寒さに人肌が恋しくなる頃
相川敦志が漸く懲りたようだと、恋人や友人達が安堵に胸を撫で下ろしたものの、また行方不明になる。十二月の事だった。
麻生理恵は寒さに身を震わせた。
誕生日の件が余程堪えたらしく、あれから真面目に講義を受けるようになった男は教授達からも見直され、尚且つ期待まで寄せられていたのだが、また姿を消した。優秀な頭脳を持っているだけに非常に惜しまれている。
「今度はどんな悪い虫が騒いでるのかしら」
女は呟いて溜め息を落とす。
実はケータイで話した時に「忙しくなる」とは聞いていた。まさか大学にも来ないなど思いもしない、だがこの通話を最後にふっつりと連絡が途絶えたままというのが実情だ。大学内外で姿を見たという噂すら上らない。
このままではいけないと女は捜索に乗り出したが、アパートを何度訪ねても留守だった。
心に焦りが生まれる。
まさかこのまま休み明けまで来ないなんて事は、と。
休みが明けたら試験が間近に迫ってくる、欠席した分のノートはすべてが友人頼み。どれだけ頭が良くても準備もなしに試験に臨むなど無謀だ、結果如何では単位が足りなくなる可能性だってある。
そうなったら……。その先は怖くて考えたくないと、女は頭を振ってこびり付く不安を散らした。
そろそろ不味いと本人も分かっている筈だ。なのに肝心な男が一向に見つからない。それでも大学構内を毎日探し続けた。
一緒に卒業したい、女にあるのはその一念だった。
女は男の友人知人にも尋ねた。
「いやー、ここ暫く見てねーなぁ」
「またかよ、アイツ。もうすぐ休みに入るっていうのに、待てねぇのか……」
男と同じ学部に所属し、講義も同じとする二人に会えたものの、望んだ答えは得られない。
これで連敗記録更新だ。男の事について尋ねた他の友人達も困った顔をした。
あからさまに気落ちすれば、やはり申し訳なさそうな謝罪が返ってくる。
「ごめんなぁ。……あー、アイツに聞いてみれば?」
一人が指す方向を見遣ると、男と中学高校と長年友人関係にある同期生が歩み寄って来る所だった。
仲が良かったのに、二人はいつの間にか行動を共にしなくなった。
あぁ、でも彼だったらと沈んだ女の心が浮上する。
男だけでなく女とも親しくしていて、これまで何かと頼ってきた人物だ。
男が何か遣らかす度に一緒に心配し、フォローしてくれた。大学に入ってからは男に群がる女の子達に向かって「迷惑だ」とはっきり言い、何かにつけ罵詈雑言浴びせられる私を庇ってもくれていた。
「何、どうかした?」
歩み寄って来た人物はひょいと眉を上げて問う。
「探し人だってよ」
「アイツか……」
苦笑い混じりの返答だけで誰を探しているのかが通じた。
しかし、女が寄せた期待は見事に挫かれる。
「あー、悪い。最近連絡取ってないんだよ」
「そうなんだ」
申し訳なさそうに笑う友人に女は曖昧に笑う。仲違いしたという噂が脳裏を過る。あれは本当なのかも知れない。大学に入ってからも男の不真面目な生活を一緒に気に掛けてくれていたのに、何故と疑問が女の心を占める。
先に尋ねた二人は用件が終わったからと去ったが、友人はまだ留まって肩を落とした女をじっと見つめていた。
そして顔を引き締めた友人は、唐突に女に問うた。
「まだこんな事続けるのか?」
改まった友人を女は言葉もなく見つめ、やおら息を吐き出す。
「私が好きで遣ってるの」
「だとしても甘え過ぎ。アイツ、大学に入ってから可笑しいよ。急に姿晦ましたかと思えば平然と講義に出てくるし、散々心配させといてアイツ機嫌が悪いと返事もしないじゃないか。連絡取れないから心配したと言えば、『うっせーな、放っとけよ』と怒鳴る。そうかと思えばノート見せろとか、ホント調子良い。もう付き合いきれねーよ」
眉間に皺を寄せて唾棄する友人に焦りが競り上がってくる。
