冷たい風が吹き荒ぶ頃
高校の卒業式が近付いた頃、相川敦志はふと思い出したように誘いを掛けた。
「なぁ理恵、大学に入ったら一緒に住もうか?」
実家から通うにはキャンパスは遠い為、一人暮らしをする積りだった。一人より、二人の方が家賃も水道光熱費も折半出来るし、安上がりな分良い所にも住める。男には弟が一人居て、その弟も同じ私立大を目指している。一年生の間は良いが二年生からは親からの支援もあまり期待は出来ない、だから恋人に同棲を持ちかけたのだが彼女の表情はあまり芳しくない。
「んー、友達を呼ぶ時に気を遣うことになるわよ?」
男が思った通り、返ってきたのはお断りの文句。恋人達が住む部屋へのお宅訪問は余程親しくない限り遠慮しそうなものだが、付き合いがあるのかも分からないのに図々しく上り込みたがる相手は断れば良いだけだ。それは両者共に分かっているだろう。これは単なる建前のようなものだった。麻生理恵には同棲に躊躇する理由が他にある、未だに『大丈夫かな?』と心に引っ掛かっていた。信用しきれないと言った方が分かりやすいかもしれない。許したとはいえ、男が浮気した事を忘れてはいなかった。
だから女はこう答えた。
「大学でも会うんだから、それに親が許さないわ」
男は恋人の言い分を渋々と受け入れた。
何も変わらないという思いは、内部生と外部生が入り乱れる大学生になってから一変する。
成長期を経て大人の領域に差し掛かった相川敦志の人気は更に上がった。彼の周りにはいつも可愛い女の子が集り、麻生理恵は用があっても邪魔をされて声を掛けるのも儘ならなくなった。
同性からは嫌われがち男だが仲の良い友人達も居る。しかしその彼らも女の集団に恐れをなして近寄ろうとしなかった。
男に近寄る人間は群がっている女達によって利用出来る者と排除する者とに分別されるからだ。
顔がちょっと整っていたら、とりあえずキープという扱い。女子力の高い子達はお友達として距離を詰めながら本命への狙いも逸らさず、双方にアピールすることも忘れない。
一方で不要と烙印を押された者達へは、陰であの手この手を使って攻撃する。
ただ顔が良くても、一度でも彼女達の機嫌を損ねたら攻撃対象となるので要注意だ。
男と一番仲の良い友人も本来ならご友人枠として高待遇を受けるはずだったが、歯に衣着せぬ物言いと男の恋人とも友人関係にあること、それから女の肩を持ったことで攻撃対象へと転落した。
男がそれを知らぬ筈がないが、二人の間に何かがあったのか、いつの間にやら一番仲の良かった友人は男の傍から姿を消していた。
甘い蜜に集る虫のような女達は笑いさざめき合いながら男の周りを飛び交う。互いに牽制し合ってはいるが、共通の敵となる相手には一時共闘を組む強かさを見せる事もある。それが男の周りに群がる女達の特徴だった。
必然として男に入る情報は偏る。
友人達が揃って腰を引く中、威嚇されようが罵倒されようが、それでも恋人である女は諦めなかった。サボりがちな男を探して出席を促し、欠席した分のノートをコピーし、レポートの提出期限が迫れば資料を集めて提出まで見届ける。
入学して最初に迎えた試験を女のお陰で如何にかクリアした頃には、教授達の間で男は不真面目な学生として有名になっていた。
大学生となった今では、こうして度重なる事態に厭う事無く先回りをして世話を焼く物好きは付き合いの長い恋人の一人だけ。以前は互いに腐れ縁と称する友人が共にいたが、先に述べた通り、彼の姿は男の周囲で姿を全く見なくなっていた。無責任な者達は、二人が仲違いをしたと噂を流している。
事実かどうかは本人に訊ねなければ分からないので反論のしようもないが、仲の良い友人が男の傍に居ないことが真実味を増し、女は悔しくて手を握りしめる。
群がる女達が視界に入るたびに内心毒づく、「こんな子達さえ居なかったら」と。
男の評価は下降線を辿る一方だ。
一番仲のいい友人は男にとって砦のような役割をずっと担っていた、その彼が居ない。他に注意する者はもちろんいなかった、そうなれば彼女達が暴走するのは火も見るよりも明らか。男の周囲は悪化した。
公共の場ではしゃぐ女達、連れを放って秋波を送る女達、廊下を広がって歩き、不用意に男へ近付く者はそれが同性であろうと許さない、女達がのさばればのさばる程、男は同性から嫌われていった。
誘惑を飄々と躱しながら、男は悪意と好意の正反対の感情を集めていく。
