかくだからと転入生の彼も誘うことに。

 その時、彼に声を掛けたのが私だった。理由なんてひどいもので、ただ単にじゃんけんに負けたから。


「川嶋」


 給食を食べ終わって、自分の席に座ってうつむいている彼に声を掛けた。彼は一瞬ビクッと体を震わせた。――おどろかせちゃったかなぁ。

 そしてうつむいていた顔をゆっくりあげて、視線がぶつかる。気の弱そうな顔で一度ぶつかった視線は、気まずそうにすぐに逸らされてしまった。


 彼をきちんとグラウンドに連れていかないとあとでみんながうるさいから、私はぶっきらぼうにお誘いの言葉を言った。


「クラスのみんなでドッジボールやるの。一緒にやろうよ」


 すると、彼は再び顔をあげ私の目を真っ直ぐ見つめた。あまりにも真っ直ぐな目に私はどきりとした。でも、よくよく見ると彼の口は半開きだった。

 真っ直ぐな目とだらしない口元のギャップがなんだか面白くて思わずくすりと笑ってしまう。


「ドッジボール、好き?」


 彼は黙ってうなずいた。


「じゃあ行こうよ」


 右手を差し出してみたけれども、彼は私の手を取らずに立ち上がった。しかし私は、特に気にすることもなかった。


 だって、気恥ずかしそうに小さな声で「ありがとう」と呟いたのが聞こえたから。


 私は良いことをしたなと得意気になり、「どういたしまして」と返して二人並んで校庭に向かった。

 それを会話と呼んでいいのか分からないけれど、彼と私の初めての会話だった。



 *



 私は彼を無事にグラウンドまで連れて行ってみんなと合流した。すでにチーム分けは済んでいたようで、すぐにドッジボールが開始された。


 ドッジボールに誘った責任感からか、ゲーム中に自然と敵チームながら彼の動きを気にしていた。彼は遠慮しているようでボールから逃げてばかりだ。もしかしてドッジボール苦手なのかなぁとぼんやりと思ったりした。――でもドッジボール好きって言ってたよな。


 すると私の足元に仲間が当てられて転がったボールか流れてきた。ボールを拾って敵チームのコートを見ると私のすぐ目の前には転入生・川嶋陽。


 よし、チャンスだ。この距離なら当てられる。

 私は片手でボールを持って振りかぶり、彼めがけて思いっきり投げた。いくら男子でもこの近さで投げれば逃げられないはず。

 ……はずだった。


 彼は私が至近距離で投げたボールを楽々とキャッチした。今まで逃げ回っていた気の弱そうな男子とは思えないくらいの余裕なキャッチだった。

 うそでしょう。まさかキャッチされるなんて考えてもいなかった私は、思わず彼の動作に見とれてしまった。


 私が投げたボールの勢いを受け流すようにキャッチした時の彼は、くしゃっとした顔で楽しそうに笑っていた。教室ではそんな笑顔を見たこと無い。やっぱりドッジボール好きなんだ。


 誘ってよかった。そんなことをぼんやりと考えていたのもつかの間、そのまま彼はボールを投げる体制に入っていた。


 目の前にいる彼にに投げたボールをキャッチされたということは、その逆にボールを持った彼の目の前にいるのは私なわけで。

 それに気が付いた時にはもう遅い。容赦なく至近距離で私に向かって投げられたボールをキャッチ出来るわけもなく、私の足に当たり外野送りにされていた。


 私が当てられた時のクラスの盛り上がりといったらなかった。もう6年ほど前のことになるのにはっきりと覚えている。


 川嶋かわしまようは一躍ドッジボールの強いヤツとしてクラスの人気者となった。彼も転校に緊張している人見知り少年だったのだけれども、このドッジボールを機にすっかりクラスに打ち解けた。


 人見知りが無くなってしまえば、友達と一緒にイタズラをしたり女子にちょっかいをだしたりといたって普通の小学生男子だった。




 *



 彼と仲良くなったのはいつぐらいだったか。確か席替えで隣の席になった時だと思う。私が授業中に使っていた消しゴムがきっかけで会話が盛り上がったことがあった。


中園なかぞのってそのゲームやってんの?」


 彼は私の消しゴムを指差して言った。

 消しゴムのカバーにプリントされていたのは、森の村に引っ越してきた主人公を動かしながらのんびり村人達とたわむれる、という内容のテレビゲームに出てくるキャラクターだ。

