箱庭エデン 前編
私は、必要最低限のものを鞄に詰め込んだ。元から私物はあまりなかったので用意に時間はかからなかった。
鞄の口を閉め、それを肩に掛ける。帽子を被ったところで、まるで計っていたかのようにタイミング良くノックの音が聞こえた。
有花は返事をし、扉へ歩むとノブを捻って開ける。
そこに居たのは一人の青年だった。灰色のスーツに渋めのネクタイ。清潔感溢れた様相。
さぞや年配の奥様方にモテる事だろうと、どうでも言い事を考えてしまった。
「お迎えに上がりました」
丁寧な物腰と浮かべた笑顔にも不快感はない。
けれども、有花は、相手の言葉に眉を顰めた。
「運転手役が僕では不服ですか?」
有花の表情を見逃さなかった相手は、困った表情を浮かべて訊ねてきた。
「いいえ。ただ、実冬が送ってくれるとは思っていなかったから」
有花は弁解の言葉を述べた。
エデンに行く事は、自分が言い出した我が儘だ。だから、誰も手を貸すことはないだろうと思っていたのだ。それ故に、こうして迎えがあることに眉を顰めてしまったというわけだ。
「本当は兄が送る予定だったのですが、スケジュールが詰まっているらしく、お鉢が僕に回ってきたのですよ。それに兄は他の男に貴女を任せたくないのでしょう」
「貴方も男なのでは?」
「僕は、あの人の弟ですから一応の信頼はあるんでしょう。あ、鞄お持ちしますよ」
実冬は苦笑した後、思い出したように手を差し出した。
「重くはないから大丈夫よ」
有花は、首を横に振って遠慮の言葉を投げかけたので、実冬は手を下ろした。
「では、車を持ってまいりますので玄関でお待ちいただけますか?」
代わりの言葉が投げかけられ、有花は肯定するように頷いた。
+ +
エデン。月影が経営している下宿所の名前だ。
有花は、まだ一度もそこを訪れたことがない。
知識だけしかないエデンに足を踏み入れる。
(何て言われるんだろう)
エデンの待ち人は、私の姿を見てきっと眉を顰める事だろう。
むしろ、彼の場合は逆に嫌味なほどの笑顔で出迎えそうだ。
そんな事を考えると笑みが漏れる。案外自分は今の状況を楽しんでいるのかもしれない。
考えてみれば、月影の屋敷を出るのは二年振りだ。
一日のほとんどを屋敷内で過ごしていた自分にとって外界は珍しいものばかりで溢れ返っているといえる。
(でも、エデンは山奥にあるのよね)
窓の外の景色に緑色が増えてきたことで、先ほどの期待は泡となって消えた。
そもそも自分は、その為にエデンに来た訳ではない。
(楽しむためじゃないのに……)
全ては未来の為。その為に有花はエデンに行くことを決断したのだ。
だから、これから先の道は決して楽しいものばかりではない。
むしろ楽しい思い出を作ってしまう方が辛くなる。
有花は窓ガラスに映る自分の表情に気付き、慌てて口の端を上げた。
ガラスに映る自分は、笑みを浮かべてこちらを見ている。
泣かないと決めた。
笑顔が好きだと言ってくれたあの人の為に、決して涙は見せない。
そう誓ったのだ。
辛いのは、私じゃない。
悔しいのは、私じゃない。
悲しいのは、私じゃない。
「有花? 着きましたよ?」
その言葉に思考の渦に嵌っていた有花は、そこでやっと車が停止していた事に気付いた。
実冬は既に車から降りており助手席のドアを開けてこちらに声をかけてきたのだった。
「ありがとう」
笑みを浮かべてお礼の言葉を述べた後で相手の手を借りて車から降りると、相手からどう致してましてと言葉が返ってくる。
そして、実冬は後部座席から鞄を出し、それを有花に手渡した。
それにまたお礼を述べる。
そして、そこで実冬が運転席に戻るだろうと思っていたのだが、彼はじっと有花の顔を見詰めたままだったので、有花は、その視線の意味を問うように首を傾げた。
「……正直に言うと、貴女がここに住むことを僕は反対しておりました」
その言葉に、有花は戸惑うことなく平然とした面持ちで聞いていた。
実冬も月影の人間だ。有花がエデンに関わるのを良しとはしないと考えているのは、理解している。
エデンは元々女性が立ち入るべきではない領域である。
特に有花のような者が関わるべきではないと月影のお偉方は思っているのだろう。
関心を持てば文句を言われ、反対に無関心であっても文句を言われる。
有花が、どんな行動を取ろうとも必ず陰口が付いて回るのだから今更取り繕う気はない。
(それに……)
「でも……これで良かったのかもしれません」
実冬の予期せぬ言葉に、有花は己の思考を停止させた。そして、驚いたように相手に視線を向ける。
実冬は、どこか安心したかのように穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
「あなたは兄から離れた方が良い。兄は……月影怜は、あなたを本気で」
「やめて」
続けて出た言葉を有花は、無理やり遮った。
言葉にして聞きたくはなかった。
それは拭いようのない事実だけれども、音にしてしまえば築いてきたモノが脆く崩れていきそうな気がしたのだ。
その雰囲気を振り払うかのように、有花は、実冬に笑みを向けた。
「実冬、送ってくれてありがとう」
それは、ある意味で退却の合図だった。
有花の言葉の中にその意味を汲み取ったのか実冬は一礼すると運転席へ戻っていった。
エンジンの加速する音が響く。
車は動き出し、有花から遠ざかっていった。
それを見送っていた有花は、車が見えなくなったところで背を向けた。
目の前に立ちはだかるのは、エデン。
横文字の名前が付いているので、月影の屋敷のような洋館を連想されそうだが、全くそれに反して武家屋敷と呼ぶ方がピッタリと来る造りである。
木製で出来た扉と囲まれた塀。木戸をくぐると目前に広がるのは整地された石道路。
少し先に見える平屋建てのそこがエデンと呼ばれる下宿所だ。
「エデン、やっと、ここに来られたのね」
有花はそう呟くと、一度深呼吸をし徐に目の前の扉を引いた。