暴動騒ぎに発展しなかったのは、群がる女達を男は平等に扱っていたからだ。
顔だけしか見てない彼女達には、ノートのコピー一枚であっても下心がある。
それを良くも悪くも知ってるのも、彼女達の視線を集めている男だ。
一度として、彼女達から受け取った事は無かった。
そうして男の誕生日が近付いてきた頃、レポートもまた提出期限が迫っていた。
女は構内で見掛けて果敢にチャレンジしたけれど、甲高い笑い声や賑やかな話し声に邪魔されて声を掛ける事すら叶わなかった。
「本当に、邪、魔! もう!」
群がる女の集団に恋人を連れ去られ、腹を立てる女一人が其処に残された。
女が夜に恋人のケータイに連絡を入れるのは最終手段だった。
耳に当てたケータイから呼び出し音が流れてくる。
繋がれと願いながら数えていると、ふつりと途切れた。
「はぁい」
持ち主の男の声からかけ離れた可愛らしい声に息が止まる。
掛けたのは確かに男のケータイだった筈。履歴から掛け直しているから間違いはなかったが、それでも確かめてしまうというのが性分というものだ。
耳元からケータイを離してまじまじと見る。何故こんな時間に恋人でもない女の子が出るのと愚痴が喉元まで競り上がってくる。
「……」
再び耳に充てるが状況は何も変わらない、男に代われと態々言わなければ代ってくれないのだろうかと、女は眉を寄せた。
無言である理由もわかってる筈、なのに顔の見えない相手は考慮しなかった。
「だぁれ?」
ケータイからは先程の陽気さとは違い、ドスを利かせた女の子の声が流れてくる。聞き覚えのあるそれは、脅しの場面で発するのが一般的な使用法だ。
男には絶対聞かせない声音だろう。
「彼、今シャワーを浴びてるの。伝言あったら伝えとくけど?」
ケータイをそちらに向けたのか、微かに水音が聞こえてくる。
息を呑んだ。
やはりそんな関係なのかと女の心がじくじくと痛む。今回は目撃した訳ではなかったが、苦しさは何も変わらなかった。
「ねー、分かったでしょう?」
だから邪魔しないでと、低い声で恫喝されて一方的に途切れた。
女は一言も喋る事が出来なかった。
だらりと下がった手に握られたままのケータイを見つめ、「……そんな……」と口から漏れる。
女の子を周りに侍らせていても行為には至ってないと思ってたからだ。
平等に扱ってるからと、そう思い込んでいた。
信頼していた方が悪いのか、それとも何か思う所があるのかと思考を巡らせる。この場合は裏切られたと恋人を詰ってもいいのだろうかと逡巡した。
何をどう責めても『面倒』とでも言いそうだ、最近は会えなかったからどんな反応が返ってくるのか予測すら付かない。
女は愕然と真っ暗になったディスプレイをじっと見続けた。
声の主は男には花が咲いたような笑みを向け、影ではあからさまな剥き出しの嫉妬を向けてくる取り巻きの中の一人だろうか、対面したところで顔には見覚えがあっても名前までは分からない。女は恋人ということで男を狙っている女の子達には酷く嫌われている為に極力係らないようにしている。個人情報については皆無だった。
係って何も良い事などある筈がない。
これまでに散々脅され、威嚇され、罵倒されてきた事が証明している。
この夜を境に恋人と連絡が一切取れなくなる。
電話は繋がらないし、メールはエラー。大学でも遭遇しない日が続いた。
男が姿を晦ませるのは以前から度々あったが、選りによってこのタイミングでと女は零す。
でも持ち前の性分が男を放っては置けなかった。
それから数日間、女は他人のレポートの為に大学構内を走り回った。会えたら、一言男に言わなければと、決意を心に秘めて。
浮気の件は後々問い質すとして、この調子では何れ単位を落としかねない。そうなったら留年、最悪の場合は退学。自然と女の顔が歪む。
高校生の頃はこうではなかったのにと、女の口から愚痴めいた言葉が落ちる。勉強は適度に力を抜いて、一人を好きと言いつつも不特定多数の女の子と遊ぶ。その遊びも様々だ、健全なものから際どいものまで。浮気は現場に踏み込まれて以来なかった。その一回も、放って置かれて寂しかったという身勝手な理由だったが。
結果はきちんと出していたし、遣るべき事はしっかりと遣る男だった。それに、ここまで不真面目ではなかった。
その姿を知ってるだけに、何が男をそうさせるんだろうかと女は歯痒く思う。
「伊達に長く付き合ってないのよ」
だからこそ情を抜きにしても、男を放っては置けなかった。
いた!
