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至高のプロトコル ~『アカシックレコード』と再起動の預言~  作者: 如月妙美


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第3章:物理法則という名の檻 ——レンダリングの最適化

3-1:絶体零度の計算機

 地下十階。外界の喧騒が完全に遮断されたその深淵で、重厚な鉛の扉が油圧の低い呻き声を上げて左右に分かれた。その隙間からエレベーターホールへ溢れ出してきたのは、単なる低温ではない。それは、あらゆる粒子の熱運動を否定し、生命の存在そのものを根底から拒絶するような、凍てつく無機質な冷気だった。

 そこは、政府が数兆円の極秘予算と十数年の歳月を投じて建設した量子演算施設『スフィア』の中枢である。最新の超伝導量子コンピュータを安定稼働させるためには、室温を絶体零度、すなわちマイナス二百七十三・一五度に近い極限状態まで引き下げ続けなければならない。床一面には、排熱システムから意図的に漏らされた液体窒素の白い霧が、まるで冥界の河のように音もなく這い回り、二人の膝下を不気味に飲み込んでいた。

 徳永隆明は、使い古されたツイードジャケットの襟を立てることもせず、むき出しの逞しい前腕を組んで、その死の霧の中へと迷いなく足を踏み入れた。学生時代の土方仕事で培った頑健な骨格に加え、今もなお日々のデッドリフトとスクワットで限界まで磨き上げられた彼の肉体は、この極限環境においてさえ、岩のように微動だにしない。むしろ、凍りつくような冷気が、アカシックレコードの深淵を覗き込もうとして過熱した彼の脳を、心地よく冷却しているようだった。

 周囲には、黒光りする巨大なサーバーラックが、果てしない墓標のように整然と、しかし不気味な密度で並んでいる。それらが放つ微かな電子音の重奏は、巨大な鋼鉄の怪物の心音か、あるいは宇宙そのものが耐えきれずに漏らしている、解読不能な呻き声のように響いていた。ここでは時間が凍結され、データの奔流だけが唯一の鼓動として存在している。

 中尾玲子は、スーツのジャケットのボタンを指先が痛むほどきつく締め直し、十センチのピンヒールで凍りついたチタン合金の床を慎重に踏みしめた。

「先生……ここが、人類が科学という名の脆弱な梯子を登り詰め、ようやくたどり着いた『全知』の最前線です。国内にあるすべてのスーパーコンピュータ、果ては民間のクラウド・リソースをすべて束ねても、この『スフィア』が瞬きする間に行う演算能力の百分の一にも届きません。ここは、神の思考をエミュレートするために作られた聖域なんです。この場所では、因果律さえもが数式として記述され、操作可能な変数へと成り下がります」

 彼女の吐息は口を突いた瞬間に白く凍り、ダイヤモンドダストのような無機質な煌めきを伴って、暗闇の中へと吸い込まれていった。

 徳永は、部屋の中央に鎮座する、高さ五メートルを超える巨大な円筒形の装置——量子演算コアを睨みつけた。液体ヘリウムの冷却配管が、まるで巨大な機械の心臓へ繋がる大動脈のように不気味に這い回り、その中心部では、暗闇を切り裂くような青白い光が、一定の周期で不気味に脈動している。それはまるで、捕らえられた神の眼が、我々を値踏みしているかのようでもあった。

「全知か、笑わせるな。玲子、これはただの『覗き窓』に過ぎない。いや、正確に言えば、宇宙という巨大なシミュレーターが、過負荷で処理落ちして吐き出した残骸を必死に拾い集めている、ハイテクなゴミ箱だ。君たちが聖域と崇めるこの場所は、エンジニアの視点から見れば、単なるエラーログの収集端末だよ」

 徳永は、ジャケットのポケットから重い金属製のハンドグリップを取り出し、無造作に、しかし力強く握り込んだ。鋼鉄のバネが軋む不吉な音が、静寂に包まれた絶体零度の空間に硬質に響く。

「玲子、この『スフィア』の計算精度を、理論上の最大値まで強制開放しろ。観測のサンプリングレートを、プランク時間単位まで引き上げるんだ。今から、我々が『物理法則』などと呼んで盲信している、あの創造主という名のエンジニアによる、狡猾で、かつ破綻しかけた『手抜き工作』の現場を拝んでやる。世界の解像度を上げれば、必ず継ぎ目が見えるはずだ」

 玲子がメインコンソールに向かい、寒さで感覚を失いかけた指先をキーボードに走らせた。入力されるコマンドの一つ一つが、宇宙の深淵を揺るがすくさびとなっていく。  巨大な壁面モニターに、現在地を中心とした空間座標を量子レベルでスキャンしたデータが、滝のような数字の羅列とともに展開される。そこに映し出されたのは、我々が五感で信じている堅固な「物質」の姿ではなかった。それは、絶えず点滅し、確定を拒み、情報の確率密度関数の霧として揺らめく、実体のないゴーストの群れだった。