あんなに仲の良かった友人にまで見離されようとしていた。入学して以来、男が新たに交友を持つようになったのは大勢居るが、その殆どが浅い付き合いで外部生の女の子が大半を占める。今でも密に連絡を取り合うのは中高を共に過ごした友人達ばかりだ。
「ごめんね」
女の所為ではないけれど、突いて出たのは謝罪の言葉だ。友人はふっと息を吐いた。
「いや、理恵の所為じゃないから。……本当は分かってるんだよ。あいつの周りっていつも女共が群がってるんだよな、その女共が俺を攻撃するから、遠ざける為にああいう言い方をしたって。俺が怒ってるのは、理恵に甘えるだけ甘えて蔑ろにする事と、どんな理由でも俺を遠ざけた事だ。俺の為を思うなら頼れって……、本当にあの女共は邪魔だな。でも、本当に考えた方が良いよ。アイツの事では力にはなれないけど、相談ならいつでも乗るから」
長い付き合いの友人も浮気の一件を知っている、彼はそれだけを言うと立ち去った。そう言えば、先の二人も女の子達から良いように利用されかけて逃げたのだと気付く。
このままだと男は孤立してしまう、女の胸に去来したのは嘗て下らない事で笑い合う穏やかな日々だ。その穏やかな日々は遠い。
これまで良かれと思って男のフォローをしてきたが、女の中に迷いが生じた。
面倒臭がりな男の事だから女の子達を侍らしたい訳でないと知っている。単に追い払うのが面倒で、諍いになったらより面倒と考えてるだけだ。
だったら友人はもっと大事にしなさいと女は言いたかった。
男に対し強気な態度で接してきたが、不安がなかった訳ではない。
この前、男に“可愛げがない”と言われた事は存外に堪えていた。不安は大学に入った時には既に抱いていたもので、だけどそれしきの事で泣いて引き込むような性分でもない。
恋人が居なかったら我が儘で面倒臭がりな男の周りからは信頼できる人達は疾うに消えていた筈だと言うのは友人達だ。先程の長年友人関係を続けてきた男も同じ事を言っていた。
「何やってるんだろう」
女は男に届かない呟きを落とす。
誕生日の件以来、ケータイから見知らぬ女の子達の名前が消えたから浮気ではないと確信はあった。
漸く学業に真面目に取り組むようになったあの意気込みも気まぐれではない筈。でも安心していたら、何故だか十二月に入った今になってこの通りだ。
しかし、女の中に諦めるという考えはない。
気持ちを切り替えると、再び捜索を始める。範囲も拡大し、自分の友人にまで聞き込む。
中には全く交友がないと申し訳なさそうに謝ってくる女の子も居たが、誰も彼もが「知らない」「見てない」という返事ばかり。
見掛けたら連絡するよと言ってくれた彼女達に「有難う」と返し、手を振って背を向ける。大勢の人が行き交う廊下を進みながら「あぁもう」と独り言を漏らした。
たった一人に一杯一杯で食欲も落ちている、このところは好物でさえ喉を通らなくなっていた。だから些細な事にも苛立つ。
視界に、名前も知らない女の子達が言葉汚く誰かを罵りながら必死に発信と送信を繰り返す姿が入る。未だ勝手に出回っている男のアドレスを入手した子達だ。彼女達も無しの礫なのだろう。本人達はケータイに夢中で気付いてやしないが、鬼気迫るその表情に恐れをなして周りから遠巻きにされている。
女はそれを脇目で見遣ると「うっとおしい」と心の中で罵倒し、人混みに紛れて通り過ぎた。
絡まれたら厄介だからだ。
男の行方が杳として知れない事態となって初めて群がる女の子達の異常さが浮き彫りになった。大勢の目は存在感のある男の方へと焦点を合わせてしまうので上手くぼかされていたが、其処彼処で目の当たりにするようになった彼女達の怨念にも似た執着には誰もが怯んだ。こうなると人柄を好む好まざるを別にして、男に同情が集まる。
「あれなら逃げるのも無理ないね」と。
