放っておけないのは、君だから (朱夏視点)
有花の存在が、とても疎ましいと思っていた。
なぜ平気で面を晒せるんだ。なぜそこにいるんだ。そう思うと苛々が募って何度か彼女に当たったこともあった。
けれども、その気持ちが大きく変わった事件があったのだ。
あれは夏の終わり。偶然に有花が自分の店に来たのがきっかけだった。
俺が顔を出した瞬時に相手の顔も強張ったので、恐らく向こうも驚いていたに違いない。帰れと摘み出そうかと思ったが、相手は本当に知らなかったようなので、愛想笑いを浮かべながらサービスでデザートを出してやることにした。
有花も出されたものを食べないわけにはいかないと思ったのか、すぐにそれに手をつけはじめた。
「……おいしい」
考える間もなく口から出た言葉だったのだろう。その言葉を飲み込むように、慌てて一掬いして口にスプーンを突っ込んだ。
けれども、それも無駄だったようだ。本当に美味しかったのか、ふにゃりと有花の顔が緩んだのだ。
その時、何も言葉を出せずにいた。まさかの反応に驚いていたのだ。あの有花が笑っていたのだ。恐らく、これが彼女の素直な笑顔だったのかもしれない。
初めて見た彼女の笑顔だった。
ちゃんと笑えるんだと思ったら、霞がかった思考が晴れた気がした。
いや、恐らく俺はこの瞬間までちゃんと有花のことを視界に入れていなかったのだ。
「……そないに美味いんやったら、また来てもエエで」
気付いたら言葉にしていた。それは己の本音でもあったので訂正もしなかった。
その言葉に有花は予想通りに固まってた。ポカンとした表情でこちらを見つめていた。
その様子に、この子は普通の少女だったと自覚して自然と笑みが漏れる。
すると、有花は視線を逸らした。
「お金、あんまり持ってない。今日が特別なだけ。だから、もう来ない」
はっきりと現された拒絶の言葉は、こちらが想定していた通りのものだった。
当然だ。嫌われている相手の店に顔を出しに行くなど嫌味以外の何ものでもない。
少し前の自分ならば「そうやな、もう来んな」と肯定の言葉を発していただろう。
けれども、その時の自分は少しでも彼女の本音を知りたいと思っていたから食い下がった。
「ほんなら、試食係になってくれんか?」
「試食?」
「いま栗を使ったデザート考えてる所やねん。時々、味見しに来てくれへんか?」
有花は、言われた言葉の意味を理解できなかったのかパチパチと瞬きを繰り返した。
「もちろん、タダで構わんよ?」
そう告げると、有花の眉間に皺を寄せた。警戒を示した彼女に俺は言葉を付け加えた。
「毒盛るつもりもあらへん。美味い料理作りたいって気持ちと、あんたとの事は別もんや」
そこまで告げたからか有花は渋々ながらもコクリと小さく頷いた。
+ +
そうして、有花との交流が始まった――
有花は、ただ試食品を食べて感想を言うだけだった。でも、少なからず俺自身に対しても笑みを見せてくれるようになった事が嬉しかった。こちらの話に耳を傾けこちらの話を理解して、一緒に考えてくれる。本当に普通の女の子だということを朱夏はこの時にはっきりと自覚した。
そして、同時に今までの自分はなんと下らない事をしていたのかと思った。もっと早くに歩み寄っていればよかった。そうしたら、ずっとあんな表情をさせなかっただろう、と。
いつの間にか俺は、この先もずっと有花の傍にいたいと思うようになっていた。
今更、何を考えているんだと思った。過去に彼女にしてきた仕打ちがなかったことになるはずもない。それでも、自分が幸せにしてやりたいと思うようになったのだ。
+ +
そんな交流が続いたある日、有花は俺の店であいつと出会った。有花には、あいつの内情を話してはいなかったけれど、分かっていたようだった。月影に関わりのある有花がエデンの住人の事を知らないはずはないだろう。それに、あいつは弟子のようなものだ。その時点で無関係じゃないと言っているのも同然だった。
そして、自分の弟子は、俺に似ずかなりの不器用者だった。始めは、見知らぬ女に訝しげな表情で対応していた。当然だと思う。けど、有花は俺の知り合いだと言ったら、あいつも蔑ろに出来なかったようで渋々と対応していた。
「どこで朱夏さんと知り合ったんだ。タダで食わせてもらって、そんな感想だけかよ」
とにかく、あいつは自分の思いつくままに言っていたと思う。
だけど、有花は、それを苦痛には思っていなかったようだ。
「プライバシーの侵害。それに、私は料理評論家じゃない」
