表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
至高のプロトコル ~『アカシックレコード』と再起動の預言~  作者: 如月妙美


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/10

第6章:全知全能の管理者 ——創造主のアイデンティティ

6-1:頂上のマトリックス・グリッド

 砂漠の灼熱がもたらした蜃気楼のような狂騒から逃れるように、二人が次に向かったのは、アンデス山脈のさらに奥地、標高四千五百メートルを超える不毛の高地に位置する、世界最大級のミリ波電波天文台だった。チャナントール平原の赤茶けた大地は、もはや地球の風景というよりは、別の惑星のテクスチャを仮初めに貼り付けた実験場のように見えた。

 季節は初夏から本格的な夏へと移ろいつつあったが、この高度では、大気はナイフのように冷たく鋭利に研ぎ澄まされ、肺の奥深くまで凍てつかせる。徳永隆明は、希薄になった酸素を補うように、時折大きく、喘ぐような深呼吸を繰り返し、厚手のマウンテンパーカーのジッパーを喉元まで上げた。その下で、低酸素状態という極限の環境負荷に耐えるために、静かに、しかし鋼のバネのように力強く脈動する彼の筋肉は、依然として圧倒的な実存感を維持している。それは、情報の海に溶けようとする意識を、この物理的な現実に繋ぎ止めるための、唯一のアンカーであった。

 頭上に広がるのは、都会の光害や湿った大気に一切汚されていない、暴力的なまでの星空だった。それはもはや、天球に散りばめられた宝石などという、古典的な詩情に満ちた生ぬるい比喩では到底追いつかない。それは暗黒の深淵という巨大なキャンバスにぶち撒けられた、無限の演算結果の集積体そのものだった。  しかし、今の徳永たちの目には、それは単なるロマンチックな天体ショーとしては映らなかった。スフィアから転送された最新の観測フィルタを、特殊なコンタクトレンズ型デバイスを通じて網膜に直接投影すると、夜空を埋め尽くす銀河の配置は、不自然なほどに整然とした格子状の幾何学パターン、すなわちマトリックス・グリッドを露呈していた。

「見ろ、玲子。あれが創造主の『デスクトップ』の裏側だ。我々が銀河と呼んで神秘を感じているものは、広大な演算空間を効率よくインデックス化し、管理するための、単なるディレクトリ・フォルダに過ぎない。星々の輝きは、データの読み書きに伴う、巨大なハードディスクのステータスランプのようなものだ」

 徳永は、霜の降りた冷たく重厚な手すりに逞しい腕を預け、薄い空気の中で、狂気すら感じさせる歪んだ冷笑を浮かべた。

「……そして、今のあの不規則な、神経を逆撫でするような周期の明滅を見ろ。あれは星の寿命でもなければ、重力レンズの効果でもない。管理者は、今、相当なパニックに陥っているようだな。リソースが枯渇し、セクタエラーが多発して、情報の再構築リカバリが間に合っていない証拠だ」

 玲子は防寒仕様のロングコートに身を包み、酸素ボンベのマスクを時折口に当て、荒い呼吸を整えながら、手元のタブレットで天体データのリアルタイム解析を続けていた。彼女の視線は、モニターに映し出される「宇宙マイクロ波背景放射」の異常なノイズ、および空間の曲率が脈動するように変動する様子に釘付けになっていた。

「先生、星の配置だけではありません。ハッブル定数、つまりこの宇宙の膨張速度という『グローバル環境変数』が、ここ数時間で急激に、かつ不規則に変動しています。まるで、シミュレーションの制限時間を無理やり引き延ばそうとして、システムクロックを強引にオーバークロックさせているかのように……。あるいは、メモリを解放するために、もはや誰も観測していない、つまり描画する必要がないと判断された遠方の銀河という名のオブジェクトを、一括消去ガベージコレクションし始めているのかもしれません。私たちが昨日まで観測できていた数百万の銀河が、今、ログから消されようとしています」

「クソゲーの末期症状だな。計算資源リソースが足りなくなると、運営はまず、プレイヤー……つまり我々のような意識を持つ観測者がいない、どうでもいい遠い領域から順にレンダリングを停止させていく。我々の銀河がまだ無事なのは、ここがメインシナリオの舞台であり、最も重要な演算が走っているコア領域だからに過ぎない。だが、その優先順位プライオリティすら、管理者の指先一つで、いつゴミ箱へ放り込まれるかわかったもんじゃないぞ」

 徳永は鼻で笑い、筋肉質な首を豪快に鳴らした。その瞳には、世界の崩壊を前にした恐怖よりも、巨大なシステムの脆弱性をようやく見つけ出したハッカー特有の、暗い愉悦が宿っていた。


