気怠い残暑の頃
相川敦志と麻生理恵の二人は他の誰と過ごすよりも一緒に居る時間は長い。
けれど二人の交際が一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、半年と続いて行くうちに馴れ合いからか、気付けば擦れ違いが生じていた。
まずやって来たのは夏の長期休み。休みとはいえ特別講習が行われる為に学校で顔を合わせるが、それ以外の日には待ち合わせでもしなければ絶対に会う事はない。二人は付き合いだしたばかりという事もあって、マメに連絡を取り合っていた。
そんな休みが明けて、次に目の前に迫って来たのは文化祭。これも文化委員会なるものが発足されているから、その役員となった生徒を中心にクラスを纏めるだけで良かった。
でも忙しい。別名、雑用係というクラス委員長の名は伊達ではない。各クラスでの出し物の準備の他に部活をしている生徒はそちらの準備もあって慌ただしく、人手が足りなくなる事もしばしば。抜けた穴の分も働くのはやはりクラス委員長という肩書を持つ二人だ。
本番が近付いて来るとギリギリまで学校に残る日も増えて行く。二人っきりになっても話題は文化祭の事ばかりだった。
「あー、……疲れた……。買い出し組にアイス頼めば良かった」
クラスメートが暫し手を休めて話に花を咲かせる中、壁に寄り掛かるように座り込んだ男から零された言葉に、ふっと女が吹き出す。クラスメートの手にはそれぞれ頼んだものが握られている。男の言う買い出し組はつい先程戻って来たばかりだ。文化委員と采配の相談をしていた男は、彼らが態々「他に買ってくる物はない?」と声を掛けたのにも気付かなかった。その一声で騒がしくなったというのにだ。必須な物は前以て一覧にしたメモを渡してある、関係のない物まで買ってくるというのは暗黙の了解となっていた。頼み損ねたのは残念だけど仕方が無い。
しかし、面倒臭がりな男が逃げずに真面目に取り組んでいる事は評価しなければならないだろう。
「はい、私からの差し入れ。ソーダアイスで良かったんだよね?」
「うああぁぁぁっ、理恵! 大好き!」
女が二本握られていた内の一本を差し出すと男は飛びつかんばかりの勢いで受け取り、外袋を剥がして食べ始める。それはもう嬉しそうに。
こんな愛嬌のある顔で言われたら、恋人でなくとも絆されてしまう。笑みを零し自らもアイスで涼を取った。
「本番までもうちょっとね。終わったら寂しくなるかも。でも……ぼんやりはしてられないわ」
終わってもほっと息を吐く暇はない、今度はテストがある。座り込んだままの男は一息吐いて笑う。
「理恵は真面目だね」
「そうかな」
先の事ばかり考えていた女は聞き流した。
文化委員の号令が掛かり、手を休めていたクラスメート達が動き出す。二人もじっと止まってはいられない。女にも声が掛かる。
呼ばれて離れて行った恋人の後ろ姿を見送り、男は「何か面白くない」と呟いた。
真夏は過ぎたとはいえ、まだまだ暑い日が続いている。
男が浮気するようになったのはいつの頃からか。
始まりは違和感。男が面倒と言っていた事にも逃げずに取り組むようになった。用があるときは行先を告げてから教室を出る。つまり、遊びがない。それが女の心に疑いを擡げさせた。
観察していると友人とふざけ合って笑ってる姿は今までと何も変わらない、その友人達も含めて試験勉強に集まった時は並んで座って真面目に取り組んだ。
誰かに聞けば「まともになった」と言うだろう。でも可笑しいと女は首を傾げた。
そして次の変化がやって来る。部活動をしていない二人は帰宅するのも一緒で、デートと称して寄り道だってすることもあった。ところが男からの突然のキャンセルが徐々に増えていく。決定的な証拠はない、でも間違いないと女は思った。
問い詰めるにはまだ不十分。
女が一人で恋人を待つ姿が教室で良く見られるようになった。追いかけっこする二人の姿はもうない。
高校二年になっていた。
相変わらず相川敦志と麻生理恵の二人は同じクラスの出席番号『一』で委員長を務めている。それから日直の相方でもあり、恋人という関係も続いている。
放課後、すぐ戻ると言って教室を出た男から着信が入った。
『ゴメン、急用が出来たから先に帰る』
女はそれなら仕方がないとあっさり承知する。
「うん分かった。また明日ね」
男が下級生の女の子に呼び出されていたのを女は知っていた。
窓から外を覗くと、男が見知らぬ女の子と手を繋いで帰って行く姿が見える。
「一体、どんな用事なのよ」
女が呟いた言葉は誰に聞かれることなく消え失せた。
キャンセルの理由はある程度決まっている。「家の用事で早く帰らないといけないから」「地元の友達と遊ぶ約束してるから」「バイトのピンチヒッターを頼まれてさ」「男だけで遊びに行く約束してるんだ」それと、たった今男が言った「急用が出来たから先に帰る」この五つ。
使い回しの言葉に対し、女は用件や相手や場所を訊ねた事など一度としてない。