明日がレポートの提出期限という午後、たった今来たばかりらしい相川敦志の後ろ姿を漸く見つける。
恋人が浮気した事など、この瞬間に頭の中から吹き飛んでいた。
このまま中に入られたら男に群がる女の子達に押しやられて話が出来なくなる。
この偶然を逃してなるものかと麻生理恵は全力疾走した。
「待って!」
耳に馴染んだ恋人の声に、男は足を一旦止めて振り返る。
しかし、向けられたその表情も吐き出された声も不機嫌極まりないものだった。
「何?」
僅かに目を眇める仕草は女受けがいいのだろう、イケメンでクールだけど笑ったら可愛いと評判の男は
単に面倒臭がりな男だというのに。一体何処を見てるんだかと女は心の中で毒づく。おしゃれ男子らしい細かな部分にまで拘ったコーディネートが目に留まり、これが大勢の女の子達の目を晦ませているのかも知れないと正解を導き出す。
恋人に対する態度についてはさておき、面倒臭がりで更に我が儘な男の気が変わらない内に大事な要件から伝える事にする。
走ってきた女は息を整えてから口を開いた。
「連絡取れないから探してたのよ」
「は? いつ? 何も来てないけど?」
繋がらないから女はこうして走り回るはめになっているのだが、ケータイを取り出して着信をチェックする男は素っ気なく言い捨てて口元を歪める。
「電話したわ! 何度も!」
女の子が出たけどね! と、喧嘩に発展しそうな言葉は心の中に留める。
意地の悪い言い方に女はいつになく感情的になったが、寸での所で言葉を飲み込むことが出来た。
女にとってこれは忘れていたかった事項でもある。浮気と言っても女の子の自己申告があっただけで証拠もないし、現場を見てもいない、この状況では男を責める事は出来ない。と言っても、これはただの言い訳だろう。高校生だった頃にはここまで躊躇いはなかった、いつの間に弱くなったんだろうと自嘲した。
以前に現場をもろに見てしまった所為か、やはり見知らぬ女から浮気を仄めかされたのが堪えているのかも知れない。
でも止まってよかったと良かったと一方では胸を撫で下ろす、浮気の件は後回し。男は超ご機嫌斜めだ、ここで持ち出したら感情的になって喧嘩になってしまうのは目に見えている。
しかし、男は女の心の内など慮りもせず言い放つ。
「無いよ」
「したわ! ほら!」
女は発信履歴一覧を向けるが、男は見もしない。
一息間を置いて、女は目の前でリダイヤルボタンを押す。
だが男のケータイはウンともスンとも言わなかった。
「……え?……そんな!ちゃんと繋がってたんだから!」
戸惑い大きな声で訴える女に男は鼻を鳴らす。
「電話一本寄越さないかと思えば、一人で大騒ぎ。口喧しく説教するわ、カレシのアドレスは間違ってるわ、俺ってお前の何なんだろうな」
男は最後に可愛げがないと言い捨てて背を向けた。
「そんな……」
女は唖然と立ち去る男を見送った。
有り得ない。
男がアドレスを変更したとは聞いてないから、最後に繋がった履歴はあの見知らぬ女の子が削除したのだろう。もしそうなら折り返し連絡がなかったのも納得ができる。
少なくとも、恋人と友人に対しては後で連絡を返す男であった。
他人のケータイを勝手に弄るなんて非常識。怒りが湧き上がって来て、はたと我に返る。
漸く捕まえることができたのに、今ここで諦めたらこの数日間の努力が無駄になってしまう。
男にも浮気相手の女の子にも腹は立つ。でも用件はケータイの事だけではない、もっと肝心な事があるのに。
女は慌てて男を追いかけた。
直ぐに男の姿を見つける事が出来たけれど、男の足は止まらず差は少しずつ開いて行く。
女は咄嗟に大きな声で番号の羅列を男の背に向けて投げつけた。
女の思惑通り、男は足を止める。
ただし、物凄く不機嫌になってしまったけれど。
「間違っ、……て、……ないでしょう?」
息を弾ませながら切れ切れに紡ぐ。
女は逃げられるのを懼れて腕を掴むも、男は邪険に払う。恋人へ対する態度ではなかったが、良くも悪くも周囲には人影すらなかった。
女は諦めずに前へ回り込んで訴える。
「ケー番、間違ってないでしょう?」
「……」
男は無言だけど、その顔は一目で地を這うような機嫌と分かる。
それがまた正しいという答えだった。
「ケータイ、どうなってるの? 数日前の夜を最後に通じなくなったのよ、メールだってエラーになるの」
今度は感情をやや抑え気味に尋ねる。
恋人の番号は今では空で言える。
ケータイに登録している番号も間違ってないと確かめた。
だったら考えられる原因は、やはり男側にある筈だ。
今回は中々引き下がらない女に、男も漸く可笑しいと気づく。面倒臭そうにケータイを取り出すと、もう一度履歴に目を通した。
しかし、やはりそこには女の名前は表示されていない。
「……やっぱりナイ」
「えぇっ、まって……ほら!」
女に発信履歴を見せられて男は眉を寄せた。
比べてみると確かに可笑しい事が男にも分かった。自身のケータイには誰だか知らない女の名前が並んでいるが、ある筈の名前が一つもない。
どーなってるんだ?