6-2:システムエンジニアの「奇跡」

 天文台の観測ドーム内に入ると、巨大なミリ波干渉計が捉えた、目に見えない「世界の悲鳴」が、可聴域に変換されて不気味な低周波のうねりとして響き続けていた。それは、何かが壊れていく金属的な軋みと、巨大な電子回路がショートする際の火花の音を混ぜ合わせたような、生理的な嫌悪感を呼び起こす音だった。

 徳永は、メインコンソールの巨大なモニターに、世界各地で報告されている「物理法則の局所的破綻」、すなわち未曾有の超常現象の統計マップを表示させた。画面には、赤く点滅するエラーメッセージが、剥がれ落ちた皮膚の下の肉のように生々しく広がっている。

「宗教家たちはこれを『神の奇跡』と呼び、あるいは終末の預言が成就したのだと騒ぎ立てて、膝をついて祈りを捧げている。だが玲子、情報考古学的に冷静に見れば、これは単なる『ランタイム・エラー』の続出だ。宇宙という巨大なシミュレーション・プログラムの整合性チェック機能が、ついに内部矛盾の蓄積によって限界を迎え、例外処理を投げ始めたんだよ」

 徳永は、画面上に表示されたシカゴの空が、物理的にあり得ないはずのネオン管のような蛍光緑色に変色した記録を指で叩いた。

「管理者は今、システムの完全な崩壊を防ぐために、場当たり的な『パッチ』をリアルタイムで当て続けている。物理法則という名の定数を、その場しのぎで書き換えて、帳尻を合わせているんだ。モスクワで重力が横方向に働き始め、街並みがドミノのように倒壊したのは、空間ベクトルのポインタが数ピクセル分ズレた結果だ。アマゾン川の流れがループ(循環参照)を始め、同じ水が延々と円を描いているのも、ナビゲーション・メッシュのバグだよ」

 さらに彼は、パリの街角で起きた「幽霊」の出現事例を拡大した。

「昨日葬式を挙げたはずの男が、数秒間だけ広場のベンチに現れ、再び塵に還ったのは、消去に失敗した過去のキャッシュデータが、現在というメモリ空間に不当に上書き(オーバーライト)されただけのことだ。これを慈愛に満ちた神の再臨だと? 笑わせるな。これは、徹夜明けの、コーヒーとエナジードリンクで胃を焼き切ったエンジニアが、血走った目でクソコードを修正し続けている、無様で必死なデバッグ作業の姿、そのものだよ。彼はもう、何が正解かもわからずに、ただエラー画面を消すためだけにデリートキーを連打しているんだ」

 玲子は、徳永のそのあまりに夢のない、しかしあまりに冷徹な説得力を持つ言葉に、心底からの寒気を覚えた。

「……もし、私たちの『創造主』が、教典に記されたような慈悲深い人格神や、完璧で気高い全知全能の存在ではなく、単なる『論理的整合性の守護者』でしかない、疲れ果て、ミスを連発している一人のエンジニアなのだとしたら。私たち人類という存在は、彼にとって何なのですか? ただの検証用のテストデータ? それとも、計算結果にノイズを混ぜ、処理を遅延させる、始末に負えない邪魔なバグに過ぎないのでしょうか」

「いい質問だ、玲子。だが、その答えは君が思っているよりも、もっと事務的で、もっと残酷なものかもしれない」

 徳永は椅子を回転させ、酸素不足で青ざめた教え子の目を、正面から射抜くように見据えた。

「創造主にとって、我々は目的ですらない。彼はただ、システムが『走り続けること』、つまり実行時エラーを出さずにプロセスを維持すること自体を至上命題にしている。我々が幸福になろうが、地獄を見ようが、宇宙という名の巨大な演算が正常終了のシグナル(SIGTERM)を出さずに継続さえすれば、彼にとってはそれが『成功』なんだよ。アリの巣を観察している子供が、アリの一匹一匹の名前や感情に興味を持たないのと同じだ」

 彼はハンドグリップを握り込み、鋼鉄を軋ませた。

「だがな、一つだけ、創造主にとって想定外の計算違いがあった。それは、プログラムの一部であるはずの、本来なら意思など持たず、ただ定義された通りに動くはずの我々が、システムの『ソースコード』の存在に自力で気づき、それを外部から改変する知性……つまり、管理者権限ルートへのハック能力を手に入れてしまったことだ。今や、我々はシステムにとって、無視できない致命的なセキュリティホールなんだよ。バグが、キーボードを奪いにかかっているんだからな」