侍らせていたのではなく付き纏われていたのかと認識を改めた学生達は、遠巻きに見ながらも傍を通り過ぎようとしている男の恋人の存在に気付いていた。無言で通すのは、あの女の子達が気付けば場所も弁えず諍いを起こすと分かっているからだ。足を止めていた学生達も巻き込まれてはならないと流れに乗って足早に安全圏へと逃れて行く。
こうして男の行方不明は誰もが知るところとなってしまった。
あくまでも男は、群がる女の子達を平等に扱うので誰か一人の電話やメールに反応する事はない。そろそろ分かってもいい筈なのだけどと考えながら、女は更に遠ざかって行く。向かう先は人の少ない所だ。
面倒臭がりな男は好んでそういった地帯に出没する。人目を集めてしまうのはどうしようもないと取り繕った表情の下に隠しているが、興味のない相手には口を開くのも面倒と考えているのが男の本性である。
「あぁ、誰にでも良いから返信してくれないかな……」
女の執念が実るのは、休みまで後一週間という時。
女は漸く男を捕まえる事が出来た。
昼時の構内をのんびりと歩く姿を見た時は流石に腹が立った。しかし、珍しくも周りには女の子が誰一人としていない。
男がこの時間にやって来たのは、今ならば食堂に集まって他はガラガラだと考えたからだ。女にはその思考回路が手に取るように分かった。
男が気付いて逃げを打つ前に女は声を掛ける。
「こんな所でなにしてるのよっ、皆探してたのよ!? もうすぐ休みに入るの、年が明けたら試験よ、忘れてないでしょうね?」
「試験……」
ぼんやりとした顔でしばし絶句した男はしどろもどろと言い訳を始める。
「地下にいて……、ケータイ通じないから放っておいた……」
「なにそれ……」
女はがっくりと肩を落とした。面倒臭がりの男らしい理由だ。
もっと大層な理由を想像してただけに、気落ちは大きかった。本当に残念な男だと女は内心で呟く。
「とりあえず、説教は後回しよ。今日見つからなかったらノートや必要な資料をコピーさせてもらおうと考えてたのよ、来て! 今食堂に皆集まってるから」
女は返答を待たずぐいぐい引っ張って行った。
食堂に入ると、直ぐに目敏い女の子の集団から大きな声が掛かって煩くなるが、呼ばれた男は知らぬふりで通り過ぎる。
中には近寄ってきて女が掴んでる方とは反対の腕を引く女の子も居たけれど、男は無言で振り払って視線すら向けようとはしなかった。
誰にも関心を示さない、これが男なりの処世術“平等の扱い”だ。自ら話し掛ける事はないし、係る時は場所と人目と相手を選ぶ。
例外は親しい友人達だけ。こうして。
「……久しぶり……」
男は自ら声を掛けた。引っ張られてる事が、一見して男の意思を無視してるようにも映るが、実はそうではない。
面倒臭がりな男だけど、恋人相手へのこれは単なるポーズでしかなかった。その証拠に、掴まれている手でがっちりと握り返している。内心は表面を窺っただけでは測れない、扱いも実に面倒臭い男だった。
「……生きてたんだな、俺らはもう退学でもしたんじゃないかって話してたんだよ」
辛辣な言葉を返されても飄々とした男の態度は変わらない。友人達もこの程度でキレないと分かってるから態とそういった言葉を選ぶ。
「んー、来たらもうすぐ休みだって言われて、俺、びっくり……」
「びっくりじゃねぇよ、どんだけ心配したと思ってんだよ。みーんな! オマエなら遣りかねねぇなって頭抱えてたんだ! 理恵に捕獲されてのこのこ来やがって、心配した俺らの気持ちを返せ!」
「ゴメンナサイ?」
首を傾げて謝罪の言葉を吐いた男に、友人達の米神に血管が浮き出る。
不味いと思ったのは男を連れてきた女の一人だけだった、咄嗟に大きな声を上げて友人達との遣り取りを中断させる。
「あぁっ、こんな事してられない、時間! ご飯も食べないと、まだなんでしょ? 早く座って! ほら!」