二人同時に首を傾げた。
「この“ヨーコ”って誰?」
履歴に度々出て来る名を女が指せば、男はそっけなく返した。
「知らない」
男の表情は相変わらず不機嫌さ丸出しの仏頂面だが、微かに焦りが潜んでいる。
口角が徐々に下がって行き、への字になっているのも本人は気付いてないのだろう。今度は電話帳を開き麻生の「あ」行を見ている。記憶が正しければ、開いてすぐに出てきた筈だ。
女はケータイの電話帳のあ行をに目を通す男をただじっと見守る。
さぞ大変だろうと心中で思い遣りながら。
男のケータイにはアイだのナナだのユウだのといった、下の名前で登録された氏素性の分からない女の子が多くを占めている。要するにそれらは、一夜限りのお相手だったり、恋人の座を狙ってる女の子だったり、男に群がるその他大勢の女の子の集団だったりする訳だ。
呆れることに、男にとっては顔と名前が一致しない程度の女の子達でしかない。
その場のノリで登録したり、知らぬうちに勝手に登録されたりと、女の子達が言葉巧みに男を誘導する。だから男はアドレスが欲しいと必死になったことはない。恋人とも話の流れで交わしたに過ぎず、それはまだ友人であった頃の事だ。
男はこれらの氏素性の分からない女の子達を平等に扱う、女の子達が電話を掛けても出る事はないし、メールも読まない。人目のあるところでの誘いにもけして乗らない。
だというのに、男のアドレスはその女の子達によって広く出回っている。
その顔も思い出せない相手のアドレスで埋まったケータイを持ったまま十二分に躊躇った後、男は「無い……」と呟く。
二人の間に溜め息が落ちた。
男の肩が震える。
吐き出した女には恋人を責める積りも謝罪を求める積りもなかったけれど、意図せずしてそう受け取られたようだ。
女の吐いた溜め息に怯えた男は、未だにケータイを睨み付けたままで顔を上げようとしない。
「ロックしてないでしょう? それって気付かないうちに覗き見されてるかもしれないし、勝手に弄られてるかもしれないのよ?」
女はどれだけ親しい間柄でもそんな非常識な事はしないが、この男に群がる女の子達はその限りではない。常識や礼儀をどこかに置き忘れてきている集団だ。
そんな集団要らない。心の中で毒突いて恋人からの返答を待つ。
男は女の言わんとする事を漸く理解していた。
「ちっ」
男は気まずげに舌打ちしてそっぽを向く。
脳裏には先日関係を持った女子大生が過った。既に顔も覚えていない相手だ。
あの女め……。
男は下の名前で登録された訳の分からない女のアドレスを削除する事を誓ってフリップを閉じた。
くそっ。
男は心の中で悪態をつく。罵声は止まらない。何だってこんな事にっ。
男がこうも焦るのは、以前浮気がバレた時に、「共有する積りはない」とはっきり言われていたからだ。
男は傍で毅然と見つめてくる恋人の腕を掴んだ。
「何?」
女は少しも感情を見せない声で掴まれた腕に一旦目を落とし、男を見返す。
「……ゴメン……」
しょんぼりと背中を丸める姿は情けない。
でも女は面倒臭がりで甘ったれで、我が儘だけど妙に素直なこの男だからこそ、好きになった。
それを実感する。
「今日は他にも用件があったのよ、レポートの提出期限、明日までだから」
そう言うとノートや資料のコピーを取り出して男に差し出す。
欠席した講義すべてが揃っていた。男と同じ講義を受ける友人にお願いしてコピーさせて貰ったものだ。お礼はその友達に言えばいい。
用意周到に準備されたそれを男が受け取ると、女は陽気な声で「誕生日おめでとう」と発して、コピー用紙の上にトリコロールカラーのリボンが掛けられた小さな箱を落とす。
男が驚いた顔を上げれば、女は残念と言わんばかりに肩を竦める。
「今夜のお祝いは見送りね」
「……」
男は愕然と口を開いたまま女を見つめ、そして閉じる。
自身が招いた事とはいえ、あまりの悔しさに唇を噛み締めた。
その男の顔は幼く、「嫌だ」と駄々を捏ねられたら女もつい絆されてしまいそうに可愛い。
「また日を改めてね」
先手を打った女は手を振って背を向けた。
結局、男のケータイが鳴らなかったのは、女の登録された名前が勝手に書き換えられ、更に拒否設定されていたのが原因だった。
この日以降、男は中身の軽くなったケータイにロックを掛けて、肌身離さず持ち歩くようになる。
気付けば暦はすっかり秋だ、流れる風が冷たいものに変わる季節だった。