吠天
夜の八王子は、酔いと煙の中に沈んでいる。
ロクのいるガールズバー《NEON》は、ビルの四階にある。
階段の壁に貼られたネオンが、紫と赤のグラデーションで目を焼く。
──この色は、欲の匂いだ。
「ジョー、遅いじゃん。また天狗?」
一緒に入店した、ロクが笑った。
黒髪を靡かせ、耳に揺れる十字架のピアス。
その下の首筋に垂れるブランドのネックレス。
今夜も街は、彼女のために廻っている。
「いやあ、仏の説法が長くてね」
「アンタ仏のほうじゃなくて破戒のほうでしょ」
「よくご存じで」
「何にする?」
「紅茶ハイ。あ、無糖ね」
「はいはい」
軽口を交わすと、ロクが支度に移った。
黒く艶やかな髪は、仏でも振り向かせてしまうだろう。
禁欲に生きる者たちが欲を思い出すような、そんな後ろ姿だった。
「ほーんと、色っぽいわ」
「何見てんのよ!」
と網タイツが喋る。
「いけねいけね、ナムナム」
そう言いながら十字を切る。
「汝の隣人の網タイツを愛せ、聖書にも書いてあったな」
「宗教観どうなってんの。まずは頭丸めなさいよ」
「現代はツーブロ坊主が主流なのよ、アーメン」
「あーあ、本当に変な客が常連になっちゃった。私も飲むよー」
「お好きなのをどうぞ、アッラー」
「ジュンさーん、レモンサワー!」
──カウンターを挟んで乾杯をする。
この距離が大事なのだ。
これ以上私が彼に近寄ってしまうと、ひとつ客商売としての矜持が崩れてしまう。
本当は隣に座って、孤独に闘う彼の肩を抱いてやりたい。
けれど、それをしてしまえば風営法に触れる。
あくまで私はキャストで、彼はお客。
そう言い聞かせながら、彼は今をときめくアイドルの話をする。
はいはい、といなしながら白く透き通ったレモンサワーを傾ける。
──その瞬間、空気がねじれた。
氷が弾ける音のあとに、低い唸り声が混じる。
カウンターの端に座っていた学生風の常連が、急に椅子を蹴って立ち上がった。
目が血走っている。
口から漏れる息が白く、冷たい。
「あちゃちゃ、ロクちゃんごめん、俺、連れてきちゃったかな」
ジョーが呟くより早く、男の影が二つに割れた。
割れ目の奥から、黒い羽根が伸びる。
「ヒトノ……オンナ……」
かすれた声。
女のような響き。
だが次の瞬間には轟音だった。
──“吠え”だ。
グラスが一斉に砕け、照明が割れる。
光が歪み、店内の空気が震える。
私は耳を押さえ、カウンターの下にしゃがみ込んだ。
「っ……何、これ……!?」
「吠天──怒りと嫉妬を食って吠える天狗だ」
ジョーは左手を掲げる。
指輪が青白く光る。
左手《五戒輪》、右手《五願輪》。
双方の契約を同時に起動する禁じ手。
「──護と滅、二重発動」
指先で二つのリングに触れた瞬間、空気が弾けた。
透明な膜がロクと店にいた全員を包み、天狗の咆哮を遮る。
だが、その反動でジョーの口から血が一筋垂れた。
「ちょっと……ここ全員は無茶だって!」
「大体の夜は、いつも無茶してるんだよ」
「せめて外でやって!」
「あいあいさー」
──吠天の目がジョーを見据える。
漆黒の瞳が、僧の中に潜む“破戒”を見抜いたように笑った。
「貴様ノ祈リハ偽リダ。破戒僧ノ祈リニ、救イナド、在リ得ルカ!」
「……救いなんか、俺が決めることじゃねぇっしょ」
ジョーは左手を構えた。
“破”と“輝”──両方の戒を同時に解放する。
空気がビリビリと鳴った。
指の骨が悲鳴を上げる。
「お前ら天狗は、いつも人の欲に群がって満たされた気でいやがる。迷惑極まりないよ、けどな、こっちはその“残り香”で食わせてもらってんだ、ありがとよ!」
掌から放たれた光が、吠天の翼を直撃した。
爆風。
羽根が散り、空気が白く閃く。
吠天が悲鳴を上げ、ドアを吹き飛ばして外に逃れる。
だが次の瞬間、ジョーの膝が崩れた。
血が喉から溢れ出す。
左手の中指が、脈打つように熱い。
──“空”の戒が、勝手に震えていた。
未発動の戒が、呼応している。
「やべ……調子に乗ったな……」
視界が霞む。
ロクが駆け寄り、肩を支えた。
「アンタ、そんなに攻撃喰らってた!?」
「……いや、何個も並行して“術式”出すとこうなっちゃうのよね」
口元に血の泡を浮かべながら笑う。
「でも、“守る”契約は、もう交わしたんだ」
ロクが顔を歪める。
その瞬間、吠天の影が蠢いた。
「目、閉じて」
左手が再び光を帯びる。
『“空”──今はまだ、鳴くだけでいい』
指を鳴らす。
──パチン。
光が走り、吠天の影が一瞬だけ動きを止めた。
それは、“ブラフ”に過ぎない。
けれど、その音には確かに、
“破戒僧の祈り”が宿っていた。
『座って空を見上げてごらん』
鼻を乱暴に掴み、引き寄せ、右腕で顎を撃ち抜く。
「いつもの──!」
天狗の目が、死んでいない。
ドウ、と店内を睨み返す。
「今の、結構自信あったんだけどな!」
左の親指のリングに触れ、左腕を煽るように振るう。
『破!』
──刹那、吠天は飛び立ち、姿を消した。
垂れた血をおしぼりで拭い、投げ捨てる。
右手のブレスレットを回し、周囲の記憶をいじった。
「デカい地震があった」とだけ認識させる。
割れたグラスの欠片が、月の光を反射していた。
───こりゃ薬王院さんに、こってり絞られるな。
そう思ったところで、
視界が遠のいた。
ネオンが滲み、夜が一つの光に溶けた。