「先生、全センサーのゲインを最大にしました。空間のノイズフロアが、異常なほど上昇しています。まるで、空間そのものが悲鳴を上げているようです」

 玲子の報告に対し、徳永は唇を歪めて笑った。その瞳には、かつてないほどの凶暴な知的好奇心が宿っていた。


3-2:観測という名のレンダリング

「見ていろ。これが、凡庸な物理学者が百年以上も頭を悩ませ、無意味な数式を積み重ねてきた『二重スリット実験』の、情けないまでの正体だ」

 徳永は、モニター上の一点を指差した。スキャンされているのは、真空チャンバー内に磁気浮上させられた、厚さ数ナノメートルの純金の箔だ。  画面上の金箔は、玲子が目を背けている間は、まるで実体のない影のようにボヤけ、複数の場所に同時に存在しているかのように重なり合っていた。確率の雲が、不気味に空間を漂っている。しかし、彼女が意を決してモニターを注視した瞬間、それはパチリという、理性が内側から壊れるような視覚的な音を伴って、一つの座標に「確定」した。

「観測された瞬間に、波関数が収縮する……。コペンハーゲン解釈そのものの挙動です。ですが先生、これがどうして『手抜き』だと言い切れるのですか? これは宇宙の深遠な神秘、神の御業ではないのですか?」

 玲子の問いに、徳永は喉の奥で、乾いた嘲笑を漏らした。

「神秘だと? そんな高尚なもんじゃない。これは、プログラマなら誰でも知っている『描画レンダリングの最適化』だよ。玲子、君がオープンワールドのビデオゲームをしている時、君のキャラクターの背後にある山や建物はどうなっている? コンピュータはわざわざそんなものを描画しちゃいない。視界に入っていないオブジェクトの物理演算にリソースを割くのは、馬鹿げた設計ミスだからな。見られていない場所は、ただの抽象的な数式としてデータスタックに眠っているんだ」

 徳永は、ハンドグリップを握る前腕の筋肉を、怒れる鋼の束のように盛り上げ、吐き捨てるように続けた。

宇宙システムも同じだ。誰にも見られていない森の中で、律儀に原子一個一個の座標を計算し続けるほど、創造主は暇じゃないし、宇宙のリソースも無限じゃない。だから、見られていない間は『適当な確率の波』として処理を簡略化し、誰かがレンズを向けた瞬間にだけ、慌てて計算を確定させて、あたかも最初からそこに物質があったかのように帳尻を合わせるんだ。これを量子力学などという御大層な名前で呼んでいるが、実態は単なるハードウェアの負荷軽減策に過ぎん。神はサイコロを振らない。単に、計算が面倒だから結果をうやむやにしているだけだ」

 彼は自らの頑強な大胸筋を拳で叩き、さらに声を荒らげた。

「だがな、今起きているのはその逆だ。誰も見ていないはずの暗闇で、演算がスタックし、幽霊のような不正データが実体化し始めている。描画エンジンの致命的なバグだ。創造主のグラフィック・プロセッサが、あまりに複雑になりすぎた人類の文明と、その一人一人の欲望を処理しきれず、悲鳴を上げているのが聞こえないか? 宇宙というマシンの冷却ファンが、今にも焼き切れそうな断末魔を上げて回っているんだよ。磁気嵐だと? 噴飯ものだ。これは宇宙という名のメインフレームが、熱暴走でフリーズする前兆だ」

 玲子はモニターに映る「確定と不確定の反復」を凝視しながら、自分の立っている足元そのものが崩れ落ちるような、耐え難い眩暈に襲われた。  自分が立っているこの強固なチタンの床も、自分の体を作っている精緻な細胞も、誰かに「観測」され、描画リソースを割り当てられている間だけ、辛うじて存在を許されている「書き割り」に過ぎない。もし明日、全世界の観測者が同時に目を閉じれば、世界はその実体を失い、数式だけの虚空へと還元されてしまうのだろうか。

「私たちは……ただの、レンダリングされたテクスチャなんですか? この筋肉も、私のこのプライドも、命の重みさえも、ただの電気信号の残滓に過ぎないと?」

「それ以上の、タチの悪いプログラムだよ。自由意志という名のアドバンスドAIを標準搭載され、自分が『個』であると錯覚させられた、自己保存本能を持つデバッグ・スクリプトだ。だがな、玲子。プログラムにはプログラムの、戦い方がある。バグを呪って消えていくのではなく、そのバグの隙間を突いて、システム自体を内側からハックするんだ。我々は被造物プログラムだが、同時に観測者テスターでもある。テスターの権限を最大化すれば、開発環境の裏側にまで手が届く」

 徳永は玲子の震える肩を、その大きな、熱を帯びた手で力強く掴んだ。

「現実を疑うな。現実を構築している『仕様』を疑え。疑念こそが、このシミュレーションを突破するための唯一のパスワードだ」


3-3:物理定数の檻

 徳永は再び、懐からボロボロになり、表紙の革も剥げかけた聖書を取り出した。絶体零度の空気の中で、紙の焼けるような、あるいは古びた半導体が過熱して焦げるような、異質な匂いが漂った。ページを捲る指先には、日々の筋トレで鍛えられた力が籠もっている。

