零
───光の代わりに、音のない風が吹いていた。
頭の奥に、いつか誰かの声がこびりついている。
「ジョー、神さまはきっと見ててくれるよ」
そう言ったのは、育英会の寮母だったか、隣のベッドの少年だったか。
もう思い出せない。
ただ、その誰も、見てくれなかった。
神を、ヒーローを信じたかったが、現れなかった。
祈りというものは、いつも“誰かの不在”を前提にしている。
いない神に、いない父に、いない自分に。
手を合わせるたびに、欠けていく。
"救い"がなかったから、と言うのもおかしいが、中学では暴力に明け暮れた。
寮母に頬を叩かれ、院に入れられた。
そこで、自分の素直さを知った。
周囲の異常さを知った。
こういった人たちに、何かを説けるようになりたい。
言葉が力を凌駕するのだと信じ、改心した…よくある不良モノだ。
そうして、仏教系の高校を卒業して、大学では宗教学を専攻した。
宗派を問わず、神の存在を信じたかった。
だが講義で出てくるのは論理と構造ばかりで、誰も救われなかった。
「信じることが救いだ」と教授は言ったが、その目は、何も信じていない人間の目だった。
──そして、信じられなくなった。
戒律は、ただの飾りだ。
救いは、ただの言葉だ。
宗教は、ただの妄信だ。
そう思っていた。
そんなある日、観光がてら寄った高尾山の麓の裏に広がる谷間で、ひとつの古い寺跡を見つけた。
苔むした石段の先に、崩れかけた山門。
寺としての風体はまだ整っていたが、限界は間近だったろう。
けれど、不思議と“気配”があった。
境内の隅に、竹ぼうきを持つご老人がいた。
住職さんだろうか、俺は吸い込まれるようにその人に話しかけた。
"引力"を感じたのだ。
「"疑念"をお持ちだな、若いの」
しわがれた声で、俺が口を開く前にご老人はこちらを振り返り、語りかけた。
「はい。神仏を専攻していますが、いまだに信じられません」
言葉を引き出された。
「そうして、ここに辿り着いた。神も仏もいる高尾の山に」
ご老人はさらに続けた。
「信じる、信じないは自由だ。だが、"ここ"に来た、ということは導かれた。或いは私との引力があった。そう言っても過言ではないだろう」
ご老人は左手を差し出し、握手を求めた。
わけもわからず、俺も手を出した。
握った瞬間に脳を一閃、光が走った。
血管を巡る血液が、髪の毛の一本一本が、足の小指に至るまでの細胞と神経が、手にとるようにわかった。
そうして温かいご老人の手は握った手を離し、俺を諭した。
「───若いの。信じられぬのなら、それでいい。信じられぬ者にしか視えぬ“祈り”もある、そしてそれは"力"になる」
俺は言葉が追いつかなかった。
少なくとも、宗教学の教授や住職の説教では感じたことのなかった重みが、その一言にはあった。
「ここでは、戒律は飾りではない。だが“枷”でもない。祈りとは本来、誰かのためではなく“自分の欠け目”に触れる行為だ」
ふと、ご老人の背後にある朽ちた祠に目が向いた。
そこだけ空気が濃く、重たい。
まるで、呼吸しているようだった。
「……この祠、まだ信徒が?」
「いない。もう誰も来ない。だが“在るもの”は在り続ける」
ご老人は祠へと歩き、指先でしめ縄をそっと持ち上げた。
「高尾の山には、神も仏も、そして“祓われぬもの”も棲む。若いの、人が祈りを捨てたとき──“残り香”だけが彷徨うのだ」
俺は黙った。
胸の奥に、さっきまでなかった熱が溜まっていく。
「君の目は曇っておる。だが曇りを嫌う必要はない。曇りのまま進む者こそ、“祓師”に向いておる」
「"祓師"……俺が、ですか?」
「そうだ。祈りを知らぬ者は、祈りに溺れぬ。信じぬ者は、名を奪われぬ。何も持たぬ者こそ、持たぬまま“境”に立てる」
理解が追いつかなかった。
しかしそのとき、祠の奥──暗がりから響いてきた。
──ドゥウ……ン……
低い、胸を叩くような呼吸音。
風ではない。
木々でもない。
俺の心臓と、まるで同じリズムだった。
「聞こえるか、若いの」
「……なん、ですか、これ」
「“天狗の息”だよ。ずっと祓われず、ここに縛られたままの」
背筋が凍った。
だが、ご老人は微笑んだままだった。
「怖れるな。怖れと向き合う者だけが、あやつらを祓える。……若いの、君が探していた“神”は、こういう顔もしておる」
祠の奥から、再び呼吸音が漏れる。
今度は少しだけ、俺に応えるように。
その瞬間、胸の中で何かが“返事”をした気がした。
「ここへ通いなさい。僧になりたければ、戒律は後でいい。まずは“自分”を祓えるようになれ。祓師とは、本来そういうものだ」
そうして続けた。
「天狗はな、祈りを食う。……若いの、祈らぬお前は食われにくい」
高尾山の風が、俺の耳元を掠めた。
その風は、確かに吹いていた。
音がないのに、何かが囁くような風だった。
俺はその日、はじめて“祈り”を理解した気がした。
誰のためでもない。
神のためでもない。
“欠けた自分を繋ぎ止める”ための祈りだ。
その帰り道、俺は気づいていた。
──この日を境に、俺は人の祈りを背負う僧になり、そして同時にその祈りを破る“破戒僧”になる未来が決まったのだと。
なぜなら、大切なものは信じたら壊れる。
だから、自分より他人を大切にしてしまう。
リストカットの痛みも、ピアスを開けた痛みも、感じなかった。
ただ、あの子が傷つけられた。
その痛みだけは胸の奥の奥に、在った。俺の皮膚は痛みに鈍いのに、ロクの痛みは刃のように刺さった。
高尾山に祀られている天狗は、しめ縄のほつれが原因でどんどんと八王子駅周辺の───欲がまみれた街に、蔓延る。
高尾山側に、何度要求しても、しめ縄はそのままだった。
だからこそ、俺は祓師になり、八王子の夜を闊歩した。
神も仏もいない。
戒律を破り続けるが故に、五戒輪は常に、"反動"として俺の肉体と精神を削る。
そして天狗は人の心の綻びを狙う。
誰かの心を守るために、「自分の心を壊す」必要があった。
これはどんどんと俺の破戒を進めた。
誰かを救う為に、自分の身を以て刻み込む。
傷だらけの俺を"救ってもらう"為に、ロクに縋った。
職業でもなんでもいい、ただ、添木が欲しかっただけなのだ。
ただ、彼女のいる店で、まさか天狗が現れるとは思っていなかった───。