男はモテる、女はそれを承知で付き合っていた。彼女持ちと知られていても告白が絶えない事も、男の方が彼女が居るからといって断ってる訳ではなさそうな事も。女はすべて承知していた。
高校に入学して女が感じているのは、中学生の頃と比べて積極的な女の子が増えた事だ。その一因となっているのが、必ずしも望みがないとは言い切れない男の言動だった。
それらを裏付ける証拠に、恋人との約束をキャンセルして別の女の子とデートしている。
「出来るなら綺麗に隠してくれたら良いのに」
手を繋いでキスしてそれで”さようなら”で終わらない事くらい女も分かっている。知らなければ良い、見えなければ良い、そう考えていた。
いつだって女の元へ帰って来ていたから。
男は高校に入って男振りが上がり、言い寄る女の子達が引きも切らない。中学の頃はここまでではなかったと声を揃えるのは中学の頃より仲の良い友人達。公言こそしないけれど、女の子達の間には、そんな男と付き合うというのは一種のステイタスという認識も一部にある。
まるで見世物パンダ。そう女は思った。
何を考えているのかと、二人が意思疎通を図るには遠く距離が開き過ぎていた。
つい先日まで、たしかに女はキャンセル程度の事で動揺はしなかった、けれど恋人としての認識が根底から覆るような事を目の当たりにする。
相川敦志が他の女の子と空き教室で致している現場に麻生理恵は偶然踏み込んだ。
「あ、見つかった」
恋人に見られた男の第一声は切迫感も何もない、呑気過ぎるものだった。男の腰を跨いでいた女の子は可愛らしい悲鳴を上げると、急いで降りて足首に絡まっていたショーツを引き上げる。
その間、男は誰に何を気遣うでもなく淡々と自分の身形を整えていく。声もなく入り口に立ち尽くす恋人への弁明も、女の子のフォローも一切しない。
余裕のある過ぎるその態度は怒りを一点へと向かわせる。
逃げるように走り去る女の子が擦れ違いざま女を睨み付けた。
背筋を震わせるような眼差しだ。相当恨んだろう。しかし男の恋人を恨むのは筋違いというもので、女は浮かんできた“八つ当たり”という言葉を呑み込み視線を受け流す。
ざわめきの遠い廊下に先程の女の子の足音が響いた。遠ざかって行くそれを窺がいながら女はそっとドアを閉める。
人気の無い地帯に位置する教室とはいえ誰かが遣って来ないとも限らないからだ、自分のようにと女は自嘲の笑みを口元に刷く。
二人っきりとなった空き教室内には、恋人という甘やかさのない無言で見合う時間がただ流れる。
これまで恋人が他の女の子と手を繋いで帰っていても、女は好きという気持ちが揺らぐことも、一度として別れを考えた事すらもない、
だけど、平気でいられる筈がなかった。
理由を訊こう。
感情任せに泣き叫んで問い質せば、男は鬱陶しく思うだけ。恋人に好きと言った唇で「面倒」と吐いて、抱きしめた腕と手で突き放すだろう。
走り去った子と同様に、その先にあるのは別れ。女にそこまでの覚悟は出来ていない。
無言で見合う男に深刻さは無く、荒れる心を抑えて、女はあくまでも冷静さを失わないように問うた。
「あの女の子が好きなの? 飽きたならそう言って」
感情の揺れを気取られないよう、何の感情も含めず一言一言を男に告げる。
「あれは遊び。しつこいから相手をしてあげただけ」
この言葉に嘘はなかった。事実、男が口説かなくても女の方から寄ってくるのは今に始まった事ではない。
「じゃあ、浮気は止めて」
それもこれも手を出したのが原因ではないかと責めると、男の表情は何故か笑顔になる。
気怠い表情に笑みを乗せた男に反省の色は見えない。先程の言い訳も、まるで恋人が来るのを待っていたかのような言い様だと女は心の中で呟く。
脳裏に追いかけっこをしていた日々が過る。
ふっと溜め息を一つ吐いた。
「私、敦志を誰かと共有する積りはないわ」
暗に、次に浮気したら別れると言い含めれば、男は「俺も」と空々しい事を返す。
「俺だけを見ていてくれないから寂しかったんだよ」
自分の事は棚に上げて余所見が多いと男は責める。
その言い分に女が眉を寄せた。
真面目に取り組んだり、待たせた挙句のキャンセル、あれらは気を惹くための確信的な行動だったというのか。
「だって、友人だった頃と変わらないからさ」
顔を覗き込んだ男は眉を下げ、もっと特別な感情が欲しいと潤んだ目で訴えた。
狡い、この顔に弱いのに。
女はぐっと唇を噛み締めた。
やるべき事をやっておきながら二人の間に甘やかな雰囲気はない、恋人といっても友人だった頃の付き合いの延長といった風だ。
じっと見つめた女はやおら溜め息を吐く。
それが男を許したという言葉の代わりにだった。
「理恵大好きだよ、俺だけを見てて」
好きという言葉さえこの男にかかったら単なる言葉遊びに聞こえる。それでもこの男が好きなのだと自覚させられれば白旗を振るしかない。
その後も男を狙う女は後を絶たず、女は溜め息を零すこととなる。
盛夏は過ぎ去り、気怠い残暑の季節だった。