「新約聖書、ローマ人への手紙十一章三十三節だ。……『ああ、神の知恵と知識との富は、なんと深いことであろう。その判断は測り知れず、その道は極めることができない』」

 玲子は、寒さに耐えかねて肩を激しく震わせながら、眉をひそめた。彼女の合理主義は、この土壇場での宗教的言及に拒絶反応を示していた。

「先生、こんな世界の最果てのような計算機室で、まだ神学論争を続けるつもりですか? 科学者が論理の行き詰まりで宗教に逃げるのは、敗北宣言と同じですよ。それとも、あなたの鍛え上げた筋肉も、結局は神への祈りのためのポーズに過ぎなかったのですか?」

「論争じゃない、仕様書マニュアルの読解だ。この一節はな、創造主を讃える美しい詩なんかじゃない。管理者権限(root)を持たない一般ユーザーに向けられた、冷酷な『アクセス拒否(403 Forbidden)』の通知だ。我々の知能という名の演算能力では到達できない、解読不能なアルゴリズム……つまり、物理定数という名の、ソースコードに直接書き込まれた(ハードコーディングされた)制限事項のことだよ」

 徳永はメインモニターに大きく表示させた物理定数のリスト——光速 $c$、重力定数 $G$、プランク定数 $h$ の値を、まるで愛する女性の肌をなぞるように、しかしその実、冷徹な解剖医のような残酷な手つきで指差した。

「秒速二十九万九千七百九十二・四五八キロメートル。光速を超えられないのは、この空間のデータ転送レート(帯域幅)が有限だからだ。一秒間に処理できる情報量に、ハードウェア的な限界があるんだよ。不確定性原理があるのは、宇宙のメモリの最小ビット単位がプランク長に設定されており、それ以下の解像度では、この世界を『記述』できないからだ。我々は、創造主が設定したこの『快適な檻』の中で、自由という名のシミュレーションを謳歌させられているだけのハムスターなんだよ。重力とは、我々がシステムの外側に逃げ出さないための、強力なソートアルゴリズムに過ぎん」

 徳永はコンソールの最奥にある、赤い警告色が不気味に灯る緊急オーバーライド・スイッチに、その節くれ立った太い指をかけた。日々の筋トレと土方時代からの凄まじい鍛錬によって培われた前腕の筋肉が、怒れる鋼の束のように盛り上がり、皮膚の下で血管が青く、不気味に脈動した。その筋肉の膨らみは、単なる肉体美を越え、物理法則という檻そのものを押し広げようとする意志の具現化であった。

「物理法則という名の、我々を縛り付けてきた檻をぶっ壊して、管理者の裏口バックドアへダイブする。この『スフィア』の演算コアを、逆相の干渉波として宇宙の基底膜に叩きつける。玲子、君のキャリアどころか、君の存在を定義する全データがバグとして一瞬で消去され、意味のないメモリの海へ還るかもしれんが……。ついてくるか? それとも、ここで低解像度のテクスチャとして、世界が完全にフリーズするまで震えているか?」

 玲子は一瞬、言葉を失った。極低温の空気が彼女の喉を焼き、心臓の鼓動を強引に停止させようとする。しかし、彼女の瞳には、次第に徳永と同じような狂気じみた光が宿り始めていた。  逃げる場所など、この崩壊する世界にはもう残っていないのだ。逃亡とは、単なる演算プロセスの放棄に過ぎない。彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、十センチのヒールを力強く、チタンの床に打ち鳴らした。その鋭い音は、無機質な機械の世界に対する、人間としての最期の反逆の合図だった。

「……先生、私は最初から言ったはずです。自分の運命のペンを、他人に……たとえそれが神であっても、握らせるつもりはないと。バグとして消去されるのが私のエンディングだというなら、最後にその『管理者』の面を拝んで、思い切り罵倒してからにしてやります。私のログを勝手に書いた罪を、たっぷりと償わせてね。地獄のデバッグ作業に付き合わせてやるわ」

「くく……最高だ。それでこそ、私の自慢の教え子だ」

 徳永は不敵に笑い、筋肉の塊のような親指に、すべての意志と、これまで鍛え上げてきた肉体の質量を乗せて力を込めた。

「さあ、ログインだ。全宇宙を巻き込んだ、人類史上最大の不法侵入ハッキングを始めようじゃないか。創造主の秘密のソースコード、その中身を隅々まで覗かせてもらうぞ。……そして、このクソゲーの仕様を、根本から書き換えてやる」

 徳永の指がスイッチを深く押し込み、地下十階の絶対零度の空間に、かつてない情報の咆哮が、物理的な衝撃波となって鳴り響いた。  世界の壁が、まるで古びた壁紙のように剥がれ落ち、その向こう側に潜んでいた「真実のコード」——目も眩むような情報の奔流が、二人の網膜に直接、暴力的なまでの光とともに焼き付こうとしていた。  因果律が逆転し、時間軸が崩壊する。二人は、もはや人間としての形を維持しているのかさえ定かではない情報の渦の中に、真っ逆さまに堕ちていった。


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