 前日に親と一緒に買い物に出掛けたときに文房具売り場で見つけて一目惚れ。おこづかいで買った新品の消しゴムだ。


「俺、そのゲームやってる」


 彼のなんてことないその一言に、私は衝撃を受けた。正直派手さの無い地味なシミュレーションゲームで、周りでこのゲームを遊んでいる子がいなかったから。


「面白いよね!」

「うん」


 転入当初の人見知りからは考えられない、ニコニコとした人懐こい笑顔で頷いた。


「このゲームやってる人、今までいなかったの。川嶋が初めて!」

「マジ? このゲームうちの姉ちゃんもやってるよ」

「すごい! お姉ちゃんも!」

「あ、そうだ。今度うちきて『おでかけ』しようぜ」


『おでかけ』という言葉に、思わず胸がときめいた。

『おでかけ』とは例の地味なシミュレーションゲームの遊び方のひとつで、友達の村に遊びに行けるというシステムだ。『おでかけ』のみで手に入るアイテムがあったり、後日お出かけ先の村の住民が引っ越してきたりとお楽しみ要素がたっぷりだ。しかし、周りでそのゲームを遊んでいる友達がいなければ『おでかけ』することができない。

 今までひとりで遊んでいた私にとって、ふってわいてでた『おでかけ』のお誘いを断るなんて選択肢はなかった。


「する!」

「じゃあ、今度の土曜日な。朝は野球あるから、午後からやろうぜ」


 それからというもの、私はしょっちゅう彼と遊ぶようになっていた。放課後は彼を含むクラスの子と外で遊び、休みの日は彼と『おでかけ』をする。土曜日は彼の野球チームの練習があるので、終わってから遊んだ。

 彼の家に遊びに行くと、お姉さんも一緒に遊んでくれた。「夏希ちゃんは私の妹」といってよく頭をなでてもらって、私もお姉さんのことが大好きだった。

 そんな楽しい日々は小学校の卒業まで続くことになる。



 *



 卒業式の日、帰り間際に私は教室で泣きじゃくっていた。彼とは学区の関係上、別の中学に進学することになっていた。毎日会って、遊んでいたけれどそんな日々ももう終わり。

 この先の生活が想像できなくて、楽しい毎日が無くなってしまう寂しさに堪えきれなくて、陽のランドセルを掴んで離さなかった。


「陽と、もう会えなくなるんだね」

「何言ってんだよ。また会うだろ」

「本当に?」


 不思議なことに、陽のその一言であれだけ流していた涙が止まった。


「夏希連れてこないと姉ちゃんうるせーし」

「うん」

「俺、中学でも野球やるけど、休みぐらいあるだろーし」

「うん」

「夏希と遊ぶの、結構好きだから」

「”結構”ってなに。私は陽と遊ぶの好きだよ」


 そう言った瞬間、陽はその場で勢いよくくるっと周り、私の手をランドセルから振りほどいた。そして、小さな声で「俺も」とつぶやいたのがかすかに聞こえた。

 そのまま彼は走って教室から出て行ってしまった。


 それが、私と川嶋陽の最後の会話だ。今思い出しても、あっけない。

 小学生の言うことなんてただの口約束で、それ以降彼とは会うことはなかった。卒業式のときはさびしくて仕方がなかったが、中学校に進学すると今までの環境が目まぐるしく変化し、ついて行くのに精いっぱいで小学校の思い出は次第に薄れていった。きっと彼も同じだったのだと思う。



 *



 ギラギラとした日差しが容赦なく照り付ける。

 とうとうこの日がやってきた。


 高校野球県大会、2回戦。私の高校と陽の高校が対戦することになる。

 反対側のアルプススタンド、つまり陽の高校は野球部のメンバー外の部員、学ラン姿の応援団、吹奏楽部と男子高校生で埋め尽くされていた。さすが甲子園出場歴のある名門男子校。この中の一員なのか、陽は。アルプスの野球部員の数が多すぎる。


 今日は友達の予定が合わずに一人での観戦になってしまった。もちろん自分の高校の応援に来たのだけど、心の隅で昔の友人のことを気にしてしまっている。ダメだよね。でも、陽の活躍を見てみたい。ワクワクする気持ちが押さえられない。


『7番。センター川嶋くん』


 陽の名前が球場に響き渡った。スタメン、だ。

 容赦ない真夏の日差しのなか、試合が開始された。男子校の地響きのような応援が球場を圧倒する。真っ白なYシャツと学ランの黒のコントラストがアルプスに良く映えていた。吹奏楽部の人数は多くはないが、男子特有のパワーのある応援だ。球場が一気に相手校の空気になる。すごい。

