箱庭エデン 後編
玄関口には誰の靴も見当たらないので、何処かに収納スペースでもあるのだろうか。
洋館なら土足でも気にせず上がれるのだが、ここは日本様式の屋敷だ。靴は脱いで上がるのが常識だろう。
有花は、軽く体を傾けて奥を覗き見た。そこから先は廊下に繋がっているようだ。
(勝手に上がってしまおうか?)
けれども、聞こえてきた足音に慌てて姿勢を元に戻した。
恐らく車のエンジン音を耳にして有花の来訪を悟ったのだろう。もしかしたら、こちらに来る前に実冬が連絡をしてくれていたのかもしれない。流石は月影怜の右腕と呼ばれているだけある。こういった点で抜け目の無い所が、彼の長所かもしれない。
しかし、有花には、”月影怜の弟”という立場にいる彼が己の価値を見出す為に身に着けた処世術であるようにしか見えなかった。そうまでして、あの月影に拘泥するのか。実冬の気持ちを理解しようとは思っていない。彼には彼なりの信条があって、あの館にいるのだろう。
そもそも月影に一番執着しているのは、誰でもない自分である。そうでなければ自分はとうの昔にあの館から去っていたことだろう。去れなかった理由は、もちろん自覚している。解っているだけに、その時の気持ちを思い出すと有花は今でも憂鬱な気分になる。
私は、臆病なのだ。
周りを見ないことで安寧を手に入れていた。
揺り籠の中で甘んじていたのだ。
「思ったよりも来るのが早かったんですね」
聞こえてきた声に有花は思考の渦から現実へ引き戻された。
どうにも考え込むと周りの状況を忘れる癖がある。しかも、こんな大事な場面を迎えるという直前に余所事を考えている場合ではない。
そこで、有花は、心の中で気合の言葉を発すると被っていた帽子を脱ぎ相手へ視線を向けた。
「お久しぶりね、初深」
もちろん、その顔に笑みを貼り付けたまま。
目の前に立っている人物の名は若名初深。わかなはつみ、と、口に出して読んでみると実に女らしい名前である。だからと言って、本人が名前負けしている訳でもない。なかなかその名前に負けず劣らずな容姿の持ち主であった。
少し茶の入った髪は肩にかかる程度まで伸ばされ緩やかなウェーブを描いている。触ればとても柔らかそうだ。おまけに肌の色も白い。御伽話に出てくる王子様に見えなくもないだろう。これが、30を過ぎた男なのだから世の中は不思議なものだ。
けれども、本当のところは天然パーマ故にウェーブがかかっていることも、意図して伸ばしているわけではなく切るのが面倒であまり散髪に行かない結果今の髪型になっていることも、肌が白いのはインドア派だからなのだという事も、有花は知っている。
王子様などと言って頬を染めるのは、その外見だけしか見ていない連中の戯言だろう。
本当は末恐ろしい男なのだ。
何しろ彼は、このエデンの管理者である。
あの月影怜の信頼を得、あまつこのエデンの責任者という地位にいる彼が、ただ容姿が良いという理由だけで選ばれたはずがない。もしも、本当にそれが理由であったならば有花は怜の頬をぶっていることだろう。
それに、彼が曲者であるという事は、有花自身が一番良く知っていた。彼の本性を初対面の時点で見ているのだ。だからこそ逆に笑みを浮かべている今の彼の方が怖いとも言える。
「本当に、あなたは図々しい人ですね」
笑みを浮かべていた初深の顔が瞬時に無表情に変わった。
嫌味を言われるのは想定済みだ。
「ええ」
有花は、構わず笑みを浮かべたまま静かに肯定の言葉を発した。
「ご自分が何をなさっているのか理解されていますか?」
「ええ」
「エデンへの入居を求めるなど、頭の螺子でも取れたのでは?」
「そうかも知れないわね」
「しかも、ここまで来るのに実冬に送らせたそうですね?」
「私は送って欲しいなんて一言も頼んでいないわよ」
しばしの言葉の遣り取り。そこに穏やかさなんてものは存在しない。
ただ冷たい空気が二人を覆っていた。
「……早急に、お帰りください」
「嫌よ」
有花の即答に初深の表情が険しくなった。けれども、有花は未だ笑みを浮かべたまま彼と対峙している。
初深が有花を嫌っている事は、言われずとも解っていることだ。だからといって、ここで折れるわけにはいかなかった。それでは何の為に自分は覚悟を決めたのか分からなくなる。
何があろうとも自分は此処へ入らなければならないのだ。そうしなければ、何も始まらない。
「貴女は、あの時、私が言った言葉を覚えているのでしょう?」
「ええ。おかげさまで忘れる事が出来ないわ」
「それでは、何故――」
「それを貴方に語る必要はない。それに、ここに住んだからといって貴方たちと親睦を深めようなんて思っていないわ」
その言葉に初深が眉を顰めた。
不思議なものだ。あちらが嫌っているのだから、こちらが嫌った発言を取るのは道理に適っているというのに、それでも不快な気持ちになるのだろうか。
否、もしかしたら、その嫌いな人間の管理するエデンへ来たがるのだから狂ってしまったのかと思われたのかもしれない。
本当に狂ってしまえたなら、どれだけ幸せだっただろう。
狂えなかったからこそ、私は私として、ここに在るのだ。
仮に私が狂っているのだとすれば、それは月影に対する思いだけであろう。
唯一それだけは、何をもってしても己の中で消すことの出来ない炎だ。
『有花』と呼ぶあの声が、いつも私を狂わせる。
「貴女の部屋は、離れに用意しています。案内しますのでついてきてください。靴は、そこの棚の空いている所へ入れてください」
あっさりと言われた言葉に、有花は少し拍子抜けしてしまった。
もう少し粘られるのではないかと思っていたのだ。
「そもそも、このエデンは、あの方の所有物です。私が彼の決定に逆らえるはずもないでしょう。追い出そうとしたのは、嫌がらせです」
有花の驚きが顔に出ていたのだろうか、初深はそう述べると背を向けて奥へ進みだした。
彼の台詞に色々と思うところがあったが、有花は彼を追い掛ける為に靴を脱ぐと棚に仕舞いこんだ。
冷静であろうと思っていたのだが、知らずに、その顔に嬉しさが滲み出てしまう。
エデンに住むことが出来るのだ。話でしか聞かないこの園の住人となる。
これで、一歩踏み出すことが出来た。
まだまだ先は長いかもしれない。だけど、道は切り開けた。
「早くしてくれませんか?」
遠くからかけられた言葉に、有花は、顔を引き締めると慌てて彼の元へ駆けていった。