吠天-『空』
───天狗になってから、数時間が経った。
最初は、自分の体が変異していくのに動揺した。怖かった。
ただ、ロクを連れてきた"あの男"が振るった暴力が、逆に俺の目を覚ましてくれた。
"力"が胸の奥で脈打った。
ロクを指名しなかった自分が悪いが、"あの男"を連れて入ってきた時の笑顔を見て激しく嫉妬した。
身を焦がすような、激しい炎が腹の底から湧き出た。
そうして───天狗になった。
その実感が全身を熱で満たした。
ロクの店を荒らしたことはわかっていた。
悲鳴も、驚いた顔も、全てわかっていた。
だが不思議と罪悪感はなかった。
何かが吹っ切れたのだろう。
ガールフレンドにフラれて傷心中の俺に、ガールズバーを勧めてくれた友人には感謝しかない。
俺の心の傷痕を埋めるのには充分だった。
そうして───ロクに出会えた。
ロクは優しい。
俺の名前を呼んだ。
水をくれた。
笑った。
あの瞬間だけ確かに俺自身が満たされた。
それ以来、限りなく恋をしたのだと思う。
だから、天狗も、ロクも、手放せるわけがない。
人のままでは出せなかった魅力が全身を駆け巡る感覚があった。
人のままでは見えなかったものが見える。
聞こえなかった音が確かに聞こえる。
民家の屋根の上で、彼女が通るのを待つ。
風の音が告げる。
「これが"力"だ、あの雌は、お前のものだ」
そう聞こえた。
嗚呼、そうだ。確かにロクは俺のものだ。
だから、帰るロクを待つ。
ただそれだけだ。
今日から、俺はロクを守れる。
いや、所有できる。
もう誰にも奪わせない。
朝焼けが彼女の背中を照らす。
ハッキリと、鮮明に、この天狗の目で視える。
さあ、取り戻しに行こう。
翼を広げたその瞬間だった。
「…汝の隣人を愛せ、なんて言うけどさー、さすがにその"愛"、歪みすぎじゃない?」
背後から、ゴホゴホと咳をし、喀血している、"あの男"の声が聞こえた。
血の気が引いた顔で、左手が淡い光を宿していた───"天狗の目"だから視えるような、淡い淡い光だった。
『破』
振り向いたと同時に左腕が振るわれ、全身に痺れが流れた。
飛んで距離を詰めよう、と考え足を踏み出し前傾した姿勢をとろうとした。
そのまま倒れ込んだ。
翼の感覚がない、おかしい。
「オマエ…!」
「俺は飛べないんすよーお兄さん、だから、地に足…まあ屋根の上だけど、地に足つけてやりましょうや、お互いの大切なモンのために。俺、全力で祓わせてもらいますよ」
俺は血の気が引いた、この男は今にも倒れそうなのに、目が死んでない。
何度も腕で口元の血を拭ったのだろう、両腕は自身の血で黒ずんでいた。
彼はスマホを取り出し、操作しながら宣言した。
「俺の『破』は制限時間6分、もう1分半経過したんで、手短に祓わせてもらいまーす」
ゲホゲホと咳をし、また血を吐き出しながらこちらへ走り出した。
俺は起き上がり、姿勢を整えた。
すると彼はスライディングしながら俺の脚を引っ掛け、仰向けになるように倒した。
ドシンと背中に鈍痛が走る。
翼が多少クッションにはなったが、それでも痛みはあった。
起きあがろうとする俺をまた押し倒し、左の薬指のリングに触れた。
『縛』
全身が硬直した、さっきは平気だったのに。
「俺の破戒を成長させてくれたんでねぇ、この『縛』は感謝のプレゼントです。いかがですか?」
ゆらりと体を揺らし、俺に跨り、左の人差し指のリングに触れ、
『輝』
と呟いてから、俺の胸に左手を押し付けた。
体中に激痛が走る、天狗の意識か、俺の意識か、混濁するほどの痛みが毛細血管の隅っこにまで至った。
コイツは右手の親指のリングを噛み、詠唱んだ。
『破戒は我に在り、祈りもまた我に在り──奮え心臓』
風が背に流れ込み、そうして唱えた。
『奮』
押し付けられた左手が更に重みを増す、力を増幅させたのか?