 去年見た球場とはまた別の色に染まっていた。




 陽がグラウンドにいる。陽が居るところはまるでスポットライトが当たっているみたいだ。どこにいても見つけることができるような不思議な感覚。他の場所より色彩鮮やかで、まるでスローモーションが掛かっているように、ひとつひとつのプレーがはっきりと見える。主人公、みたいだ。


 つい自分の高校の攻撃時にも姿を追ってしまう。ポジションはセンターなので応援席からはかなり遠く、顔も全然分からない。

 うち上がったフライは難なく処理。送球も正確。強豪校レギュラーとして堂々とプレーをしている。


 そしてバッターボックスで構える彼はとてもきれいだった。高校球児にきれいという表現は変なのかもしれない。力む様子もなく自然体で球を待ち構える彼の姿はきれいだ。知り合いだから贔屓目で見てしまうのかもしれないけど。

 カキン、と球を捉える音が球場に響く。応援団の声援を越えて、金属音が耳に飛び込んでくる。そして、陽は真っ直ぐに打ち返す。お手本のようなセンター返しだ。陽はそのまま一塁まで駆け抜ける。

 彼のプレーから一瞬たりとも目が離せない。


「すごい……」


 実は今まで陽が野球をやっているところを一度も見たことがなかった。この試合が初めてだ。

 ドッジボールやゲームをやる時とは違う。強豪野球部に所属する陽の、美しく洗練された動き。

 建前上は自分の高校の応援に来たのに。北高生失格だな私と思わず笑ってしまう。


 陽は2年生ながら文句なしの活躍だ。シード校との格の違いを見せつけられ、じわじわと点差が開いていく。


 私の学校も諦めずに点を返したが、11-2の7回コールド負けとなってしまった。

 陽の活躍は嬉しいけれど、自分の学校が負けるのはやはり悔しい。大泣きしている選手に大きな拍手を送る。昨年と同様に視界が涙で滲んでいた。


「悔しい。けど、陽が元気そうでよかった」


 私は席を立ちながらポツリとひとりごとを呟く。

 本当に良かった。すごく一方的だけれども、元気そうな姿を見ることができた。



 *



 もし運命というものがあるというなら、今日は私の味方なのかもしれない。


 球場を出る前に、とお手洗いに寄った。中に入ると洗面台に麦わら帽子の若い女性が立っていた。手を拭こうとカバンからハンカチを出そうとしているようだ。

 ぼんやりとその様子を眺めていたところ、カバンからハンカチとともにピンク色の何かが出て来て、床に落ちた。女性は気が付かずにお手洗いを後にする。


 パスケースかなぁ。拾って裏側を見ると、思った通り定期券が入っていた。これは届けないとお姉さん困るな。そして何気無く、定期券に印字されている名前を確認した。


『カワシマ アカネ』


 ――うそ、でしょ。

 カワシマ アカネ。私はその名前を知っている。川嶋かわしまようの3つ年の離れたお姉さん、川嶋かわしまあかねさん。私も昔よく遊んでもらったが、小学校を卒業して陽と疎遠になってからは一度も会うことが無かった。


 もしかしたら同姓同名の人違いかもしれない。


「あの、すみません」


 でも、目の前の陽とつながる微かな可能性に、見てみぬ振りなんてできない。


「パスケース落とされましたよ」


 私の声に、目の前の女性が振り替える。涼しげな麦わら帽子と、群青のノースリーブのワンピースの裾がひらりと揺れた。


「どうもありがとうございます」


 麦わら帽子から優しいたれ目が覗いた。懐かしい、優しい眼差しだ。間違いない。


「あの!」


 緊張して心臓が飛び出そうだ。こんなことするなんてらしくない。


「川嶋、茜さんですよね」


 私らしくないけど、この縁を繋げたい。その一心で、私は言葉を紡いだ。


「私、中園なかぞの夏希なつきです。弟の陽くんと小学校の時の同級生で――」

「夏希ちゃん! 夏希ちゃんなの!?」


 ――繋がった。

 彼女はたれ目を丸くして、私の両肩に手を添えた。


「懐かしい! 今日はどうしたの、もしかして陽の応援?」

「あ、いえ。私、北高生なんです」

「そうだったんだ。……今日は残念だったね」

「いえいえ。茜さんは陽の応援ですか?」

「そう。あの子、レギュラーなの。知ってた?」


「新聞で見ました」と伝えると、「あぁ、あれね」とにっこりと微笑まれた。


「これから野球部の出待ちに行くんだけど、よかったら夏希ちゃんもどう? 卒業以来会ってないでしょう」


 展開が急すぎる……!

