カレーの味見はできない。
「着きましたよ」
「え? あ、ああ……あ?」
目を開けてみると、目の前に彼女がいた。
料理をしている。よく見る光景だ。
いや。
彼女の料理をするという動作自体はよく見るそれだが、問題は今彼女が居る場所がおかしいのだ。俺の部屋でもなければ、彼女の部屋でもない。
いったいここはどこだ?
六畳ほどのワンルームのアパートのようだ。千夏が今立っているキッチンは玄関から入ってすぐの所に申し訳なさ気に据え付けてある程度のものだ。
部屋の中はというと、床にグレーのカーペットが敷いてあり、黒い小さなテーブルが部屋の真ん中に置かれ、クッション二つを一つの席に並べて置いてある。テーブルの上にはノートパソコンと文庫本が何冊か積み重なっている。
と、そこへドアの鍵がガチャっと鳴り、ドアが開いた。
「ただいま」
「あ、おかえりー」
男が入ってきた。
知らない。俺は知らないぞ、こんな男。
ひょろひょろした細い男だ。眼鏡をかけていて、知的な雰囲気が漂っている。俺には弱そうな男にしか見えないけど。後ろからドロップキックを食らわせたら、真っ二つに折れてしまうだろうな。
それにしてもなんだ、この夫婦のようなやり取りは。
「ただいま?」「おかえり?」
え、そんな、まさか……浮気?
浮気というものですかこれは!?
まさか、千夏に限ってそんなこと。
僕の混乱が火にかけられたヤカンの中のお湯のように徐々に熱くなり、怒りの炎に変換されていくのをよそに、男は千夏に近づきそして唇に軽くキスをする。
そのやり取りはとても慣れたものに見えた。するほうも、されるほうも。
「……!」
咄嗟に俺は男に殴りかかった。
ヤツの鼻を曲げてやる!
男の顔面目がけて右ストレートを繰り出した。しかし、俺の拳はヤツの鼻を曲げることなくすり抜けた。
すっ、と。
あたかもそこに何も無いかのように。野球でバッターが空振りするみたいだ。
「楠木さん、あなたは魂なんですよ、生きた人を殴れはしないんです。」
部屋のほうに視線をやると、案内人がクッションの上に正座している。
「だからやめたほうがいいと言ったんですよ」
「あんたはこれを知ってたのか?」
「はい、あなたのデータはあなたが死んだ瞬間に私の手帳のに記されるので」
「な、なんであんたの手帳に」
「私があなたの担当となった案内人だからです」
なんてこった。
それにしても千夏が浮気……。俺はにわかには信じられなかった。
そんな。誰だよこの男は。
「その男は溝口幸一。千夏さんとは以前、大学で同じゼミに所属していたとのことです。小説家を目指しているようで、現在はフリーターをしながら小説を書く毎日みたいですね。パソコンの横に置いてある文庫本は、彼が執筆中の小説の参考にするための資料みたいなものです。ええと……千夏さんが図書館で借りてきたとのことです。もうお分かりだと思いますが、ここは彼が住んでいるアパートです」
案内人は手帳を見ながら淡々と説明した。彼女を見ていて俺は予備校の講師を思い出した。
たしかこんな感じで淡々と説明していたな。そんな淡々と説明されたって頭の中には何も入ってこないっての。
「今日はカレーなの」
と、千夏が言った。
いつの間にか溝口は千夏の肩に腕を回し、鍋の中をみて幸せそうな顔をしている。
俺も同じような顔をして千夏の作ったカレーを鍋の蓋を開けて覗いたことが何度もある。俺が生きていたら、溝口の顔を親でもわからないぐらいボコボコな顔にしてやるのに!
「もうちょっと落ち着きましょうよ」
案内人は相変わらずクッションの上で正座をしている。熱いお茶でもすすっていそうな佇まいである。
「ちょっと味見させてくれ」
あ、味見だと!?
おいおい溝口、それは俺の役目だ……あ。
千夏が小皿にカレーを少しのせて溝口に渡した。
だめだ、もうこんな光景、見たくない。
最後に一目彼女に会いたいと思ってきたら、なんだこのザマは。浮気されてタダイマでオカエリでキスでカレーだ。
「もういいのですか」
「ああ」
俺は投げやりに応えた。
「次、どうしますか? まだ50分近く残ってますよ」
俺は思考をめぐらせる。
最後なんだ。どうせだったら楽しい思いをしたい。実家にでも行って親の顔でも見るか?
……いや、話せないんだ。あまり意味がないし、余計寂しくなるような気もする。確実に楽しいものを求めるなら……よし。
「……過去だ、過去へ行く! 一番楽しかった頃へ! バスケをやってたあの頃へ!」
「え!?」
案内人が狼狽した。お茶をすすっているような佇まいはどこへやら、何やらわたわたと焦った様子である。
まさか……また何かあるのか?
酷い結末が待っているのか?
いや、それはないはずだ。なにせ過去だ。俺の知っている過去だ。何があったかは俺だって知っている。
「過去へ連れてってくれ」
「ほ、ほかに会いたい人はいないんですか?」
なんだろう。バスガイドから家電量販店のへこへこした店員にでも転職したかのような変わりぶりだな。安い商品を変われないようにより高いものを選ばせているみたいだ、この娘。
「会いたい人はもういない。とにかく過去へ連れてってくれ、頼む」
「わ、わかりました。それではまた私の手を握ってください」
「あ、もう一つ頼みがあるんだけど……」
俺がそう言うと、案内人はにっこりと笑顔になった。俺の心中は彼女に筒抜けだ。その上でこの笑みならば、きっと俺の胸も少しはすっとするだろう。
それにしても、浮気された直後にこういう心境になるのもどうかと思うが、思わず可愛いな、と思った。案内人のそんな表情なんて見られると思ってなかった。
「わかってますよ。それでは行きましょう」
俺は案内人の手を握った。
それからここへ来た時と同じように、俺達はまた光の矢のようになり超高速移動をした。そして、千夏と溝口に向けて光の矢が貫いた。
「千夏……今、何かふっと風が吹いたような、何かが体をすりぬけなかった感じしなかった?」
「う、うん……なんだろ」
千夏と溝口はその日から高熱を出して寝込んだらしい。
案内人、俺の右ストレートなんかよりよっぽど強力な武器持ってんだな。