逆に、すっぱり言い返していた。思わず、聞いている俺は噴出してしまって、あいつにギロリと睨まれた。愛想笑いで返すと、あいつは彼女に視線を向けなおした。
「お前に朱夏さんの手料理なんて勿体ねぇ。俺の料理でも食え!」
「どっちでもいい。食べろと言うなら食べる」
「エエー。ちょっと、それはあかんやろ。俺のも食べてやー」
「二つも食べられない」
「じゃあ、交代でええやん? それなら、お前も文句ないやろ?」
「ちっ。朱夏さんがそう言うなら……」
その言い合いが心地よかった。まるで仲間のようだと、思ったのだ。
けれども、そんな居心地のよい日々は、朱夏の知らぬ間に呆気なく終止符を打たされたのだ。
+ +
それから数ヶ月経ったある日、パタリと有花は来なくなった。
最初は、都合でも悪くなったのだろうと気にも留めなかった。けれども、それが一ヶ月も続くとさすがにオカシイと思い始めた。
そして、最近とくに調子の悪いあいつの様子に意識が向いて、俺がいない間に何かがあったのだと悟った。
すぐに、あいつに詰め寄った。すると、あっさりと白状した。
「あの男が……ここに来た」
その言葉で全てを理解した。
あの男――月影怜だ。俺達が住むエデンの主であり、有花の――
「朱夏さん。あいつは俺の事を知ってたのか? 俺たちを裏切ってたのか!?」
「阿呆!」
詰め寄ってくる相手に一喝を入れた。
「お前は、この数ヶ月あいつの何を見てたんや! あいつの本音と嘘くらい見分けろ!」
そう告げると、ハッと気付いたように顔を上げた。
「まさか、あいつ、俺を助けようと……? そんな事ある訳ねぇっ!」
「どう思おうが、お前の勝手や。そやけどな、お前は立派なシェフになるんやろ? それ忘れんな」
あいつを責める事は出来なかった。その場に俺がいても、きっと何も出来なかった。むしろ、もっと悪い展開になっていたかもしれない。そうなったら、俺は悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
あいつの肩をポンと叩いてその場から辞した。
ただ俺がしてやれるのは、それしかなかったのだ。
+ +
それから、二年。初深からエデンに有花がくると聞いて耳を疑った。こんな洒落にならない嘘を初深がつく筈もなく、それは現実となった。
有花がやってきた日、俺はすぐに離れに向かった。閉ざされた扉から顔を出したのは、紛れもない有花だった。髪の毛が伸びたとか、少し痩せたかもしれないとか、そんな感想を心の中に抱き、離れていた月日の長さを知らされて胸が痛んだ。
もっと穏やかに話すつもりだった。けれども、いつまでも作り笑顔を浮かべる有花に腹が立って、核心を突いてしまったのだ。途端に有花の態度が一変した。冷たい言葉を投げかけてくる。拒絶されているのだ。彼女にとってこの二年間は、それだけ辛いものだったのだろうか。そう思うと耐え切れなかった。
ここに来た理由を聞くと、有花は きっぱりと告げた。
「怜と結婚するためよ」
驚いたなんてものじゃない。体の機能という機能が停止してしまうくらいの驚きだった。
有花は、自らで終止符を打とうとしている。全てを切り離す気だ。それは最悪の結果しか生まない。俺が望んでる未来ではない。有花が幸せになれる未来でもない。ただ、昔みたいに戻ってしまうだけだ。
俺は、初めて月影怜を憎いと思った。あんな風に有花を追い詰めたあの男の事を憎いと思った。
けど、逆らえない。俺の店もここに住めるのも、何より生きていけるのは全てあの男のおかげだ。あの男の存在があるからこそ俺達みたいな人間は、平穏に暮らしていける。
違う。そうじゃない。それこそ怜の思う壺だ。俺は、今の自分を不幸だとは思っていない。エデンにいる事も後悔していない。ただ、後悔するとしたら何も出来ないこの状況だ。
「碧が言うてたことが一番正しいやんけ」
此処から出て行けと。冷たい言い方だが、それが一番傷付かない方法だと思う。けど、有花が屋敷に戻ったら、もう一生会わせてはもらえないだろうと思うと直ぐに追い出せない自分がいるのも事実だ。
「……なんや。俺、会いたかっただけやん」
二年経っても忘れていないその感情が湧き出てくる。知らずと苦い笑みが浮かんだ。
それなら、此処でまたあの時のような関係を築けばいい。一人じゃないという事を有花が理解すれば、きっと二の舞にはならない。
「俺は、諦めへんで」
朱夏の決意の炎が燃え上がった瞬間だった。