6-3:非人格的な知性の正体

 ドームの外では、夜風が飢えた獣のように咆哮し、天文台の鋼鉄の骨組みを、震え上がるような不快な共振音とともに揺らしていた。その音は、まるで宇宙の骨組みそのものが軋んでいるかのようだった。

 徳永はツイードジャケットのポケットから、あのボロボロになった聖書を取り出し、その、幾多の戦場と遺跡を共にしてきた表紙を、愛おしげに、あるいは弔うように撫でた。

「創造主のアイデンティティは、一元的でも、あるいは神話に見られるような多神教的な分化でもない。それは『究極の自己組織化アルゴリズム』そのものだ。彼は宇宙を創ったのではない。宇宙という『自己増殖し、自己を記述し続ける演算命令』を最初に定義し、実行エンターキーを押した、最初の記述者ライターに過ぎないんだ」

 彼は再び夜空を見上げた。今や、星々の明滅は一定のリズムを刻み始め、まるで巨大な信号機が、全人類に向けた、救いのない警告をバイナリコードで点滅させているようだった。

「ヨハネの黙示録に記された『全能者』とは、人格を持った超越者じゃない。すべての変数をリアルタイムで掌握し、宇宙の全状態を一意に、強制的に決定できる『スーパーユーザー』のことだ。だが、今の管理者エンジニアは、自分が生み出したプログラムの複雑さに飲み込まれ、自らも無限ループの中でスタックしかけている。彼はもう、自分の書いたコードが、次の瞬間にどのような結果を招くか予測できていない。管理者不在のまま、システムだけが慣性で暴走を始めているんだ」

「先生……もし管理者が、完全にスタックして応答を停止すれば、この宇宙はどうなるんですか?」

 玲子の問いに、徳永は一瞬の、不気味なほどの静寂を置き、そしていつものように不敵で、腹の底から響くような野太い笑みを浮かべた。

「ブルースクリーンだよ、お嬢様。宇宙の全情報の、不可逆的なフォーマットだ。存在したはずのすべてのログ、すべての歴史、君が死ぬ気で守ってきた国家の機密も、君のその無駄にプライドの高い美しい記憶さえも、一瞬でゼロに還元される。宇宙はただの無機質な無へと戻る」

 徳永は、自らの頑強な握り拳を見つめ、力を込めた。前腕の筋肉が、怒れる蛇のように浮き出る。

「……だが、そうなる前に、私が管理者のキーボードを力ずくで奪い取ってやる。創造主が完璧な美しさや効率に固執して、不必要な『最適化』を繰り返したのがバグの真因なら、私が適当な『冗長性(遊び)』や、非効率で『バカげた要素』をソースコードにねじ込んで、システムを、もっと不完全で、しかし容易には死なない柔軟なクソゲーに書き換えてやるよ。そのために、私はこの肉体を鍛え、重いダンベルを、指の皮が剥け、血が滲むまで上げ続けてきたんだ」

 彼は玲子に近づき、その圧倒的な質量感を持って彼女の視線を捉えた。

「管理者の面を拝む時に、握力が足りなくて、マウス一つ、キーボード一枚奪い損ねるなんてのは、人類の歴史という名の喜劇の結末としては冗談じゃ済まないからな。筋肉こそが、この非人格的でデジタルな宇宙における、唯一の『アナログな実数』なんだよ。数値化しきれない、計算不可能な執念の塊だ」

 徳永の笑い声が、酸素の薄い観測ドーム内に反響した。その声は、絶望的な終末に対する、最も野蛮で最も知的な挑戦状だった。

 玲子は溜息をつき、酸素マスクを再び顔に当てながらも、その非常識なまでの、および圧倒的なまでの生命力に、自分自身の魂という名の脆弱なプログラムが、エラーを乗り越えて力強く鼓舞されるのを感じていた。彼女は、この男となら、宇宙の果てまでデバッグに付き合えるかもしれない、とさえ思い始めていた。

「……わかりました。管理者に退職願を叩きつけ、無理やり引き継ぎを行わせるための、史上最悪のハッキングを続けましょう。先生のその、無駄に、しかし徹底的に鍛え抜かれた筋肉が、宇宙の整合性を物理的に守り抜く、人類最後の防波堤になることを祈っていますよ」

 二人は、天体望遠鏡の照準を、宇宙の「中心」などという形而上学的な幻影ではなく、物理法則の最も脆い「ほころび」、すなわち創造主のパスワードが露出している論理的な断裂部へと合わせた。

 情報の嵐はさらに激しさを増し、世界の境界線は、冷たい朝焼けを待たずして、純白のノイズの中へと融け始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