 昔馴染みが対戦相手で、試合会場でお姉さんに再会して、さらに本人に会えるだなんて。うまく行き過ぎだ。本当に神様は今日、私の味方なんだ。


 陽に会えたら良いなと思ってた。でも、会えるわけないと思っていた。


「一緒に、行きたいです」

「分かった。あと、昔みたいに"茜ちゃん"でいいよ」


 会いたい。不安と期待のふたつの感情が入り交じるのを感じながら、陽との再会へ向かうことになった。




 *



 私のこと、覚えているのかな。もし忘れられていたらどうしよう。陽と会うのは小学校の卒業式以来になる。


 茜ちゃんに連れられ、関係者口前で保護者や学校関係者とともに部員を待った。


 ――うぅ……、見られてる。


 男子校なだけあって、出待ちの女子高生はほとんどいない。ちらほら居るのは、多分身内だろう。

 しかも私は、今日の対戦校の北高の制服。本来こちらではなくて反対側にいるはずだ。どうしても目立ってしまう。


「茜ちゃん、私やっぱり帰り——」

「あ、出てきた出てきた」


 気まずいなと思っていたところで、周りがざわつきはじめた。そしてざわめきのなかで、拍手が混じり始める。選手達が球場から出て来たのだ。


 あの中に、陽が。


 選手達は一列に乱れなく並んだ。関係者のざわめきと拍手が一瞬で止む。


「無事に初戦勝つことが出来ました。応援ありがとうございました」


 ひと際体の大きいキャプテンらしき男子生徒が挨拶をする。その挨拶に続き、部員たちも「ありがとうございました」と脱帽で一礼をした。保護者やOBの方々が拍手で答える。私も一緒に拍手をした。


 一列に並んでいる部員の中に陽が居るのは間違いないんだろうけど、正直わからなかった。名前はもちろん覚えているし仲も良くて放課後何度も遊んだ。


 でも、もう6年経っている。


 背も伸びただろうし、顔も大人っぽくなったんだろうな。球場では彼の活躍を見ていたけれども、バッターボックスや守備位置はずいぶん客席から離れていて顔の確認なんて全然できなかった。


 拍手が止むと、野球部員は保護者やOB方々に囲まれて談笑を始めた。先ほどまでキリッとはりつめた表情であった野球部員達の顔が緩み、ほっとした表情になっていた。強豪校の野球部員も、普通の男子高校生なんだ。


「陽!」


 談笑の中、茜ちゃんの凛とした声が通り、野球部員が数名振り返る。その中の一人が、こちらに向かって歩いてきた。


「茜、そんなに大きな声で呼ぶなよ」


 私の知らない低い声が茜ちゃんに話しかける。


「ごめんごめん。試合お疲れ様、そしておめでとう」


 ニコニコと話す茜ちゃんとは対照的に、そっぽを向いて黙りこむ男子高校生。沈黙ののち、彼は気恥ずかしそうに「ありがとう」と周囲のざわめきに溶け込んでしまいそうな声で呟いた。


 その姿が、小学生の頃の川嶋陽と重なった。

 あの頃は私とほとんど変わらない背丈だったのが、ずいぶんと伸びている。180センチ以上あるのかな。丸くて優しそうだった顔もぐっと引き締まって精悍で男性らしくなった。