右手も左手の上に重ね、更に更に重みを増やした。
肋骨が割れる音がした、天狗の姿が眼前に浮かび上がり、徐々に乖離していくのを感じた。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、手放したくない。
白目を剥いているのがわかる、なんとかして体に押し留めたい。
全身に力を入れる。
男はまた血を吐いた、俺の顔にかかった。鼻血も出していた。見苦しい。
不快で仕方ない、時間が早く経てば、翼でまた飛び上がろう、そうしてこの男にトドメを刺そう、そう決意した瞬間だった。
ピピピピピピピピ
こいつが設定したタイマーが、鳴った。
胸を押す手も軽くなって、背中に神経がいくのを感じた。
来た。俺はまた飛べる。
両の腕で男を引き剥がし、跳んで、飛んだ。
男の目はあさっての方向を向いていた。
勝った、わかる。
俺が飛び上がり、逃すまいとこいつが左腕を伸ばしながら倒れていく様は、スローモーションに見えた。
すると、ギョロリと目の焦点を俺に合わせ、言った。
「嗚呼、そうだな、『空』、それがいい、そうだよな…」
人差し指と薬指で中指のリングをなぞるのが見えた。
無駄な足掻きだ。
───ご老人、師は言った。
「お前の《五戒輪》は戒律を破ると、体を蝕む痛みが走る。それは残る。だが、確かな"力"になる。どちらを取るかは、自分で決めろ」
中指だけ立てるのは、世の中ではタブーだ。
ただ、人差し指と薬指で中指のリングをなぞる時に、ついつい中指が立ってしまったように思う。
これは───戒律を破ることになったろう。
ロクを守る。その決意だけでここに立った。
覚悟はある。
これまで左の中指のリングだけ、どうも反応が鈍かった。少し光る程度だった。
だがこの追い詰められた状況で、感覚がリングから伝わってきた。
燃えるような熱い感覚、『空』が俺に語りかけてくる。
いままでただの銀だった輪が、はじめて「意志」を持ったように思えた。
なるほどね、他人を護りたいって人一倍強く想った時に、応えてくれるんだな。
指を鳴らせば、『空』、お前がわかるんだな。
そうだな、このピュアな気持ちは…名付けるなら…。
───男はこちらを見つめ、明らかに左腕を俺に向け指を鳴らした。
パチン。
世界から音が消えた。
光も、色も、時間も、薄い皮一枚を剥がれたように消える。
残ったのは、この男の心臓だけの音。
ドッ……ドッ……
天狗の体が、ぬるりと影を吐き出して崩れ落ちる。
その影は、音もなく霧散した。
『空』
『 D’une ardeur brûlante, l’innocence…灼熱にて純情』
「必殺技ってことで、良いっすかね…」
──あの言葉を最後に、視界が心臓の裏側へ沈んでいくように暗転した。
目を開けたとき、まず気づいたのは“鉄の味”だった。
自分の舌を噛んでいたらしい。金属の味と血のぬめりがまだ喉に貼りついている。
それから、手錠。
関節の皮膚が赤黒く腫れていて、まるで俺の手首だけ別人のものみたいに感じた。
パトカーの天井の白い光が、俺の瞳孔に刺さる。
そして、気づく。
──俺は捕まったのだ。
民家の屋根での暴行。
ロクの尾行。
天狗化の残滓が抜けきらないままの、壊れた“恋慕”。
何もかも、言い逃れはできなかった。
ロクは泣きながら通報したらしい。
その声が、まだ鼓膜の裏に、残っている。
肺の奥がまだ“天狗の呼吸”の名残でザラついていて、
ときどき無意識に、鼻腔の奥で風を吸おうとする。
もう翼もないのに。
飛べもしないのに。
それでも身体のどこかが、まだ空へ逃げようとしている。
──このまま檻に入れられたら、俺の中の“残り香”はどこへ行く?
そんなときだった。
耳の奥に、遠くから落ちてくるように、あの男──ジョーの声がした。
「大事なのは、他人を思い遣ることっすよ」
その言葉だけが、なぜか血の味よりも生々しく、俺の脳のどこかに刺さった。
まるで、抜け落ちた爪の下を針で突かれたような痛みだった。
──ああ。
思い遣る、ね。
俺はその言葉を反芻した瞬間、
ロクの“あの怯えた目”を、
やっと思い出した。
それが一番、痛かった。
パトカーは静かに動き出す。
手錠が揺れるたび、金属の冷たさが皮膚を切った。
まだ、血の味がする。