椅子を一脚引いて男の両肩に手を掛けると、女は有無を言わさず座らせた。すかさず開いている椅子にバッグを置いて何にするのかと尋ねる。この男を今自由に歩かせたら余計なのが寄って来るからだ。
「取りに行ってる間に謝罪と交渉を済ませておいてね」
それだけを言うと急ぎ足で女は遠ざかる。その間も男の目は恋人を追っていた。
「あの様子では直ぐに戻ってきそうだな、さぁーて、誠心誠意、謝ってもらおうか」
友人達の視線が一斉に男へと集まる。
「……そうだね、何だか心配掛けたみたいだし」
謝罪する気になったようだが、その態度は今から頭を下げるようなものではない。二人分の昼食を持って女が戻って来た時にはすべてが終わっていた。
友人達からのプレッシャーなどものともせず昼食を平らげた男は普段の面倒臭げな気怠い雰囲気を払拭し午後から精力的に動き回る。
謝罪は受け入れられたらしい、協力者の中には一番仲の良いあの友人も居た。
仏丁面で謝罪を聞いていた彼も何だかんだと不満はあったが、結局見離すことはできなかったようだ。同じ講義を受けてるから欠席していた分のノートや必要な資料のコピーは彼がほとんど集めていてくれた。
「ほらよ」
「有難う、……それとゴメン」
二度目の謝罪は遠ざけた事に対するものだ。
「次はないからな? こんな事絶対にするなよ? それから理恵をもっと大事にしろよ」
友人からの忠告を神妙に聞いていた男の口元が急にへの字に曲がる。
「何だよ」
友人が言えと促すと、益々仏頂面になっていく。
「…………、お前が……」
「俺が何?」
「……お前が理恵を呼び捨てにするな!」
「何でだよ! 俺だけでなく、友達は皆“理恵”って呼んでるだろう!?」
「腹が立つんだよ! あんまり仲が良いから!」
友人は「子供の嫉妬かよ……」と呆れた顔で見返す。
湧き上がる笑い声を聞いていた女の心にもいつの間にか穏やかさが戻っていた。
それは皆が実感していた、以前はいつもこんな感じだったと。大学生になって何でも無い事で笑い合えたのはほんの一時の事。持ち上がり組の内部生と大学から入学した外部生とが入り乱れた女の子達に囲まれるようになって男はあっという間に身動きが取れなくなった。
接触が難しくなると不器用故に周りを遠避けたのは失策だ。完全に元通りとなるには時間と男の信用回復とが必要になるが、これからも他愛無い事で肩を叩きあい、笑って過ごせる日が来たら良いと女は胸を撫で下ろした。
とりあえず、男の講義が終わるのを待って説教しなければならない。心に決めると、ノートのコピーを捲っていた恋人ににっこりと微笑み、一緒に帰る約束を結んだ。
「今度は何してたのよ、この調子ならいつか単位落とすわよ? 少なくとも講義には真面目に出て。これじゃ何の為に大学に通ってるんだか分からないじゃないの」
帰り道、恋人と二人っきりだというのに口から出るのは色気も何もない言葉ばかり、しかしこんな時でないと男には通じない。
「……わかってる、遊んでた訳じゃない……」
やたらと意気消沈激しい男に首を傾げた女は、「知ってるわ」と返して気分転換を図った。
行方不明の間に一体何をしていたのかはまだ聞いていないけれど、この様子では本当にうっかりしていただけという可能性もある。
「ねぇ、もうすぐクリスマスじゃない? 予定空いてる? なければ一緒に過ごそう」
「イブー? んー、……夕方からクリスマスまで空いてる」
気のなさそうな返事だけど、男の声が僅かに浮き立っている。
空けられていた聖夜に女も顔が綻んだ。
「私、チキンとケーキ持っていく! それから……他に何が良いだろう?」
「何でもいいよ、俺、飲み物いろいろ用意しとくから」
「んー、分かった。サラダやパスタで良い?」
パスタは男の好物の一つだ。どうでも良さそうな返事だけど、声音は明るかった。
寒さが足元や隙間から忍び寄る、人肌が恋しい冬の季節だった。