 見た目は大人になったけど、あの「ありがとう」を見る限り根本のところは変わって無いんだな。


 精悍になった見た目と変わらない言動のギャップがおかしくて、思わずくすりと笑ってしまう。


 そこでようやく、彼は茜ちゃんの隣に並ぶ私に気が付いたようだった。


「茜、この子は?」

「何とぼけたこと言ってんの。小学校の頃のお友達の中園なかぞの夏希なつきちゃんだよ」

「え、夏希? 本物? ってか何で?」


 陽は私と茜ちゃんの顔を交互に見つめた。彼の顔の回りにはクエスチョンマークがたくさん浮いているようだった。

 真っ直ぐこちらを見つめてくるのだけれども、口は半開き。あの頃と変わらない陽の様子にほっとすると同時に懐かしさを覚えた。

 夏の大会が始まってスタメンで試合に出て勝利したと思ったら、昔の同級生が試合後にあらわれて。陽が混乱するのも無理は無いよね。


「本物です。……久しぶり、陽」

「…………………」

「えっと、突然ごめん」

「いや。いいんだけど……」


 沈黙が続く。久しぶりすぎて、緊張のせいか上手く言葉が繋がらない。

 すると頼りの綱の茜ちゃんがにっこり笑顔で「私先生に挨拶してくるから」と席を外してしまった。自力で会話繋げなければ。


「私、北高に通ってて。今日は応援に来たの」

「そう、なんだ。俺は試合出てた」

「うん。見てたよ。それに、陽がこの学校でメンバー入ってるって元々知ってた」


 ちょっと間違うとストーカー発言になってしまうけれど事実だから。


「マジで?」

「うん。新聞で登録メンバー載っていて見つけたの」

「あー……、あれな。俺も見た。茜が大騒ぎしてたから」


 気恥ずかしそうに、ぽつぽつと話す。やっぱり、変わらないなぁ。


「陽の名前を見つけたとき、対戦相手だけど懐かしいなーって思ったよ。また会えたら良いなって思ってた」


 そうしたら、偶然茜ちゃんに会えて。これって本当に奇跡だよなぁ。

 陽は黙って頷く。


「今日はおめでとう。陽が元気そうで良かったです」

「……ありがと。……ごめん、久々すぎて緊張してる」


 緊張、するよね。私も緊張している。私が心の準備出来ていないのに、陽なんかもっと大変だよな。いきなり来て迷惑だったか。


 しばらく沈黙が続いた。セミのジージーという声と、周りの人々の声が耳に入る。沈黙を破ったのは、陽だった。


「まさかこんなところで会えると思わなかったら。……正直すげー嬉しい」


 私の知らない低い声。だけど話し方はとても穏やかで優しくて。私と会えて『嬉しい』って言ってくれた。胸の高鳴りを押さえるように、きゅっと締め付けられる感覚。これって。


「川嶋! そろそろ帰るぞ」


 先輩らしき人から声を掛けられ「すみません、すぐ行きます」と彼は答える。引き留めてしまったみたいで悪いことしちゃったかな。

 もっと話したいという気持ちをぐっと堪えて「じゃあ私も帰るね。大会頑張って」と彼に伝えた。


 くるりと背を向け、茜ちゃんを探そうと歩き出す。本当に会えて良かったな。ほっこりとした気持ちを胸に歩みを進めようとしたところ、カバンを引っ張られる感覚があった。何だろうと思って振り替えると、私の学生カバンを掴む彼がいた。


「夏希、待って」


 先程よりも近い距離でじっと見つめられる。ち、近すぎる。いくら小学校の頃の友達と言っても、陽はすっかり男の人になっていて、――格好よくなってる。恥ずかしくて視線を逸らしたくても、彼の目はそれを許さない。


「連絡先教えて。()ちゃんと連絡するから」


 陽が『今度は』と言った。もしかして、卒業式の時のこと覚えているのかな。


「おい、川嶋ぁ! いちゃいちゃしてんなよ!」

「してないっす!」


 陽は先輩のことを軽く流してはいるが、本当にもう時間がなさそうだ。何か声をかけなくちゃ。でも、至近距離で見つめられて、頭が真っ白で言葉が何も出てこない。


「俺、後悔してたんだ。小学校卒業してから、一度も夏希に連絡しなかったこと」

「うん」


 私は頷くことしか出来なかった。陽も、私に会いたいと思ってくれていたんだ。それが分かっただけでも、すごく嬉しい。顔が火照ってしまう。


 嬉しいけれど、陽の後ろで先輩らしき人がこちらを睨み付けているのが見えた。そろそろ本気でヤバイんじゃなかろうか。私は頑張って言葉をひねり出す。


「行きなよ。連絡先は茜ちゃんに聞いてもいいかな」

「……分かった。絶対連絡くれよ」

 

 彼はほっとしたような表情の後、くしゃっとした顔で笑った。そして先輩に小突かれつつ、野球部の集団へと走って行ってしまった。


 顔が、熱い。これはきっとあれだ、真夏のギラギラとした暑さのせいだ。『絶対連絡くれ』とか『後悔してた』とか、どういう意味だ。

 ――勘違い、してしまうじゃないか。


 野球部の集団が行ってしまったあと、茜ちゃんが帰って来た。満面の笑みを浮かべながら。


「茜ちゃん、あのお願いが……」

「夏希ちゃん。お茶でもしましょうか。話はそこで聞くわ」


 真夏の野球場という鮮やかな空間で繋がるかすかな縁が、私と陽とを引き合わせてくれた。このチャンスを絶対に手離してはいけない。

 私は茜ちゃんの言葉に頷き、並んで球場を後にした。



 胸の高鳴りはまだ止まない。

 夏はまだ始まったばかりだ。

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